本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

山の中に咲く「さくら」

2020-04-11 16:50:45 | 住職の活動日記

今年はどこの桜の名所も閉ざされ

ひっそりと咲いていたのでは

ないでしょうか

 

「人見るもよし

  人見らぬもよし

   我は咲くなり」

 

と武者小路実篤の歌のように

いつもと変わらぬように

咲いています。

 

 

誰もいない山の中へ

見事な桜を見つけました

 

 

大きなため池の畔に咲く桜

でも今頃は

散り始めているでしょう

 

 

道沿いの桜も美しい

誰もいないのがもったいない

 

 

このさくらも川の中に

一本だけ枝を伸ばしているのです

 

 

このさくらもよく見ると

幹や枝の周りには

枯れた蔦が絡まっています

誰も手が届かない所に

咲いています

 

 

車でひとっ走り

ちょっと山中へ入ると

いろいろな桜に出会えます

 

 

川の両岸に咲いています

今頃は花吹雪

雪の散る速さと桜の散る速さは

同じだそうです

 

「みよしのの高嶺の桜ちりにけり

  あらしも白き春のあけぼの」

と、

後鳥羽上皇は詠んでおられます

この歌を評して

「上皇に眼は、予測不可能な

明け方の風の動きを、

一瞬たりとも見逃すまいと、

息を殺してカメラを構える

プロの映像作家に近い」

といっておられます。

 

 

その下には山吹も見えます

更に木陰へ入っていくと

陰の所には

 

 

シャガの群生です

漢字では「射干」と書きます

人知れず咲くようで好きな花

でも、

ご本人はなかなかたくましく

地下茎が横に旺盛に生えていき

こういう群落を形成するのです

 

 

なんだかいいですよね!

 

人目を避けるように

山の中へ入ってみましたが

どこも春爛漫でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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大人のラジオ体操

2020-04-10 20:27:39 | 住職の活動日記

引きこもっておりますので

ひたすらテレビが友という状態で

イスにへばりついています

 

ふと思い出したのが

「大人のラジオ体操」

やっと見つけて

 

 

中村格子先生の本とDVDが

セットになったものです。

 

ラジオ体操第一は

音楽を聞くとほぼ覚えております

しかし、

子どものころからやっている体操

はやはり我流

 

 

テレビを見ながら

コツを教えていただくと

結構、体にこたえるものです。

 

ツボに注意しながらやっていくと

少し汗ばんできます

たかが、ラジオ体操と

思っていたのですが

されどラジオ体操です。

先生の言われるとおりにすると

意外や意外

体のあちこちに効いてきます

今まで使ってなかった筋肉や筋

までもが伸びたようです。

 

身体がスッキリした感じがします

どことなく、姿勢もよくなった

気がします。

 

しばらく続けてみようと思います。

 

ちょっとした時間を見つけ

やってみるのもいいし

朝とか時間を決めてやるのも

生活にリズムが付くような

気がします。

 

おすすめですよ!!

 

 

 

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「ケチ」という煩悩

2020-04-09 20:28:26 | 住職の活動日記

「ケチ」も煩悩の一つです

随煩悩が20ありますが

その中の一つに「慳」ケン、という

名前で出てきます。

 

先日のテレビで

やっと30万円という補助がある

という報道がありましたが

これが又非常に複雑で

どういう方がもらえるのか

その線引きが非常に難しいようで

コメンテイターの方が

つまり、ケチとうことですかね

とおっしゃっていました。

 

そういえば煩悩にも

「慳」というつまりケチという

煩悩があったことを思い出しました

 

もの吝(オシ)みすること。

吝嗇(リンショク)と出ています。

この慳ということも大きく分けて

二つあって

財慳と法慳という財と法に対する

財物と教法のそれぞれに

吝(やぶさか)なこと。

ということです。

 

「やぶさか」という言葉も

たまに聞きますが

ものおしみという「吝」のこと

なのです。

 

もう少し経典をみて見ると

実に詳しく分析しています。

どういうことが「慳」なのか

 

財と法とに耽着(タンチャク)して

恵捨する能わず、

秘悋(ヒリン)するを性と為し、

能く不慳を障(サ)えて鄙畜(ビチク)

するを業となす。

 

というように出てきます

難しい言葉もありますが

なんとなく分かるような?

