かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

謎の商売人

2012年02月10日 | 無償の労働、贈与とお金

今、最先端の巨大ショッピングモールの一角に、そこだけ不釣合いなゴミの山のような場所がある。

近づいてみると、それはゴミの山ではなくて、無造作に積み上げられた商品の山であることがわかる。

しかも、その商品は、野菜から鍋や釜、箒などの掃除道具、トイレットペーパーから自転車、電化製品まで、ありとあらゆる領域の商品?モノ?が積み上げられている。

その無造作な「ゴミ」山とも思われる空間の真ん中には、一箇所だけ「穴」を掘ったようなところがある。

その真ん中の穴には、ひとりの六十代くらいのオバサンが、レジを一台かかえるようにして、携帯を片手に忙しそうに動いている。

 目の前の客?をそのオバサンは、「効率」などということとはまったく関係なしに、ただ求められたことをテキパキとさばき続けている。

 そのオバサンは、馴染みの客が来れば、車だって携帯一本で仕入れられそうな感じである。

 そのゴミの山で扱っている商品の大半は、もちろん同じ敷地内のショッピングモールに入れば、ちゃんとしたものを手に入れることができるものばかりだ。

 なのに、いったいなんのためにそのオバサンは、そのような商売をしているのか?

 巨大ショッピングセンターに家業の店をつぶされた腹いせに、そのようなことをやりだしたのだろうか?

 いや、今のその商売は、前以上に繁盛しているとも見える。

 オバサンの「品揃え」は、コンビニのPOSシステムなどでは、およそありえない品揃えばかりだ。

 しかもそのオバサンの店?の営業時間は、まったく不明。

 扱っているものが様々なものなので、仕入れのために、ひとりで遠くまでいかなければならないこともあるからだ。

 いつも一通りのモノを売り切ると、そのオバサンは、ゴミのやまにシートをかぶせて、ロープで簡単に縛っただけで、その場を立ち去ってしまう。

 立派に逞しく稼いでいるひとりのオバサンの姿は、巨大ショッピングモールの一角に、まるで挑戦状のように突きつけられている。

 

今日、保険屋さんとの打ち合わせで、前橋南インター前の巨大ショッピングモールに行き、その横にある、まるでグーグルかアップル社の本社かと思うようなベイシアの本社ビルをみた印象があまりにも強かったせいか、

今、こんな夢をみた。

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facebookを去った男

2011年04月01日 | 無償の労働、贈与とお金
マーク・ザッカーバーグとダスティン・モスコヴィッツとともにfacebookた創業したひとり、クリス・ヒューズのことは、わたしは映画「ソーシャル・ネットワーク」のなかではじめて知りました。

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
クリエーター情報なし
日経BP社


ザッカーバーグがプログラム開発に専念してパソコンに向かっている間に、資金繰りなどで奔走し、お互いに出来ないことを補い合う不可欠の存在でありながら、互いの仕事の内容を理解できず、溝が深まっていってしまう。

映画のなかでは対立の構図ばかりが強調されていた感じがしたが、実際のヒューズは、他の二人と違ってソフトウエア自体には興味がなかった。

「どうしたら人々がお互いに結びついて物事をシェアしあい、オンラインのコミュニティがユーザーの生活を豊かにできるかを考えることに熱中していた。」

これこそが、ソーシャル・ネットワークのテクノロジーを成功に導く核心部分です。

ヒューズは、facebookが1000万人を超えるユーザーを獲得した2007年2月、まさにこれからという時期にfacebookを退社する。




彼の次のミッションは、新たな企業の立ち上げではなく、当時一兵卒のイリノイ州選出上院議員だったバラク・オバマのために、オンラインによる選挙活動を立ち上げることだった。市民の集団的パワーへのオバマの信念にヒューズは動かされた。
彼はこう言う。
「オバマのためでなければ、そしてあのタイミングでなければfacebookを辞めることはなかったね」

オバマの選挙活動にとってヒューズほどの適任者はいなかった。インターネットを使ってサポーターを組織し、動かすことにかけて、彼の右に出る者はいない。

ヒューズは、数ヶ月もたたないうちに、マイ・バラクオバマ・ドットコム(その後マイボ[MyBo]と呼ばれるようになる)と「チェンジのために投票を」[Vote for Change]という二つのサイトを立ち上げた。
そしてさまざまなツーツを開発する。

そのひとつが、マイボ活動追跡ツールだ。
これは、人々が自分の選挙活動を管理するためのツールだが、重要なのは、このシステムが選挙運動をインタラクティヴなゲームに変えたことだ。しかも、ばかデカい賞品のかかった真剣勝負―――つまり大統領選挙である。

ユーザーはイベントを催すごとに15ポイント、個人の資金集めのサイトに寄付が集まるたびに15ポイント、イベントに参加すると3ポイント、ブログにアップするごとに3ポイントが獲得できる。

またオンラインの活動よりもオフラインの活動にポイントが多く配点された。

マイボは、「コラボレーション」と「健全な競争」というツボにぴったりはまった。
2008年11月の大統領選挙までに7万人を超える個人の資金集めサイトと20万を超える地域の草の根イベントをとおして3000万ドルが集まった。
その上、18歳から35歳の若い世代の投票率は過去最高を記録した。

それはヒューズが25歳になる前のことだった。

シェア からビジネスを生みだす新戦略
レイチェル・ボッツマン,ルー・ロジャース
日本放送出版協会


 上記の本より抜粋





こうしたしくみが、今、このたびの東日本大震災の義援金集めに大きな力を発揮するようになりました。
しかし、日本の場合、まだお金集めのしくみが出来たばかりで、ヒューズのように、

「どうしたら人々がお互いに結びついて物事をシェアしあい、オンラインのコミュニティがユーザーの生活を豊かにできるか」といった、しくみづくりには十分至っているとはいえない。


でも、今、世界中でこうしたインフラが整いつつあることが嬉しくてなりません。

世の中全体が、「所有権」の時代から「利用権」の時代へ移行しはじめている。

アトムの経済からビットの経済に移行しはじめている。

莫大な資本がなくても、これまでの時代に比べたら、劇的に、お金をかけずとも大抵のことは実現可能になった。

もちろん政府の問題はあるが、他人に文句を言っている暇があれば、たいていのことは自分で解決できる時代になった。


すでに手がかりは、ヒューズらが、多くのものをつくってくれている。

さあ、これから始動だ!
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「交換」と「贈与」

2010年01月03日 | 無償の労働、贈与とお金

以下は、中沢新一著 『 純粋な自然の贈与』 講談社学術文庫についての文ですが、書評ではありません。
わたしの雑感です。




以前、モースの『贈与論』の紹介を書いたことがありますが、中沢新一氏のこれまでの著作も含めて、どうも私は
「贈与」の問題を社会学や文化人類学的観点よりも純粋・経済的観点の延長からのみとらえる傾向にありました。

その傾向は今でもあまり変わらないのですが、モースの『贈与論』や中沢新一氏の著作をそうした意味で正しく読むことをせずに、自分の論点に都合のよい部分のみに着目していたと思います。

そうした私の誤読が、どのようなものであったのかを今回の講談社学術文庫版『純粋な自然の贈与』では、だいぶ整理することができたような気がします。

わたしは常々、人間の経済活動というものを人間の労働からのみとらえ、大自然からの贈与の部分が計算に入れられていない問題をこれからどう位置付けたらよいのかといったことにこだわっていました。

それを経済的な観点からのみ考えると、水や空気、植物や地下資源などに対する対価をメーカーには払っているかのようでありながら、現実にはその企業は大自然に対しては何も払っていない今の社会構造の問題があります。
企業は、土地の所有者や、鉱物などの資源を掘り出す労働者などへの代価は払っていますが、それらを供給してくれている大元の自然にたいしては、まったく何の対価も払わずに、その占有権のみを根拠に略奪を繰り返してしています。
この不足している部分を、ボランティアや国家助成、環境税などで補完されるに留まっている限り、社会は健全な姿にはなりえないと思います。

人間に対して対価を要求せず、常に無償で与え続けてくれる大自然に対して、後に取り返しのつかないその損害に気付いたときのみ、我われはなんらかの代価を払う必要性を感じることが多いものです。
人間の経済活動のしくみをこれからどう変えていったら良いのか、環境税などの手段だけでは根本解決にならない根源の生産の在り方から見直さなければならないと思っていました。

