本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間成就

2022-10-05 20:50:56 | 十地経

「人間成就」

何か分かったようで分からない

人間に生まれたことの意義は

自分が自分になる

というか、

本当の自分を見つける

ということでしょう

 

どんなに、

有名になってお金を儲けても

自分が分からなかったら

生まれた意義も

分からなくなり

せっかくの人生が無駄に

なってしまうような

気がします

 

十地経の講義では

「法に触れて、

人間は色のない人間に

なれるんです。

無色透明な。

何のくさ味もない人間。

坊主臭いことがない。

坊主臭くなければ

百姓臭いとか、

そういうもんじゃない。

いかなる臭みもない。

だからそんな人は

どこにおったか

気がつかんほど形がない。

 

仏者らしさのない

完全に人間の中に

自己を没しきるような人

ですね。

仏者という色や姿を

人間そのものになってしまう

こういうのが人間成就

というもんだと思います。

 

法というものがなければ、

人間というものは

どんなにくさ味を取ろうと

思っても取れんのです。

何か臭いものを持っとる。

 

つまり凡夫ということは

ただ人ということです。

ただの人なんだ。

凡夫になるというのじゃない

本当の凡夫に帰るという、

本来の。

 

凡夫という立場に立って

初めて人間を超えた法に

触れるんです。

人間が賢かったら

法がはたらきようがない。

腹に一物あるんですから、

はたらいてみようがない。

体験だの理論だの思索だの

そんな下らんものを

持っとるから

法がはたらきようがない。」

 

 

多分、お釈迦さまの

苦行の時の姿でしょう

痩せこけてあばらは見え

背中の骨も見えています

 

お釈迦さまというけど

実際の姿は痩せた老人

ということが

書いてありました

こういう姿が実際の

お姿だったのかもしれません

涅槃に入られたときも

はたから見れば

痩せた老人が

生き倒れになった

ということです

それが

ずっとお側にいた阿難尊者

から見れば

痩せた老人ではなく

光り輝く姿に見えた

それがあの大きな光り輝く

涅槃像になったのです。

 

法を具現した

というのは光り輝くのでなく

無色透明な人になった

ということなのでしょう。

 

当院にいる僧侶たち

最初の頃はどうにもこうにも

衣を着ても様にならない

何ともちぐはぐな感じ

なのですが

それが今では

すっかり衣も身に馴染み

坊さんらしくなってきた

先生の言葉を借りれば

「坊主臭さがでてきた」

ということでしょう

 

まあ、そこからが修行で

坊主臭さがなくなってくる

そこまで修行するのが

本当の修行でしょう。

 

安田先生もよく

「鳥が飛んだ

でも跡形もないではないか

飛んだという事実はある

しかし跡形もない」

ということを話されて

おられました。

 

しかし、

跡形もなく生きる

ということは

本当に難しいことのようです

 

 

 

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