 

「耽着」というのは、

財と法とにしがみついて

執着しているということです。

「耽」はふける、溺れる、

しがみついている。

放したくないという根性が耽着、

 

「恵捨すること能わず」

人の為に投げ出すことが出来ない

 

「秘悋するを業となす」

秘悋とは大切にしてぐっと握って

持っていて離さない。

秘は秘蔵、悋は惜しむ、

しっかり持っていて、

惜しんで離さない。

 

「能く不慳を障えて鄙畜するを」

鄙(ビ)はきたない、

鄙畜はきたなく貯えるという。

だから、

よくあの人はきたない人だ、

というのが「慳」のことです。

出すべきものを出さない、

というのがきたないといいます。

何でもけちる。

5出さなければいけないところ

3しか出さない。

これもきたないといいます。

 

難しい言葉ですが

私たちの根性を見事に

いい当てています。

出すべき時にはちゃんと出す

出し渋るのを慳というのです。

 

まして今、

緊急非常事態

明日の生活にも困っている人

そういう方には

物惜しみせずに出すべきでしょう

自分のお金でもないのですから

なんかスッキリしません

 

30万頂くにも

その手続きが複雑すぎて

申請するのも大変でしょう

もし通ったとしても

出るのは早くて7月ごろとか

それまでにつぶれてしまう人が

出てしまいそうです。

 

コロナも心配ですが

こちらの救済の方も心配です

どうぞよろしく

スピード上げて

よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

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天上天下 唯我独尊

2020-04-08 15:35:19 | 住職の活動日記

今日は

お釈迦さまがお生まれになった

誕生日「花まつり」です。

親しみを込めて分かりやすい

ということもあって

「お釈迦さま」といいますが

ただし言い方ではありません

正しくは

「釈迦牟尼世尊」

(シャカムニセソン)

牟尼というのはインドの言葉で

黙していくもの、

黙々と修行する人ということで

釈迦族のなかで黙々と修行し

世の中の尊い人になられた

ということで、

釈迦牟尼世尊といいます。

 

お釈迦様御在世当時は

略して「世尊」という言い方が

多かったようです

今でも南方の仏教徒は

お釈迦さまの十号といって

十の名前を一気に唱えます

 

「タターガタ(如来)

 アラハン(阿羅漢・応供)

 サンマーサンブッダ(正遍知)

 ヴィッジャチャラナサンパンナ

 (明行足・ミョウギョウソク)

 スガタ(善逝・ゼンゼ)

 ローカヴィドゥ(世間解)

 アヌッタラ(無上士)

 プリサダンマサーラッティ

 (調御丈夫ジョウゴジョウブ)

サッターデーヴァマヌッサーナム

 (天人師)

 ブッダ・バガバント(仏・世尊)

 

舌を噛みそうな名前ですが

略さずに全部呼ぶのです。

 

インドではお釈迦さまの誕生は

5月の満月の日と決まっています

ちょうど昨晩はスーパームーンで

 

 

美しい月が見れました

インドでは四季がなく

ホット・ホッタ―・ホッテストと

いうぐらいで太陽はあまり

好まれなかったのでしょう

暑い一日が終わり

涼しくなった夜が好まれた

ということでしょう。

 

菩提樹苑に生えているシンボルの

「菩提樹」この木陰はとても

涼しく気持ちがいいものです。

お観音様にお参りする時

この菩提樹の下でお参りすると

ちょっとお釈迦さまの気分が

味わえるような気がします。

 

そういうこともあってでしょう

お釈迦さまのご一生は

3本の樹で象徴されています

無憂樹の木の下でお生まれになり

菩提樹の下で悟りを開き

沙羅双樹の下で涅槃にはいられる

ということです

 