ところが、本書で述べられていることや中沢氏が一貫して論究していることは、そうしたことよりも重点は、もう少し別のところにあります。
それは、この「大自然の贈与」そのものの価値を人間がどう受け止めてきたのかということです。
確かに、大自然は無償のものとして自らを様々な富として人間に与えてくれますが、それを人間がなんらかの有用な富と感じる限りにおいて、必ずそこには「魂」の交換といったような営みがなされていました。

その「魂」の営みとしての交換は、大自然が与えてくれる富そのものの価値を人間が感じれば感じるほど、なんらかの返礼を伴ったものでした。
その返礼とは、計量、計測できないものであるからこそ、その価値を感じるだけの「なんらかの」返礼であったわけです。

そもそも価値とは、主観的なものであるという本質的な姿がここにはあります。

それを計量、計測可能なものとした瞬間から、その行為は経済行為となります。
どちらも「交換」なのですが、交換の相手が「不特定」の対象になったときから、計測、計量可能な価値として表現する必要が生まれたように思えます。

もともと計測不能で「主観的」であることを本質とする「価値」を、異なる主観と交換すること、より不特定の異なる主観と交換し合うことが、「主観的なもの」のなかに「より客観的なもの」を増やしていく必然性があったわけです。

中沢氏の考察は、この「使用価値(質)=主観」が「交換価値(量)=客観」に変換される前の段階、つまり「価値がそれぞれ固有の主観的価値(使用価値)として計量しがたい意味を持っていたときの「交換」の姿を、様々な観点から検証しているのです。

大自然の側からは、絶対に返礼を要求していない、母親の無償の愛と同じようなものであるという意味で、それはあくまでも「贈与」であるのですが、それを受け取る人間が与えてくれたものの価値を感じる限り、なんらかの「返礼」が必然的におきるわけです。

これはどこまでも、「経済的交換」とは言いがたい、「返礼」、「お布施」、あるいは祭壇への「捧げもの」といったようなもので、互いに計量できないもの同士で、それぞれ与えられたものと返礼するものとが等価であるかどうかは判断しがたいもの同士であるが、それが「魂」の交換といった表現で語られると、計量できないかもしれないが等価に近いものとしてバランスを取っていることに間違いはないことがわかる。

今まで、人間が経済行為以外に、なんらかのものと等価の交換をしていた社会があったとすると、多くは遠い古代社会の話であるか、未開社会の行為としてしか見られませんでした。

しかし、「価値」というものの本質を「主観的なもの」、個別具体的な「使用価値」としてとらえると、量や客観性に置き換える前の段階というものが、必ずしも未開社会特有の経済の未成熟段階のこととは言い切れない現実に気づき始めたように思えるのです。

そうしたことを中沢氏は、本書の目次の表現では
「すばらしい日本捕鯨」
「日本思想の原郷」
「バスケットボール神学」
「ゴダールとマルクス」
「バルトークにかえれ」
「新贈与論序説」
「ディケンズの亡霊」などの独立した小論で書いているのですが、この目次表現ではおそらく想像はつかないでしょう。
私も、最初もくじを見たときはそうでした。

しかし、読み始めると、その一見独立した小論それぞれが、どれも宝の山でした。

(けっこうたくさん仕入れたのですが、まだ店頭ではそれほど動いていません。)

経済行為以前に、自らが価値を感じた分だけ、その対象との間で自分自身の内のバランスがとれるように、なんらかの返礼を行う。
これがすべて「魂」の交換というものなのかどうかはわかりませんが、すごく納得できる論理です。

最近になって、私は特別の信仰心があるわけではないのですが、神社・仏閣に行くことがとても増えました。
その多くは、歴史への興味関心からだったのですが、いつからともなく神社にいったときは、大自然の生命力への感謝を強く感じるようになりました。
お寺にいったときは不安にくれる人間への慈悲の心に感謝するようになりました。

それが積み重なるにつれて、次第に、ただ手を合わせる(それすらも最近までしていませんでした)だけでは気持ちがすまなくなってきました。

こんな本を読んだこともありますが、今年の初詣では、お賽銭にお札を投げ入れるまでになりました。
それでようやく私自身の「魂」の交換のバランスが、少しだけとれるような気がするからです。

「贈与」とは、返礼をしたくなければそれでもかまわない。
価値を感じたらそれだけやればよい。
そうした関係で、なにも強制するものはありません。

しかし、その価値を感じたものを表現した返礼の分だけの、相手のバランスが保たれ、価値相応の関係が生まれるのを感じます。


この本、冒頭の「すばらしい日本捕鯨」のところだけでも、あるいは「新贈与論序説」のところだけでも
多くの人に読んでもらいたいと思っています。

 

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雇用問題の背後にあるより大きな課題

2009年11月27日 | 無償の労働、贈与とお金
数日前、この1年で失業者の数が100万人近く増えたらしいという記事を見ました。
政府に対して新たな雇用対策を求める声も大きくなっています。
それは当然のことですが、わたしがなんとなく恐ろしく感じてしまうのは、この問題の背後にあるもっと大きい課題が、ほとんど問題にされていないことです。

その第一は、過去の雇用対策が打たれた時代とは異なり、今の日本や世界の先進国がかかえている問題は、ここ1年を凌げばなんとかなるといったような環境ではないということです。

まだまだ当分の間、世界の市場は縮小し続ける構造に変わりはなく、唯一の頼みは中国、インドなどの新興国市場ということになっています。

厳しい雇用環境が当分続くことが予想される時期に、急場しのぎだけの雇用対策(それだけでも必要なほどひっ迫した現実はある)だけでは、十分な効果は期待できないはずです。


そして第二の問題は、先のことから必然的に起きているもうひとつの現実ですが、実際の失業者の後ろに、膨大な失業予備軍がひかえているということです。
この失業予備軍とは、明日、解雇されるかもしれない人たちだけでなく、業績の先ゆき不安をかかえている企業の大半の従業員が、多かれ少なかれ、明日は我が身とばかりに将来への不安を感じた同じような環境におかれているということです。

これは個人が今の仕事のどのように考えているか、心理的なアンケートでもとらないとその実態は表に出てこないものです。
しかし、実際の失業者の数倍どころではない数の人びとが間違いなく同様の心理状態にあるといえます。

これらの問題を見た時に、今、社会で求められていることは、失業者救済が緊急の課題であることに異論はないのですが、それだけでなく、既存企業の事業の活性化こそが根本で求められているのだと思います。

それを雇用の問題から捉えなおせば、決して雇用創出を第一に考えた現代版ニューディール政策型の景気刺激策ではなく、既存企業の経営革新や企業内起業、企業内創業といったタイプの事業支援であるべきたと思うのです。

雇用創出というと、どうしてもベンチャーなど新規事業への支援ばかりが話題になりますが、労働力総人口から問題を捉えなおすという意味と、労働力需要そのものの活性化から考えるならば、既存企業の経営革新こそが、もっと中心課題に据えられなければならないのではないでしょうか。

現実には、個々の企業の経営革新に政治的な援助を施すことは、税制やごく一部の補助金以外は難しいことかもしれません。
しかし、経済の活性化を考えるならば、むしろ個々の事業のイノベーションとは、最も本質的な課題であるはずです。
政治力だけに頼らず、あらゆる手立てで行われるべきものです。

これは、私がずっとこだわっているテーマのひとつでもあるのですが、
起業力・創業力・イノベーションの時代
でも書いていますが、より根本的には、会社や政治の問題として捉える前に、
雇用者、被雇用者にかかわりなく、働く者すべてにとって、働いて生きていくということは
「今、自分の直面した問題に立ち向かい、それを解決していくこと」
という大原則に多くの人が気づき、もっとそれに撤することなのではないかと感じています。

労働条件などの問題も決して無視できないのは確かですが、そうした問題も含めて、それに直面している自分達自身が解決していく姿勢こそ、今取り戻さなければならないと思います。

経営不振、売上不振に陥っているそれぞれの事業、職場の問題を
そこにいるあなたが解決することなくして、社会一般の景気回復はありえないのだということです。

もちろんひとり個人の力では太刀打ち出来ない問題が多いのは、どこも同じでしょう。
経営者の姿勢が変わらない限り、どうしようもないことも多いでしょう。
親会社など、上の企業の影響下でどうすることもできない現実もあると思います。

