本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ぼろは着てても心は錦

2024-10-02 18:51:52 | 十地経

毎日何気なく読んでいる勤行法則

三帰・三竟・十善戒と続きます。

しかしよく考えると、

この中にすべてのお釈迦さまの

教えが詰まっているようです。

普通、お釈迦さまの弟子になると

五戒という戒を授かります。

 

殺生・偸盗・邪淫・妄語・不酒飲

の五つです。

このうち、

十善戒の身業の三つが

殺生・偸盗・邪淫として

取り入れられて、

口業は妄語が代表して

後の、綺語・悪口・両舌は

その中に含まれています。

ただ、意業は入っていません。

まずは、形に現れる身業と

口は禍の元で、妄語が代表し、

お酒という、身近で困った問題も

起こったから取り入れられた

と思うのです。

 

色々な儀式がありますが

私が一番感動するのは得度式です。

お釈迦さまのお弟子になるという。

弟子某ソレガシ

未来際ミライサイを尽くすまで

この戒をよく保や否や、と

戒師から聞かれ、

弟子は、よくたもつ、

と答えるのです。

十の戒それぞれに聞いていきます

いよいよこの子も仏の弟子となり

戒を守り、修行に励むのかと

思うと目頭が熱くなります。

 

そのように戒を護るというのが

仏弟子の第一歩です。

その中で、前回は性戒と遮戒と

いうことが出てきました。

性というのは具わっている

ということで、

性戒というのは本来人間として

具わっている善悪の判断基準

ということで、

殺生・偸盗・邪淫・妄語という

ことがありました。

 

いつも唱えているのですが

どれ一つとっても守れるものは

ありません、

守れないから唱えない

というのではなく、

守れないからこそ毎回繰り返し

唱えるのです。

 

この性戒といわれる

殺生・偸盗・邪淫・妄語は

教えなくても具わっている、

講義では良識・ボンサンスという

理性とか低い意味では常識

ということが言われていました。

 

ある法律家の方が、

法律に頼るようであれば

それは一番低い最低の問題だと

言われてました。

そういうことに頼らなくても

本来具わっている性戒という

ものがあれば法律に訴えなくても

解決できるのです。

 

ザビエルという人も

ただ偶然に日本にやってきた

のではなく、

インドで日本人に出会った

その人を見て勤勉で嘘もつかない

そういう人柄を見て

日本人こそ福音を伝える民族だ

という確信で日本に来たのです。

日本人はみすぼらしい家に住んで

着るものも粗末なものを着ている

しかしその心は

気高く信仰心が篤く

福音を伝えるに十分な素質を

もった民族であるということを

イエズス会の本部に伝えています。

 

その時代の日本人は

嘘をついてはいけない、

怠けてはいけない

そういう、一番下の基本レベルの

性戒というものが

具わっていたのでしょう。

 

今のレベルでは

法律に触れさえしなければ

何をしてもかまわない、とか

また犯したとしても

責任を取ろうともせず

その責任は秘書に押し付ける

本当に良識以前の問題のように

思います。

 

随犯随制で、

犯したらまた新たな法律を作る

作っても、またその抜け道を探す

そこでまた作るというように

人間の最低のボンサンスという

ことが失われてきているように

思うのです。

 

ぼろは着てても心は錦

という歌があったようですが

今の時代、

ブランドは着てても心は疎か

という時代のように思うのですが。

 

 

 

 

 

 

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