ところで、誕生は

お釈迦さまがお生まれになる

前から始まっています

お母様の摩耶夫人が

6本の牙が生えた白い像が

お腹に入ってくる夢を見られる

それで託胎されるのです

そして、

お産のため母親の実家へ帰る途中

ルンビニー園の無憂樹の下で

お釈迦さまをお生みになる

しかし、

お母様はお生みになると

産後の日立ちが悪く

亡くなってしまわれます。

 

お釈迦さまは生まれるとすぐに

七歩歩んで天と地を指さし

「天上天下・唯我独尊」

と、産声を上げられたのです

子を願う親の身からすれば

このように聞こえたのでしょう。

 

七歩というのは

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・

人間・天、という

六つの迷いの世界を

一歩越えられた

ということを表現しているのです

 

独尊ということは

何も自分だけが一人偉い

ということではなく

一人ということは「いちにん」

とも呼び、

「自分は自分の主人公」

といった方もおられますように

独立の独だと思います

孤立の孤ではないのです

自分の問題として

全責任を引き受けていく、

 

お釈迦さまも仏教を開くために

富も位も捨てて出家された

わけではありません

弘法大師も波濤を越えて

命を懸けて唐へ行かれたのも

真言宗を開くためではないのです

ただ一つの問題を知るために

人類的な問題を抱えて

入唐されたのです。

 

そこには

独というのは

一人でなければ解決できない問題

みんなと共に考えましょう

という問題ではないのです

さとりを開いてみたら

それは人類のみんなの問題だった

ということでしょう。

 

「尊い」ということも

人とは比べられない

自分は自分の問題を持っている

それはかけがえのない問題である

そういうことで

尊いと言われたのだと思います。

 

我が家には

祖父が大事にされていた

出家釈迦像があります

それこそ骨と皮だけの

痩せこけた姿です

そのお姿をお参りして

お生まれになったことを思い

お参りしました。

 

 

 

 

 

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やっと芽を吹きだした山法師

2020-04-07 20:27:30 | 住職の活動日記

庭の山法師も

よく見るとあちこちに

新しい芽を出しているようです

 

 

殺風景だった裏の庭も

これから目を出し生い茂って

いくことでしょう

 

 

枝が伸びて葉を落とし

その伸びた枝の先から

新しい葉を出していく

その部分が成長したところでしょう

少しずつですが

確実に大きくなってきています

 

 

青空に向かって新芽を伸ばす

土の中で蓄えていた命を

今度は空に向かって葉を広げ

また

新しい力を手に入れてるのです

そして私たちには

涼しい木陰を作ってくれます

 

外に出ると

 

 

近鉄沿線の土手には

野生の名の花が咲きだしています

 

 

全体としてみる菜の花も

美しいのですが

一つだけ取り出して

アップで見ると

また、違った趣に見えてきます。

 

春が来た、春が来た

ですね

どこそこにも

春の息吹が感じられます。

けれども

つい先ほど「緊急事態宣言」が

出されました。

あまり浮かれてもおれませんが

身近なところで

春を感じることはできますね!

 

 

 

 

 

 

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哲学しよう!

2020-04-06 21:02:34 | 住職の活動日記

本当は「哲学」という

言葉自体嫌いだったのです

何かしら小難しい理屈を言って

と思っていたのです。

 

十地経講義を読むようになって

いたるところに哲学用語やら

哲学者の名前が出てくる

そして、先生も

仏教も哲学というフィルター

を通さなければいけないだろう

と、それによって

仏教ということも鍛えなおす

というか

再吟味しなおす必要があるのでは

ないかと仰っておられました。

 

ということで、

今更といってはなんですけど

これはほんの少しだけでも

触っておかなければと思い

軽く触れる程度に

やり始めたのです。

 

「哲」という字も

名前にしても、哲・さとし、

哲彦さんとか使われます

意味は物事を深くわきまえる

ということで、知ることにも

通じるようです。

「哲学」というと

人生の意義など究極の根本原理を

求める学問とあります。

 

フィロソフィー(philosophy)を

西周(ニシアマネ)という方が

賢哲の明智を希求する意味で

最初は希哲学と訳したと、

広辞苑は出ています。

 

ギリシャ語で

「知」(sophy)を愛する(philos)