しかし、問題を解決するというのは、
まさにそういう現状から脱却する方法を見つけ出すことに他ならないのです。

業績を伸ばしている企業とは、どこもこうした困難をなんらかのかたちで克服した会社のことです。
個人の場合であっても同じです。
こうした問題を、景気のせい、業界のせい、社長のせい、部下のせいにしている限りは、たとえ新たな職にありつけたとしても、その人はまた解雇の不安から逃れることのできない職場にしかいられないのです。

これは決して、能力のある人にしか出来ないというようなことではありません。
人が働いて食べていく限り、社会で生きていく限り、誰もが身につけなければならないことであると同時に、本来、生きた感性があれば誰もが持っているはずの能力です。

たしかに、それは簡単なことではないかもしれません。
しかし、そう難しいことでもないものだと思います。

自分が食っていけるかどうかの大事な問題のために、
1日のなかで1、2時間を、ルーチンワーク以外の問題解決のための時間に振りあてるだけで、かなり多くの問題は、前進もしくは解決することは出来るのです。

毎日のなかに15分から30分の現状変革を目的としたミーティングを続けるだけでも、流れは変えられるのです。

もし、それが難しいというのならば、
それは仕事が忙しくて経営の根本問題に取り組む暇がないと言っているのと同じではないでしょうか。


雇用対策でも、景気刺激策でもなんでもやっていただきたいのですが、
ひとりひとりが、まず自分の直面した問題から逃げずに立ち向かう姿勢というものを、今、働いている人、ひとりひとりが取り戻すことこそ、景気・雇用問題解決の王道であると思います。

そもそも、その会社が直面している難局を乗り越える力無くして、この厳しい時代を生き抜く競争力のある企業にはなり得ません。

今、働いている労働者や経営者が直面している課題から逃げることなく、立ち向かわずに、何か他の良い仕事にありつけることはありません。

というと、どうしても意識の問題になってしまいますが、もし、政策的にこれらの問題を推進するものを何か考えるとすれば、文化・教養や知識を身につける学校ではなく、働いている人びとが生きて食べていくための学問・智慧を身につける学校を、今こそつくるべきだと思います。
本来の学校とは、そういうものであったはずです。
また本来の学問も、そういうものであったはずです。
もっとも、それを考えるならば、地域の学校よりも先に、それぞれの企業・事業体のなかで行われるべき問題ですが、かといってこれは決して「実学」に偏った産学体制を目指すものでもありません。

あくまでも、自分自身の直面した問題に立ち向かい解決する力を身につけるということです。


ワクワクする仕事に不況はありません。

ワクワクする仕事は、どんなに働いても過労死もありません。

そうしたワクワクする仕事とは、目の前の困難を自分たちの力で解決していく醍醐味のことです。


もちろん、それでもどうすることも出来ないこともあります。
しかし、この姿勢を持っていれば、次へ次へとつながる手がかりは、
必ずつかめるのではないでしょうか。

このことにさえ気づけば、
何も問題はないのだと
私は勝手に思っています。


ま、
これはノーテンキ楽観主義者の独り言です。。。。
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「市民」=「消費者」じゃないの続き

2009年04月11日 | 無償の労働、贈与とお金
実は5月の連休明けに、今の仕事をしてきた私としては画期的な6日間の休みを取り、奈良の室生寺からはじまって、二上山、葛城山方面、吉野の山から熊野古道にかけての旅に行くことを決めました。

それで丁度ETCの割引と政府の購入助成金をあてにして、私も車にETCを取り付けようと思ったのですが、助成制度枠が拡大されたとのニュースがあっても、商品が市場になく、現在では予約すら受けてもらえない状態なので、5月中旬の旅行のETCの利用はほぼあきらめています。

そんな矛盾を感じているところに、今度はエコカーなどへの車買い替ええの助成制度がまた出されたとのニュースが入ってきました。

とことん、まだ余裕のある生活者への助成ばかり打ち出してくる政策に、ほんとあきれ果ててしまっています。

ETCをあてにしていた身でありながら、もう間に合わないとわかったら、こんな無駄な助成には意地でも乗ってなるのもかと見栄を張っている私でありますが・・・・

どう考えても出てくる施策はどれも、市場の消費刺激による下支えばかりで、生活破綻の危機に瀕している人びとへは、まったく目が向いていない感じです。求められる産業構造の転換を促す施策もほとんど見られないまま、従来のばら撒き予算の延長ばかりが出されてきます。

これらのことからも、今の政府は、市民を企業の生産物の恩恵をうけるだけのただの「消費者」としか見ていないことがよくわかります。

私たちが求めている内需の拡大とは、このようなもののことを言っているのではありません。

企業の生産物を買ってくれる外国の市場が縮小したから、国内で消費してくれるようにもっと市場や消費者を刺激することが、内需拡大につながるものとはとても思えません。

ここからはわたしの個人的な発想の表現になりますが、内需拡大のためには、「消費者」的な市民の購買力を高めることよりも、「市民」が「消費者」的な立場よりも「生産者」的な立場に徹するよう変化していくことこそが、真の「内需」拡大、強い国民経済を築きあげていく条件であると考えます。

この「生産者」としての市民の姿こそ、原丈人さんの『21世紀の国富論』でも指摘されるこれからの時代の社会的富の実態を語るキーワードではないかと思うのです。

会社勤めで得たサラリーを消費にあてることでなりたつ市民生活ではなく、会社勤めにかかわり無く、市民生活そのものが生産的活動であることを認識して、生活を組み立てなおすことこそが、強い社会基盤(経済基盤)を育てるもとなのではないかと思うのです。

このことはもう少し説明が必要ですが、今回は端折ります。

私の本職である書店の業務をしていても、つくづく感じるのですが、本そのものを読んでくれる読者を育てる活動はたしかに大事ですが、読書そのものを目的とした読者に頼るよりも、生活上や仕事上の目的をはっきりと持っている人のサポートに徹した方が、実際にはより大きなお金が動くのです。

実際に純粋に本が好きだと読書家を自称しているひとたちよりも、なんらかの自分の専門領域を持っている人のほうが、手段としての読書ではありますが、はるかに多くの本を買い、実際に消化している場合が多く見られます。

よく誤解されてしまうのですが、教育などの現場で読書の習慣化などを目指した取り組み事態はとても大事で、すばらしいことです。そのことは否定しません。

でも、その場合でもただ「読む」ことよりも大事なことを忘れないように心がけてもらいたいものです。

この「手段」としての読書とおなじく、「手段」としての消費こそが、「自己目的」としての読書や消費を上回る力を持っているのであり、「真の内需」拡大の根源的原動力になるのだと思います。

本屋の仕事をしていながら、まったく申しわけないのですが、つい大事なお客さんに対して、そんな本ばかり読んでいないで自分自身の直面している問題に真剣に立ち向かうほうが大事でしょ、と言いたくなってしまうことがどうも多いのです。

少し端折って結論だけ書くと、強い地域社会や国家を築くには、生産されたものの量を増やすことや、それらを消費する購買力を高めることを目的とするのではなく、それらの担っている市民ひとりひとりが、「生産者」「創造者」としての立場で市民生活全体を組み立てなおすことこそが求められているのだと思うのです。

 わたしは『21世紀の国富論』をそのような視点で読み解いていきたいと考えています。

 この間のニュースを見ていて、どうしてもこのことを往復書簡のなかにいれておきたく書いてみました。

 つぎは、また元の挫折していたテーマに戻ろうと思っています。



       別のブログ「未来人とかみつけ岩坊の往復書簡」より加筆転載
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「市民」=「消費者」じゃない

2009年03月22日 | 無償の労働、贈与とお金
また、うまくまとめられそうにないテーマをつらつらと書いてみます。

先日、あるひとと会話していてうまく説明できなかったことです。

現代においては、生産と消費が分離させられていることをあたりまえのように感じているように思えますが、その問題が今の不況打開策を語るときに、さらに矛盾を深めることにつながってしまっているのを感じます。

エコノミストは、この経済危機を脱するには、まず冷え込んだ消費マインドを刺激してやることが大事だという。
定額給付金はそうした意味合いがあるとのこと。

悲しいばかりの発想です。

今の政治の流れは、その悲しい発想を変えることができません。

話のなにがかみ合わないのでしょうか。
発想のどこが違うのでしょうか。

確かにこれまでの経済の発展は、消費の拡大によって支えられてきました。
内需の限界は、外需の拡大によってささえられてきました。

ところが今の世界的な経済危機の現実は、これらの市場の拡大という錬金術が、すでに10年、20年前から破綻していたことを気づかせてくれるものです。

金融工学を駆使してあらゆるところから資本を集めて、実質は先進国内部ではなく途上国の市場拡大でささえられてきた経済発展。

この現実をもっとよく見ておかなければならない。

アメリカの購買力が衰えている現実、途上国の経済発展が鈍化している現実、それらは不況という景気循環の規模の大きなものではない。

数字だけをみても、内需の拡大がいかに大事であるかは誰もが気がつく。

でもそれは消費マインドの刺激で解決できるような問題ではない。

ここからの説明が、どうもまだ整理できない。

突破口は、知恵を出せばいろいろなところから開けるものだろうけれども、これからの時代の「内需」ってなんなのだろうか、といった疑問がわくのです。


 これまでの社会では、「市民」「家庭」は消費単位、「企業」は生産単位としてとらえられ、企業が技術革新の下で一定時間に効率よく大量の「物」を生産し、「家庭」に供給することが「豊かな社会」をつくることになると考えられてきました。

 この「市民」「家庭」を消費の単位、「企業」を生産の単位と考える限り、真の「内需」の拡大は生まれないと思います。

 経済学がとらえる消費主体を「市民」「家庭」ととらえ、企業のみが生産主体でるとする時代は終わり、「市民」、「家庭」こそがまず生産の主体であることに気づいても良い時にきているのではないでしょうか。

 
父ちゃんは会社で働いたのだから、家ではゴロゴロしていていい社会は終わりはじめているのです。

企業はイメージアップのために社会貢献活動を取り入れる時代は終わるのです。

社会科学的な「個人」ではなく、また肩書きや身分や資格で約束される社会ではなく、裸のひとりの人間が、目の前の人に対して何が出来るかが絶えず問われる社会・・・

これは決して能力主義への道ではなく、すべてのひとが生きていくための本源的生命力を取り戻す過程なのだと思うのですが、このことはもう少し詳しく説明を加えなければならないかな。

気が向いたらまた続きを書きます。
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モース『贈与論』で感じたことの続き

2009年02月23日 | 無償の労働、贈与とお金
前ののブログで紹介した本の補足説明。

マルセル・モース『贈与論』
ちくま学芸文庫 定価1,200円+税

とても大事な本なのだけれども、読む人によって捕らえ方が実に様々にわかれる本です。
だからこそ、良い本であり、古典として残る価値もあるといえるのですが、著者自身が、この本でなされている研究は「素材の提示にすぎない」と断りがきをしているので、当然の帰結かもしれません。



本書のなかで、「贈与」に対する「返礼」の如何で両者の関係、地位が確定するといったことが書かれています。

贈与はもともと「返礼」は当てにしない一方的な行為ですが、にもかかわらず、その後に返礼が行われるかどうかが大事な意味をもちます。
贈与に対する返礼があることで、相互の関係は対等性を得ることができるのですが、返礼を怠ると、贈与した側に対するなんらかの服従や従属を意味する側に自らを追い込むことになる。

ここに大事なふたつのポイントがあると思います。
ひとつは、本来、一方的な行為であるはずの贈与に対する返礼は、より「同等」であることが望まれるが、同質のものでは返礼にならず、なんらかの異質なものによってされるという意味で、完全な「同等」ではない、「同等」であるといえないかもしれないが、ほぼ「同等」と思われる異質なものによってなされるということです。

これは、現代のわたしたちの日常でも同じことを常に経験します。
お礼はどの程度が良いのだろうか?
その気持ちの表現は、金額で表すのも難しい。
品物で表すにしても、どの程度のものであれば良いのかは、なかなか推測がつきません。

そもそも贈与に対する返礼に限らず、異質なものの交換なので、そこに等価といえる質のものを見出すのは極めて難しい作業です。
だからこそ、相手との対等な関係を意識すると、「同等」、もしくは「それ以上」の返礼をともなって初めて少しばかりの安心を得るものです。

これは「タダほど高いものはない」ことになる理由のひとつでもあります。
(一般的には「後が怖い」というのが「タダほど高い」の理由ですが)

このポイントは、人との関係が常に「同等」あるいは「等価」とは断定できないものどうしの「交換」によって関係が成り立っているということです。

もうひとつのポイントは、「贈与」があくまでも一方的な行いであるはずであっても、あくまでも「交換」とは異なり「返礼」を強要しているものではないということです。
にもかかわらず、社会では未開社会であるかどうかにかかわらず、贈与に対する感謝の気持ちをなんらかのかたちで多くの人が表わさずにはいられない現実があります。

一般的には、これは経済関係が発達する以前の問題として捉えられがちですが、よくみると、経済関係が発達した社会においてもなんら変わっていない現実を見ることもできます。

それは経済行為において「等価」の交換と思われる行いは、様々な計算や理由により、「等価」とみなされるだけで、異質なものの交換である限り、どこまでそれが「等価」であるかは、社会の物差しや信用によって決して絶対的なものではないということがわかるからです。

ここに深く立ち入ると私の手に負えないので、端折りますが、等価の交換事自体が「絶対的等価」を保障しているものでない限りにおいて、「疑似等価」の「交換」よりも「贈与」の関係のほうが社会的信用は、ある意味で高いということです。

前にこの贈与の問題を取り上げたときに
まず人間社会は、大自然からの膨大な贈与の上に成り立っていることを書きました。

大自然の贈与は、太陽であれ、大地の恵みであれ、山の幸であれ、海の幸であれ、地下資源であれ、無償のものです。

大自然からの贈与は、なんら人間に対して「返礼」を求めていません。
まさにビタ一文たりとも。

日々、わたしたちは石油を買ったり、魚を買ったり、季節の山菜や松茸を食する幸せを持っていますが、それらの恵みを与えてくれる大自然に対しては、長い間、私たちはなんの対価も払ってきていません。

それらの恵みを提供している石油メジャー資本や、水道業者、電力会社なども、最近でこそ環境維持のための植林や若干の環境保護政策に協力こそするものの、大自然から与えられる無償の贈与に対しては、「等価」もしくは「同等」と思われるほどの返礼は、近代産業が発展し続けるなかで、ほとんど行ってきませんでした。

大自然は、常にそれらの行為に対して、
人間自身が困ることになるまでは、
常にそれでも「いいよ」と言いつづけてきたからです。

わたしは、ここにモースが未開社会を通じて明らかにした
「贈与」の本質と「返礼」の実態
「交換」と「貨幣」の成立による「疑似化」の進歩の歴史と
同じ構図を感じるのです。


大自然の猛威への従属、服従のなかで生きていく社会では、「返礼」は必要とされません。
しかし、大自然の圧倒的な優位のなかでも、服従や従属ではなく、なんらかの共存を求めたときに、わたしたちは大自然に対してその多くは宗教的な意識としてですが、「返礼」を伴って向かい合ってきました。

これをわたしは経済関係が発達する以前の、未開の意識と断定することができません。

モースの投げかけた素材は、こうしたことにつながっているのではないかと感じるのです。

店のブログ「正林堂店長の雑記帖」から転載
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最大の社会福祉活動=結婚

2008年09月21日 | 無償の労働、贈与とお金
別のあるコミュニティへの書き込みへのレスから出た表現なのですが、
つくづく、こう思います。

世の中のヘタな福祉政策や予算を増やすことより、
結婚して家庭を持ち、子どもを育てること。
これに勝る人類の福祉活動はありません。

親はどんなに問題があっても、子どものことを生涯めんどうを見る。

以前、無償の労働と贈与のことで、
母親が子どもに与えたオッパイの値段=タダ(無料)
という話を書きましたが、圧倒的多数の社会の関係は、
支えあいという無償の労働で成り立っている。

定年退職して家にゴロゴロしている夫がいかに憎かろうが、
そのまま死ぬまで連れ添うことは、愛であること以上に
なにものにも替えがたい社会福祉活動であると。
・・・ね。

養うべき妻や子どもがいることが、どれだけ夫の勤労意欲を支えていることか。

私のような勝手気ままな一人者の人間にとっては、
労働とは、手前ひとりの勝手な楽しみにしかすぎない。
いつ辞めてもかまわない気楽さがある。
天下国家にとっては、
やはり非国民と呼ばれて当然の立場にある。

それに比べたら世の中のお父さんたちはエライ。
私が仕事の仕方云々をいう以前に、はるかにより多くのものを支えている。

だからこそ、
私が少しばかり普通の人たちより多く働いていることなど
なんの免罪符にもならないと思っている。

家庭という最大の社会福祉の元を担っていない私だからこそ、
少しばかりの地域活動や仕事をボランティアかのごとくすることは当然のこと。

社会のバランスをとるためにも、
私のような人間に休日は一日たりともいりません!