ということが語源のようです。

 

ということは

本当のことが知りたい

という欲求、心が動きだす

もとになる心です

 

お釈迦さまも出家の動機は

というと、

人間とは何か

なぜ悩み苦しむのか

という問いが始まりでしょう。

 

録画しておいた

「玄奘三蔵」の物語を

あらためて見直してみると

コメンテイターの方々は

どうしても世間的な眼でしか

見ることができないようですが

そうではなく

本当のことを知るためには

命なんか惜しくない

命を懸けて本当のことを知りたい

ということが本当のことでしょう

 

昔の祖師方は

皆命を懸けて道を求めらた

後ではどうでも解釈ができますが

ご本人は何も

こういう宗派を開き広めよう

などとは思ってもおられなかった

ただひたすら

生まれて死ぬという人間の

真実はどこになるのか

という問いだったと思います

それが

共感する人たちによって

大きな集団となって来た

というだけであって

最初は自分一人(いちにん)が

問題となったのです。

 

今、自粛自粛で

ジッと家にいることが

自分にも他の人にも

最大のためになることですので

こういう時こそ

「哲学しましょう!」

何も難しいことを考える

のではなく、

些細なことでも

見たもの聞いたものを

どういうことだろうか?

何と不思議なことだろうと

見直してみるのも

哲学の始まりではないでしょうか

 

「世界は不思議の建立」

 

と言った方もおられたように

思います。

案外身近なところに

ころがっているように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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往生・おうべいか

2020-04-05 17:20:04 | 住職の活動日記

亡くなられたことを「往生」と

いいますが、

字を見ると、「往きて生まれる」

と書きます

ちょっと不思議に思うのですが

「極楽往生」

という言葉もありますから

死ぬんではないんだ

極楽浄土へ往きて生れる

ということでしょう

 

また、往生という意味には

難儀するというような

どうしようもなくなる

という意味合いもあります

阿蘇の五岳にも往生岳という

山もあります

さほど高くはないのですが

学生自分登った時

突然霧に見舞われ一寸先は闇

という状態になり

道に迷い、さまよい続け

霧が晴れてみると

すんでの所で崖っぷちに

来ていました。

その時の言葉が

「往生岳あって往生した」

ということでした。

 

何気なく辞書を見ていると

往生とは、

いのち終わって他の世界に

ゆき生まれること

また、往生をねがうのを願生

という、とあります。

悩んだり苦しんだりという

この迷いの世界を離れ浄土へ行く

ということを往生というのです

 

その下の項目を見ると

「おうべいか」ということが

出ています。

この言葉も仏教用語なのか

 

昨日の「志村どうぶつ園」

「タカアンドトシ」という人も

レギュラーのようで

その人のネタが「欧米化」

漢字は違うが読みは同じ

志村さんに

「もう一つネタが欲しい」

と相談したところ

「一つあれば十分

それは素晴らしいネタですよ」

「自分は何十年かけて

やっと、バカ殿様と変なおじさん

この二つだけ

欧米化をやり続けなさい」

と言われたそうです。

 

で、仏教でいう「おうべいか」は

奥萆迦と書きます

aupayika(アーウパイカ)を

音写した言葉です。

「爾り・シカリ」「好し」

「͡是の如くなるべし」

というような意味の言葉です

持戒作法を成し了った時、

師である阿闍梨が認可を与える

時の言葉が「奥萆迦」です

「これで好し」

というようなことでしょう

それに対して

弟子は師に向かって

「善哉(センザイ)・善哉」

(sâdhu・サードゥ)と

善いかな・善いかなという

わけです

お経の最後の文句は

「善哉・善哉」で終わっています

 

なんだか、この二つの言葉が

私なりつながったのです

志村さんは

「バカ殿様と変なおじさん」

をやり続けられた

小さな子供さんもお散歩の

志村さんを見るなり

「変なおじさん」と

慌ててお母さんが

子供の口を覆う

志村さんはにこにこして

変なおじさんよ、と

それほどまでに浸透した

志村さんのネタ

 