税金なんか、普通の人の倍くらい払って当然だと思ってます。

これは、ウソです。

でも半分以上はホントのことです。


社会福祉活動としての結婚、
円満な夫婦には縁のない言葉かもしれませんが、
離婚を考えてる夫婦、
結婚を迷っている人などにとっては
とても効力のある言葉?
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働く者の権利?

2008年08月13日 | 無償の労働、贈与とお金
前回、明治維新後の没落武士の姿に、現代の社会構造の変化についていけない階層の問題をダブらせて書きましたが、安定期が続くほど「働く権利」というものがゆがめられていく傾向にあることも感じます。

今の労働組合の姿を見ていると、働く者の権利を擁護する立場でありながら、その実態がなぜかそれとはかけ離れたものになってしまい、『蟹工船』がベストセラーになるような今こそ本来は組織拡大されるべきなのに、まったくそのような流れにはなりそうにはありません。

社保庁の労組の姿に限らず、いつのまにか労働者の権利が、「働かない権利」であるかのようになってしまったのはなぜでしょうか。

もちろん、賃労働の社会が広がってからの長い歴史の多くは、不当な労働から働くものを守る闘いでした。
非人間的な扱いから開放されて、人間的な労働を求めること、人間らしい暮らしを求めることが、闘いの中心課題でした。そうした努力で戦後の労働運動が果たしてきた役割は確かに大きかった。

低賃金、長時間労働からの解放。たしかにそれらは大事なことに間違いない。
しかし、働く者の権利の第一は、
「働けること」
であるはずではないのか。


前に紹介した『日本でいちばん大切にしたい会社』のなかの話で、あるお坊さんが幸福とは、
①人に愛されること、
②人にほめられること、
③人の役にたつこと、
④人に必要とされることです。
このうちの①以外の三つの幸福は、働くことによってこそ得られるのです、と言ってました。

この前提にたつならば、私は不当で過酷な労働から解放されるために「8時間労働」という枠組みは意味があるかもしれないが、本来の人間の自己実現の労働に近づくためには、8時間以上働く権利というのも当然あってしかるべきだと思っています。
(まずは、法定8時間の内容が、働きがいのあるものにするのが先ですが)

つね日ごろ、好き勝手なことばかりやっていながら、その上にお金まで貰ってしまって申しわけないと思っている私には、お金(経費を負担すること)を払ってでも働くことにそれほど矛盾は感じないのですが、責任ある立場でありあがら8時間労働に固執することなどは、責任を取りたがらない口実にしか過ぎないのではないかとも思ってしまう。

70代くらいに見えるお客さんが、レジでポツリと「疲れるような働きか方をしているうちはまだダメなんだ」と言っていたのを思い出します。

時間にとらわれずに、好きなだけ働けること、
これこそ、理想の労働者像だ。
労働者の最大の権利であるはずだ。

やれ8時間労働だ、やれ有給休暇だ、やれ定年退職だなどという前に、
死ぬまで好きなだけ働かせてくれる社会を目指す労働組合なんて出来ないかしらん。


毎度ながら、勝手なことばかり言ってごめんなさいね。
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お金の取れない時代へ

2008年06月04日 | 無償の労働、贈与とお金
前回の「お金のかからない時代へ」は少し欲張りすぎて、もう少し内容を絞るべきでした。

「お金のかからない時代」へ行く前に、今、私たちが直面しているのは、
「お金の取れない時代」という厳しい現実です。
このことをもう少し補足しておきます。

前回紹介したダニエル・ピンク著『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』から、もう少し事例を引用します。

本書のなかの
〇第二の危機 -次から次へと湧き出す「競争相手」、という章の冒頭に、四人の姿の映った写真があります。
その四人はインドのムバイで働く人たちで、彼らこそ「ナレッジ・ワーカー」の典型であるという。

(以下引用)

多くの聡明な中流階級の子どもたちがそうであったように、彼らも両親の忠告にしたがった。
高校で良い成績を修め、有名大学でエンジニアリングかコンピュータ・サイエンスの学位を取得し、現在は大きなソフトウエア企業で働き、北アメリカの銀行や航空会社向けのコンピュータ・プログラムを開発している。
 ハイテクな仕事をこなす彼らだが、誰一人として1万4000ドル(約160万円)を超える年収を得ている人はいない。
 ナレッジ・ワーカー諸君!彼らが新たな競争相手だ。

(彼らと同等の仕事をこれまでのアメリカのホワイトカラーたちは、年収6、7万ドル(約700~800万円)程度の人たちで請負っていた。)

 西欧の水準からすれば少ない給料ではあるが、標準的なインド人の給料のおよそ25倍にあたる。それで彼らはバカンスを楽しみ、マンションを所有するといった、「中の上(アッパーミドル)」クラスの生活を手に入れることができるのだ。


 また、オランダ企業フィリップスは、中国で700人のエンジニアを雇っている。現在、中国では毎年、アメリカとほぼ同数のエンジニアを世に送り出しているのだ。
 最大の理由は賃金である。
 一般的なアメリカ人の半導体技術設計者は、月収7000ドル(約82万円)を稼ぐが、インド人デザイナーなら約1000ドル(約12万円)である。

 アメリカの一般的な航空エンジニアの月収は約6000ドル(約70万円)だが、ロシアでは月給650ドル程度(約7万5千円程度)だ。

 また、アメリカの会計士は月に5000ドル(約60万円)稼ぐが、フィリピンなら300ドル(約3万5千円)。だが、一人当たりの年収が500ドル程度という同国の水準に照らせば、これでも決して少ない額ではない。

 (以上引用終わり)


かつてブルーカラーの人びとが、海外の安い労働力や工場の機械化によってどんどん追いやられてきたように、今、ホワイトカラーの人たちが、同じ道をたどろうとしている。

本書は、このことはあくまでも、次に、では我われはどうしたらよいのか、ということを話す前提の記述なのですが、ここでは、この現実をしっかりと確認しておきたい。

そんなことをいっても日本はアメリカほどはひどくはならない、とか、うちの業種は関係ない、とか思うひともあるかもしれない。

ところが、自分のところがどんなに関係ないと思っても、まわり中の製品やサービスが、このような構造のもとで安く作られ、提供されるようになってきているのです。そのなかで、いくらうちは関係ないと思っても、それは、競争からとり残され市場からいづれは退場していくこと以外のなにものでもないことを肝に銘じなければなりません。

このことを想像すればするほど、管理部門の肥大したままの古い体質の企業や、雇用削減や賃下げの断行できない公務員が社会からとり残され、あるいは社会のお荷物として残るばかりになると思います。

私は、賃下げやリストラが絶対的解決策だとは決して思いませんが、生産性において桁違いの差が出る環境下に私たちが投げ込まれているということだけは、誰もがもっと理解しなければならないのではないでしょうか。

であるからこそ、ものの値段が、デフレだけでなく、技術革新とグローバル市場のもたらすものとして安くなる時代には、国や地方自治体の公共部門のコストが、まず抜本的に下げられなければならない実情が根底にあると考えねばならないと思います。

財政破綻と社会福祉コストの増大から、増税已む無しではなく、まず第一に全体のコストの大幅ダウン(無駄を省くだけでない)こそが考え方の根底になければならない。
お役所や議員の論議は、まだ世界全体が「お金の取れない社会」に入っていることを前提にしていない。
 財源(=税収)をなんとかすれば、問題が解決するかの議論しかしていない。
役人の無駄遣いを正すことは、もちろんですが、それよりも抜本的にお金をかけない方法へ向っていかなければならない。


今の世の中の議論からは、浮いた話に見えるでしょうが、そんな風に私は思います。



 

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お金のかからない時代へ

2008年05月31日 | 無償の労働、贈与とお金
原油高を契機に、いろいろなものの値段が上がり続けている。

数日前だか、日銀が異例の「スタグフレーション」という言葉を口にした。



ビジネスベースでものを考えている多くの人には、インフレ待望論も根強い。

しかし、その期待を裏切るかのように、物価が上がっても景気がよくならない時代になっている。



今の物価の上昇は、一時的な変動要因によるものと見てよいだろうが、

景気循環サイクルの問題ではなく、やはり経済や社会の構造が

最近大きく変わったのではないかと思えてならない。



最近、風呂で読んでいた高井信夫氏の『朝10時までに仕事は片づける』かんき出版

のなかにに出ていたマクロレベルの数字を見てみると、



 1979年の企業の利益は7兆5010億円、欠損は6930億円、差額はプラス6兆8080億円でした。

全体で見ると企業はすごく儲かっていたのです。

 その後もこの差額はどんどん膨らんで、75年には7兆5530億円、

80年は19兆2200億円

85年は25兆5200億円

90年には43兆6340億円と

文字通り右肩上がりの成長を続けたのです。



こうして企業の利益が膨らむなかで、働く人の賃金もうなぎのぼりに上がっていき、みんな豊かになっていった。

ところが90年代以降はどうなったかというと、90年代初めのバブル崩壊を境に、企業利益は減り始めます。



それを数字で見ると、91年39兆3560億円、

95年には15兆2480億円に、

99年は8兆8860億円と下がり続け、

2001年はついに5兆2760億円まで落ち込んでしまいました。



父親の月給がどんどん下がっているのに、家庭では贅沢を少しもやめようとしない。

(引用終わり)



その家庭の代表は公務員たちであり、

老舗の看板を背負ったまま変化に対応しない企業たちでした。



でも、その一方で伸びている最先端の企業は、過去最高益を更新し続けています。



この変化を傍観している人たち、傍観せざるをえない人たちは、

ここに起きている現実をどう見ているのだろうか。



長いデフレスパイラルからようやく脱却したか否か、

なんとなくそんな声ばかり聞こえてくるのですが、私には今の経済状況を見ていると

景気循環の流れの変化ではない、もっと大きな変化が既に起きているのを感じます。



それは、結論から言うと、

90年代の組織のリエンジニアリングに始まり、社会全体に浸透するデジタル化社会の進展などにともなって、

景気の循環云々よりも、根底的に社会構造そのものが「お金のかからない社会」に向っているのだと思えるのです。



その根底構造がさらに、世界的な金余り状況を生み、投機マネーが右へ左へ揺れるたびに

世界経済を混乱させるに止まらず、巨大な破壊を繰り返す。

それは、一国をも滅ぼすほどの勢いで。



カネ余りが呼び起こす投機マネーの問題は横においても、

ここでこれからの企業経営の大前提を見損なってはいけない。



かつてトフラーは、「第一の波」の農耕社会、「第二の波」の産業社会が終わって、「第三の波」の情報化社会の到来を告げた。

そしてインターネットバブルの到来とともに、情報こそ、お金を稼げる領域であると、今も叫ばれている。



たしかに今はその情報云々が企業の命運を大きく左右している。

でもそれは、ほんの一時的な優位にしかすぎない。

情報の優位ほど長続きしないものはない。



ドラッカーが強調していた情報化社会、知識集約型産業も、

その比率が増し、社会での重要度が増すことは間違いないが、

決してそこでお金がどんどん取れるようになるわけではない。



(以下は引用です)



情報化社会においての花形ビジネスには、弁護士や会計士という仕事も含まれる。ところがいまや、

食いっぱぐれのない資格であるとされていたそういう仕事でさえも、コンピュータに取って代わられてしまっている。

「ファミリーロイヤー」や「クイッケン」などという100ドルくらいのパッケージソフトで、

弁護士や会計士の仕事の大部分ができるようになってしまっている。

(略)

学校の教師も同じだ。

経済学に関していえば、いまは、世界中の「経済原論」の講義でサミュエルソンの本の「輪読会」をやっているようなものだ。

 ところが、サミュエルソンが直接インターネットに出てきて教えてしまうと、「輪読会」をやっている程度の教師は失職してしまうのである。

 サミュエルソンなら、生徒一人から100ドルずつの授業料で10万人に教えたら、毎年1000万ドルの収入になる。つまり、サミュエルソンは高収入を得られるけれども、「輪読会」をやっていた教師は月500ドルのTA(補助教員)。

メシの食い上げになってしまうのだ。

         ダニエル・ピンク著 大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房



トーマス・フリードマンのように『フラット化する世界』上・下 日本経済新聞社

といった表現でそれを語る人もいる。



私の領域では、再三「情報の値段は本来タダ(無料)」という原則を言い続けているが、

1,000円、2,000円の書籍を売っている隣で、どんどん100円、500円の古書が出回る時代というだけでなく、

ネット上では、タダ(無料)で、それと同等の情報をいくらでも得ることが出来るようになってきているということです。



それは、著作権の侵害だと、また多くの人は叫ぶ。

しかし、情報そのものは、それを独占、秘匿することによってのみお金が取れるのだということを忘れてはならない。

このことは、わたしとあなたのすぐ隣でおきている現実が、

先の権利が虚無な主張にしかすぎないということをどんどん立証していく。



情報はなによりもその本源的性格からは、社会の公共財であるべきだ、という原則がある。



このあるべき社会に向って、世の中は確実に今「進歩」している。



もちろん、まだ巻き返しのエネルギーは衰えるどころか、加速すらしながら当分の間、襲いかかってくるだろうが、

格別なお金をかけなくても、多くの人が所得や身分の制約を受けることなく、かなりのことが出来る世の中になりつつあるのは間違いない。

本当の個人の付加価値生産能力が問われる厳しい社会かもしれないが、

それは既得権にあぐらをかくことなく、ひとりひとりが真に創造的に生きる社会への入口であるとも言えるだろう。



(余談ですが、私の不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」は、土地所有から排除されたり、身分を差別された人びとであるがゆえに、

,その社会では丸裸にされ、それゆえに人間として様々な技能を身につけることを必然として来ざるをえなかった流れとして、このこれから私たちが直面する「お金のかからない社会」の共通構造を感じるのです。)



このことは、同時に、営利目的にジャンジャン金を取れる領域が縮小していくことでもある。

単純な労賃や手数料収入や権利収入の領域は、これも当面、増加し続けることだろうが、

情報化社会が成熟してくるにしたがい、そうした領域で多額のお金を取ることも難しくなってくる。



私はこうした視点を前提にしているので、うちの店では、業界の動向の問題よりも

まず平均単価を下げる努力を抜本的に継続してしなけれなならないと考えている。

手間のかかる方向ではあるが、単価を下げ、回転率を上げる。

お客さんが買いやすい商品の比率を増やすこと。

ベースをそこにおいた方が、厳選された高額本はよりよく見えるようになる。

もちろん、そのための情報を増やすこと、これが一層大事になると思っている。



いろいろな運の良さもあっただろうが、業界がマイナス成長の時期に入ってから7年間、

書籍の売上げを伸ばし続けることが出来ているのは、この考えを前提としていたからだと思っている。



厳しいことを要求するように見えるかもしれないが、

お金をかけずに自分の労力を増やす。(あたりまえか?)