それで、

その二つのネタで

「志村さんは志村さんになった」

それこそ

「往きて生まれた」

のではないかと思います。

 

自分が本当の自分になる

これこそが

往きて生まれる・往生する

ということでしょう

本当の自分に出会うことなく

うろうろしているのが

私たちでしょう

それをやりきったところに

志村さんのすばらしさがあると

思います

 

タカアンドトシも

「欧米化」をいかに

自分のものにしていくかが

志村さんからの宿題

のようにも思います。

そうすると

志村さんから

「奥萆迦」(オウベイカ)と

言われるかもしれませんね。

それに答えて

タカアンドトシも

「善哉・善哉」(サードゥ)

と言えば

それこそ仏の対話のようですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「志村どうぶつ園」

2020-04-04 21:03:18 | 住職の活動日記

志村けんさんが亡くなられてから

テレビも特集番組が組まれ

NHKや8時だよ全員集合など

昨日は金スマ

そして今日は「志村どうぶつ園」

 

笑ったり涙がこぼれたり

あらためて見る

志村さんの愛情豊かな振る舞い

人も動物も関係なく愛された

 

縁あるすべての人が我が家族

というような接し方

自分の家族という

小さな料簡ではなく

すべての人を家族として

愛された様子がうかがえます

 

特に、

熊本のカドリードミニオンの

パンくん

ロケが終わっても後追いして

離れようとしないパンくん

パンくとのお見合いを見守る

志村園長

その子供が生まれてからは

まるで、

自分の孫が生まれたような

可愛がりようです

 

本当に愛情があふれた人だった

あらためて思い知りました

亡くなられても

本当に沢山のことを残された

縁があった人や動物たちまでもが

悲しみ涙を流し

その死を悼んだ

やはりすごい人だったんです

 

志村さんの心は誰かの心に

深く根差したことでしょう

その心をどう自分で表現するか

それは

志村さんの死を受け止めた方の

これからの課題です

 

もっと生きていてほしかった

でも

亡くなられたその時までが

全人生です

70年という

今では早い死ですが

それはそれで志村さんが

すべてを投げ打ってこられた

生き様です

全力投球であればこそ

その生き方が感動を呼ぶと

思います

 

志村けんさんの死を

大切にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「不滅の法灯」

2020-04-03 17:13:59 | 住職の活動日記

788年 伝教大師・最澄が

比叡山に一乗止観院を開く時

薬師如来に燈明をお供えし

そのときに詠まれた歌が

 

「明けらけく のちの仏の

  御世(ミヨ)までも

 光つたえよ 法(ノリ)の

   ともしび」

 

というものです

それ以来、比叡山では

1200年間守り続けてこられ

その明かりが「不滅の法灯」

と呼ばれています。

 

お釈迦さまが涅槃に入られる時

 

「自燈明 法燈明」

自らを依り所(燈明)とし

他を依り所としてはならない

法と依り所(燈明)として

他を依り所としてはならない

 

と説かれました。

迷いの暗闇にあって

教えということは明かりです

お釈迦さまの教えを象徴するもの

として燈明、灯りということは

とても大切にされました。

 

しかし、

この燈明を守るということは

とても大変なことなのです

「油断大敵」

という言葉もあるように

燈明の油が切れるということは

明かりが消えてしまいます。

それだけではなく

燈明には灯芯(トウシン)が必要で

この灯芯の管理が難しいのです

灯芯は燃えていくと

それはカーボンになって

その灯芯切り(カーボンを切る)

をしないと、

それで「灯芯切り」という道具

もあるくらいです

それで灯芯のカス(カーボン)が

落ちて、時には火事という

大変なことになてしまいます。

 

平安時代の貴族も

そして、その頃の僧侶も

夜型の生活だったようで

そのために、火事が出たという

記録が多数あるようです。

 

以前は、

お寺ではこの灯芯を使い

菜種油の燈明を使っていました

そのときに消した後は

必ず灯芯切りをして

次に備えて灯芯を少し出しておく

この作業を怠ると

前に残っていた灯芯のカス

(カーボン)が落ちてしまう

それで、大変なことになるという

ですから、

燈明を守るということは

並大抵なことではないのです。

 