自分の労働からルーチンワークを減らし、新しいことを試す時間の比率を圧倒的に増やす。

そんな方向の準備をいま加速している。



お金は無くとも、かなりのことは出来る時代にもう入っているので、

あとはもう自分の頭の中の力の問題。



優秀な人の仕事を見るほど、その頭の違いは、頭脳の良し悪しよりも、

思考作業を分解してひとつひとつクリアしながら積み重ねる能力だと思う。



もう自分に必要なものは、すべて揃っている。

























・・・・はずだ。





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贈与 その4 オッパイの巻

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金

前回は、高度に発達した資本主義のもとにあっても、
生産力、国力の圧倒的な要素は大自然からの贈与によって担われていることを書きましたが、
今回はそのもうひとつの要素、人口(人間の拡大再生産)も贈与の構造によって担われている
ということを書こうと思っていますが、まだ、うまくまとめられるかどうかはわかりません。

最近男女平等や、雇用機会均等法などのゆがんだ解釈が浸透してくるにしたがって、女性の家事や育児労働も、労働としての評価を与えるべきであるといったような論議もおきていますが、これも、労働というものをとても矮小化した賃労働の面からしか見れない現代資本主義的思考からうまれた悲しい考えだと思います。

現時点では国の大臣クラスでも、もっとはるかに悲しい認識レベルの世の中なので、
まだまともな理解が得られる土壌はないかもしれませんが、
「社会」や「生命」そのものに対する理解度にかかわる問題と思うので、
ちょっと無理を承知で挑戦してみます。



まず、ラジオだかどこかで聴いたこんな話があります。
(もとの話ははっきりした記憶はないので正確ではありませんが)

ある母親の子どもが、もの心がつきだし世の中のことがわかってきたからなのか、
毎日、母親の手伝いをするたびに、請求書を送りつけてくるようになった。


せいきゅう書

玄関のそうじ、100円
食事の後片付けの手伝い、100円
朝のゴミだし、100円
スーパーへのお使い、300円」

これが、毎日のように続くようになってきた。

そこで、母親はある日、その子どもに
母親から「請求書」をあらたに送りつけることにした。

請求書。
お前が生まれたときにあげた母さんのオッパイ、0円。
お前が育つあいだずっとあげている毎日の食事、0円。
お前を学校にやるための服や月謝、0円。
これから生きている限り、お前にそそぎ続ける母さんの愛情、0円。

表現は違ったと思いますが、
忘れられない話です。

当たり前といえば当たり前のことなのですが、
この親子のやり取りのような関係を、今、社会でなぜか日常的に目にするのです。

世の中、労働に対する報酬は、正当な賃金によって支払われるという原則、
これに異論はありません。

しかし、世の中が、いったいどれだけの無償の労働によって成り立っていることか、
誰かしっかりと説明しているひとがいるでしょうか?

私の問いかけ自体が、なんかの勘違いからはじまっているのかもしれませんが、
先の国力、生産力とも、大自然からの贈与を大前提にしており、
人間社会の世代継承も、「愛情」といった美しい言葉を出す前に、
圧倒的な量の無償の労働、贈与によって支えられているということが認められないでしょうか。

家族、地域社会などのコミュニティ、はては国家に至るまで、
崇高なボランティア精神や意識の高い皆さんのNPOなどの非営利活動を出すまでもなく、
あらゆる面で、多くの人びとの無償の労働によって
人類の長い歴史は築かれ続けてきていると思うのですが。

このことから、もう一度、企業活動を振り返ってみると、
よく企業のイメージアップや、
ブランド力を高める戦略、
いい人材を集める戦略、
あるいは、税金逃れの対策として、
文化活動や地域貢献、諸々の寄付などを積極的に位置づけていることが多いものですが、
先に繰り返した、生産の出発点が大自然の贈与からはじまっていることを考えれば、
その大自然が継続して資源を与え続けられる環境作りそのものを
最初の生産コストに入れるのが、本来の姿であると思います。
また地域社会の再生産の構造を維持し発展させることも
本来の生産コストに含まれて当然のものだと思います。

これらは、通常の労働のように投下資本、投下労働にたいする回収率などで
簡単に計算できるものではなく(大企業はこれを真剣にやってますが)
やはり、社会を支えるためのあたりまえの無償の労働の側面を知る必要があるのではないかと思います。

先に、母親の無償の労働ばかり指摘しましたが、
これが見えてくると、
会社で与えられた仕事をしっかりやって給料をとってくるのがオレの役割だから、
といって休みの日には家でゴロゴロしている父ちゃんが、
いかに社会的役割を果たしていない狭い労働しかしていないか、
ということがよく見えてこないでしょうか。

男も母親が子どもにオッパイを与えるがごとく、
地域や会社や家族に対して無償の労働をどんどん提供しても、
決して損することはない!
すばらしい日常を取り戻せる第一歩なんだと・・・・

言っても通じないだろうなァ。

でも、現代の高度に発達した資本主義のもとであっても、
世の中は、膨大な無償の労働(贈与)によって支えられているといことだけは、
わかってもらえないだろうか。
そのかけがえのない無償の労働をも
いくらの価値があるか、という賃労働化してしまうような蛮行を
これ以上進めることがないように願うばかりです。

うーん、やっぱり通じないか。


ヨシ!
今度、「オッパイの哲学」をいつか書いてやる。

(やはり、冒頭の言葉とはズレてますが、
もう2,3のことを次回に補足したいと思います。)

          正林堂店長の雑記帖 2007年2月15日 より転載

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贈与 その3

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
贈与の問題を語るうえで、
もうひとつ避けて通れないキーワードに
人間の真の生産力とはなにか、という問題がある。

よく日本は、小さな島国でありながら、世界に誇る技術力、生産力で
先進国の仲間入りをした異例の国であるといったような表現を耳にするが、
これは実態をもっとよくふまえたうえで話してほしい。

過去にも他のところで引用した文ですが、
2002年に岩波書店から『いくつもの日本』という全7巻の講座もののシリーズが出ていますが、
その冒頭第1巻のまえがきの最初の部分に、以下のような表現があります。

「北緯45度31分(宗谷岬)から20度25分(沖ノ鳥島)
および東経153度58分(南鳥島)から122度56分(与那国島)まで、
そのうちに広大な海洋を抱えるとはいえ、この日本の範域は、
南北約3500キロメートル・東西約3000キロメートルにおよぶ。
より具体的に日本の国土面積は約37万8000平方キロメートル、
そこに約1億2600万の人口を擁する。

国の長さが3000キロメートルを越す国は、中国やロシア・アメリカなどの超大国を除けば、
インドネシア・チリ・アルゼンチンなどしかない。
また世界191カ国のうち日本は、面積でも上位ほぼ四分の一に近い五四位、人口が八位にランクされる。

これは第二次大戦後、アジア・アフリカに小さな独立国が急増したことにもよるが、
面積的に見ても、むしろ日本は大きな国の部類に属している。
身近な東アジア周辺で比べれば、台湾の面積はほぼ九州程度で、
北朝鮮の人口は首都圏のそれに近似する。
西欧でも、面積はフランス・スペイン・スウェーデンに次ぐが、
人口で日本を超える国はなく、例えばオーストリアは、面積・人口ともに北海道に等しい
(『日本国政図会』2000年度)。
つまり、日本は決して小国などではなく、
経済的にも物理的にも大国なのである。」


ひとくちに国の生産力が高い、低いといっても
その国の生産性効率の高さ如何で順位がそれほど劇的に変わっているわけではなく、
生産力を決定している圧倒的要因は、
国土の広さと、その国土の持つ資源力、
それと人口によって決定されていることをよく見て欲しい。

学生時代、サークルで経済学の勉強会をしているときに先輩が、
人間の最も生産的活動は、子どもをつくることなんだよ、
と言っていたが、そのときはこの意味をシモネタジョーク程度にしか理解していなかった。
今になって、この意味をかつてなく深くとらえなおす価値があると
前に私の手作り栞の記述で紹介したプレママ・トレーニングというコミュにかかわって
感じるようになった。
これに立ち入るとまた脱線にブレーキがかからなくなってしまうので、
サラリと言うと、人口問題、命を授かること、結婚し子どもを生むこと、家庭が明るく平和であること、
子どもを増やしたいと感じる社会であること、これらは、
すべて地球の生命の輝きそのものの問題であるのだと。

話しを戻す。
現代が、いかに高度に発達した資本主義社会であろうと、
その生産力の主要部分は、国土から産出される資源
石油、天然ガス、金銀銅をはじめとする鉱物資源、
森林や海洋から得られる資源とその所有になによりも決定づけられていることを
忘れてはならない。
最先端の産業ですら、ウラン、やチタン、アルミなどの資源、
半導体産業などであってもその素材は、天然資源からはじまっていることに変わりはない。

つまり、生産力の圧倒的大部分は、
今も大自然からの「贈与」によって成り立っているということです。

もうすこし厳密い言うと、
大自然からの「贈与」と「略奪」。

さらにもう少し厳密にいうと
大自然からの「贈与」と「略奪」と「独占」。


さらにまた少し別の角度、地球生命科学などの立場からいうと、
地球上で真に生産的活動をしているのは植物だけである、という見方もある。

植物以外のあらゆる動物やその他の資源はすべて、
植物によって生みだされたエネルギーの移転、移動、蓄積の結果にすぎない、
というのである。

このことからも、人間の生産力いかんの圧倒的な部分は
大自然からの贈与によって担われている、
ということができるのではないだろうか。


昔の共産主義思想は、反資本主義的独占にばかり目がいって、
この大自然そのものの価値と贈与の問題をよく理解していなかったのではないだろうか。
この理解如何で、人間の労働、「働く」ということの意味が大きく変わってくるのだと思う。

テーマ館のキーパーソンとして紹介している哲学者、内山節の文章で
出典がみつからないまま、曖昧な記憶による紹介ですが、
木とは、ひたすら与えつづけて、なんでも許してくれる存在であることを
次のような表現で書いています。

木は、小鳥が巣をつくらせてください、といえば
「いいよ。」とこたえてくれる。
雨がふったときに雨宿りさせてください、といえば
「いいよ。」という。
木の実をわけて食べさせてください、といえば
「いいよ。」という。
寒いので木の枝を薪に使わせてください、といえば
「いいよ。」という。

さらに、今度わたしの家をたてたいので全部ください、といえば
「いいよ。」という。

これは木だけの話しではなく、
自然だけの話しでもなく、
人間社会でも同じ「贈与」というもののすがたです。


(以下はまた次回につづく・・・・
     うーん、まとめられるだろうか?)

   正林堂店長の雑記帖より転載 2007年2月14日
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贈与 その2

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
月夜野町(現みなかみ町)の私の実家では、
毎朝のように朝起きると玄関の前になんらかの新鮮な野菜がおかれている。
近所のひとが、自分のところで採れたものを持ってきてくれたのだ。

おそらく家の親も、お返しになんらかのものを持っていているのだろうが、
それは見たことがない。
今では、近所でも専業農家などはほとんどなく、
どの家も実態は家庭菜園程度の畑で、
出荷までしてそれを収入の足しにしているような家はほとんどない。

わが家の猫の額程度の畑の収穫ですら、
自分のところではとても消化しきれない量の野菜がとれるのだから、
かつて農業をしていた家が休耕田や畑で栽培している農産物ともなると
たとえそれが片手間程度のものであっても、
近所から親類縁者だけでなく、遠くで暮らす子どもたちに送っても
なおまだ有り余る場合が多い。

そんな残すほど無駄なことせずに
もう少し計画的な生産をすればいいのに・・・と
はたから見ていると思えてきてしまうのだが、
畑を耕している当事者たちは、そんなことはあまり気にしない。

毎朝、土にを耕し、
今年は白菜がこんなによくとれた、
今年のキュウリはどうも出来が良くない、
などと言いながら、天気をながめ、
自分の腰の疲れをかばいながら
自慢の漬け物にして、隣のばあさんに食わせてやれればうれしいのだ。

そして、こうしたものを届けてもらった側も
こんなにもらってしまって申し訳ない、困った、困ったと言っていながら
この関係にとても満足している風にもみえる。
この朝、起きる前に玄関に届いた野菜のおかげで、
そのお礼をしに昼時などにその家を訪ねると、
また、お茶をご馳走になりながら、
最近、どこどこの息子がどうした、
リュウマチの具合がどうだ、
この間のあそこんちの葬式はえがった、
などといった大事な(ときには余計な)地域情報交換が行われる。

そんな田舎のどこにでもある光景をみていると、
ここ数十年来、農業では食っていけないと
日本中で田畑を切り売りして、パートや出稼ぎをしたり、
会社勤めに転業したりしてきた流れというのが、
なんか理由がおかしいのではないかと思えてくる。

農業では食っていけない?
けっこう食っていけるじゃん!てね。

日航機事故のご縁で知るようになった上野村の、
ほんとうに都会からは隔絶された人たちのくらしなどをみていると、
水道、電気、ガス、電話、税金などの出費以外は、
手元に現金がなくてもほとんど不自由なく暮らしていくことはできる。
それが、現金収入のないことが問題であると気づかされるのは、
子どもがいた場合の教育費、
車を持った場合の購入・維持費、
それとなにか会ったときの医療費、
とくべつな個人的趣味の贅沢を望まなければ、
まとまった現金が必要になるのは、この3つだけなのです。

かつての山村では、子どもの教育費が必要なときなどのために
バックグランドに所有している山などがあり、
ときに何十年かに一度、木を伐って現金化するようなことをしてきた。
米作りひとすじの農家よりも、
米だけに依存できない、一見貧しい農家のほうが、
現金収入の道を多くもっていた例が意外と多いことを最近知った。

こうした暮らしの姿をみていると、
食っていける、食っていけない、
収入が多い、少ない
といっても、その圧倒的な部分を左右しているのは
教育、医療、車のコストで、
(これに都会であれば家賃が加わる)
これ以外の支出は、多少趣味娯楽の出費を加味してもたいした金額にはなっていない。

このことからもう一度ふりかえって
ひとが食っていけるかどうか、
収入が豊かであるかどうかを考えると、
ほんとうの「労働」や「生産」というもののとらえ方に対して
もっと別の見方があるのではないだろうかと最近思えてならない。

つまり、「働く」イコール「稼ぐ」の労働観ではなく、
先の教育、医療、車、家賃などの負担をのぞくと
稼がなくても、自然の恵み(自然からの贈与)があれば、
自然を守り育てる営みとしての労働があれば、
本来、多くのひとびとは食っていくことはできた社会があるということです。

こんなことを言うと
それは田舎の山村だからいえること、
欲のない生活を空想しているからいえることだという反論がすぐかえってきますが、
よーく、よーく考えてもらえると、
これは山村に限った構造の問題ではなく、
都会の先端資本主義の世界でも共通してた構造が見えてくるのです。

(この辺で続きは次回に)

私のブログ「正林堂店長の雑記帖」より転載 2007年2月14日
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「贈与」について その1

2008年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金
私はよく、お客さんや知り合いとの間で、本の貸し借りをしたり、
時にはプレゼントをしたり、されたりすることがありますが、
これは結構めんどうなことも多く、
大事な本に限って返ってこなかったり、汚されたりして
後悔することもしばしばあります。

プレゼントなどしたり、されたりしたときも
お返しの仕方などは、その時々でけっこう悩まされるものです。

また仕事柄、商売と関係ないこのようなことが増えることは、
商売との兼ね合いも考えると及び腰になってしまうこともあります。

多くの場合、こうした煩わしさからは
ビジネスの関係のみに割りきることで解放されることができるので、
現代社会では、この選択が一般的には必然化されてきています。

しかし、わたしはこの面倒なプロセスには、
特別な意味合いがあるものだと思います。

人と人との貸し借りやプレゼントなどの贈与の関係には、
面倒ではありますが、ビジネスでえは表現できない大事なものがあると思うのです。

それは、私とその特定の人との個別の関係で結ばれる、
「信用」や「信頼」のうえにこそ成り立っているもので、
ビジネス上の取り引きの場合には、その個別性は問われません。
その個別の関係があるからこそ、また面倒なのでもあります。

逆に、この個別な面倒さから解放するために、
人類は、さまざまな合理的な交換方法を進化させてきました。

ところが・・・・

本来の人と人との関係を考えようとしたならば
この個別性ということを抜きにした関係の中身とは
いったい何なのだろうかと思う。

これも私の手にあまる問題のひとつで
いつかテーマ館でとりあげる予定のことなのですが、
この問題を重視して取り上げることの背景に、
人類にとっては、貨幣などを媒介にした等価交換によって支えられている生産活動よりも、
贈与を基本とした生産活動のほうが一般的である、
という、ちょっと信じがたい考え方がベースにあります。

贈与が中心になってしまったら、
この世で儲けなんて一切無くなってしまうではないか、
という気がしますが、
現実をよーく見てみると、そんなことはないのです。

よく文化人類学や民族学の未開社会の研究で、
貨幣経済が未発達な社会の生産過程をみると、
この贈与をベースにした社会構造は指摘されることが多いのですが、
現実をよくみると、これは未開社会に限ったことではないのです。

長くなりそうなので、この続きは次回に


「正林堂店長の雑記帖」より転載 2007年2月19日
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