それを1200年間

守り続けてこられたということは

大変なご努力だったと思います

お聞きすると

その役目は誰と決まっていない

気が付いた人が注意して見守る

ということだそうです

それほど皆の心がお光(法灯)

を守るということに

注がれていたのでしょう。

 

以前何かの縁で

ある燈明を守るということが

ありました

その時はオリンピックの

ランプにも使われたという

ランタンを取り寄せ

守り続けたのですが

やはり消えるということもある

のではなかろうかと

二重に安全策を練って

もう一つは線香を一日続くように

香盤に線香を繋げるとか

または炭として灰の中にうずめ

守ったものです。

 

今は、

便利なガスとかいうものもあり

比較的簡単に保存できるのでは

ないかと思います

オリンピックの灯も

来年まで守り続けねばなりません

 

「不滅の法灯」も

来年は最澄が亡くなって

1200年という節目の年

それで、4月から全国を回る

ということです。

 

明かりを消さないということも

大変なことですが

それ以上に

釈尊の教えを守り伝えることは

もっと大変なことと思います。

「光つたえよ 法のともしび」です

 

 

 

 

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70歳就業法成立

2020-04-02 20:06:04 | 住職の活動日記

今日、4月2日の京都新聞

社説に「70歳就業法成立」

ー安心して働ける環境にー

という記事が出ていました。

 

希望する人が70歳まで働ける

ように、企業に就業機会確保の

努力を課する

という内容です

なるほど、70歳まで働ける

これはいいのでは

と思っていたのですが

そう簡単なものではない

ようです。

 

3月31日、京都新聞

ープリズムーという欄には

 ~議論なき国会~

ということで、

ここも微妙なところで

「雇用」ではなく「就業」

としているところが論点と

あります

働けるんだ!!

と単純に喜べない問題が

そこにはあるようです

就業となると

労働者保護法制の適用外に

なってしまうということです。

 

就業ということになると

フリーランスや起業を望む人に

業務委託したりすることもでき

ここには

雇用保険など働く人を守る

仕組みがなく不安定な環境に

置かれるということです

とくに、高齢になってくると

仕事中のちょっとした事故も

増えてきます

企業との雇用関係がなくなれば

労働者の立場は弱くなってしまう

 

4月1日の記事には

小さい見出しで

「70歳就業法成立」とあります

ポイントは

希望する従業員に対し70歳まで

就業機会を確保するよう努める

とか

高年齢雇用継続給付の給付率を

2025年度から引き下げる

のほか5項目が書いてあります

 

もう、70歳を過ぎた私には

あまり関係ないようなのですが

70歳というところが

気掛かりになり見ていたのです

 

マスコミでも

あまり大きく

取り上げられませんでしたが

読んでみるとなにかしら

重要な問題があっという間に

決定していくようです

「プリズム」というコラムを

書かれた日比野敏陽さんは

 

「安倍晋三政権は、

複数の法案を一括して国会に

提出して通過させる手法を

よく使う。

今国会に提出された、

高齢者雇用安定法(高年法)

など6本の改正法もそうした

扱いだ。

衆院審議は実質2日間。」

 

ということを書いておられます

スピード感をもって

とよくおっしゃておられますが

本当にあっというスピードで

重要な法案がそれも一括で

通過していく

しかし、

今、テレビのワイドショーでは

コロナウイルスの問題ばかり

それに対する国会の答弁も

スピード感をもって、と

いわれるのだが

閉店していく中小企業の方々

それにともない

そこに関わっておられる家族

今日明日が問題なのに

来週ごろから一家庭に

マスク2枚を配布するという

 

どうもピントがずれているような

気がしてなりません。

高年法とかはわずか衆院で2日

参院で3日で成立させる

そこはえらいスピードなのに

肝心な、

もっと、早急に手を打たなければ

いけない問題がたくさんある

今こそ、

庶民に対して手厚い保護を

打ち出さなければいけない

ような気がしてなりません。

 

何とかスピード感をもって

よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

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