みなさんの声を聞くと、理不尽なこととは、決して特殊なことではなくて
むしろ「日常」のことなんだと思い知らされますね。
私もなんとか前向きにとらえようと努力はするものの、
それが我慢になってしまうようでは、カラダによろしくない。
そこで無理にならないように受け止めるようにする考え方として思いだすのは、
以前、どっかで書いたことがあると思いますが銀行さんの話で気づいたこと。
銀行と聞くと、私は日ごろ目の敵にしてしまうことが多い。
最近、知り合いの会社の経営に、とうとう銀行が入ってしまうことになりましたが、
その銀行役員、財務数字に強いからといって、
決してその会社の再建のために来ているのではない。
自分の貸し付けた金を守るためだけに来ているので、
決して経営再建の力になるわけではない。
日本の銀行の与信能力のなさは昔から言われていることですが、
会って話すべき相手は、その人じゃないだろう。
見るべきところは、そんなところじゃないだろう。
などと、あまり良い印象はない。
ところが、そんな銀行の話でこれだけは勉強させてもらったと言えることがある。
与信能力のない銀行といいながら、
何をもって銀行は、貸し付けの相手の信用をはかるのかといったら、
経営者の能力や鋭い時代観察眼などは、参考にするかもしれませんが、
銀行にとってそれは大事なことではない。
銀行が一番よく見ているのは、その経営者の社会的信用。
そしてその社会的信用を計るのは、抽象的なことではなく、
その人が背負っているものがどれだけ大きいかということ。
それは、ひとりで1億稼ぐ力のある人よりも、
養わなければならない家族がいて、
借金をかかえている人(借金を返した経験の多い人ならもっと良い)の方を信用するのです。
未来の期待値が高いことよりも、現在、より多くのものを背負えている人。
(悪くいえば、普通の人よりも逃げられない環境にある人、ということなのだけれども)
日ごろ、コノヤローと思う銀行さんですが、このことばかりははたと教えられました。
人の「信用」というものは、その人がどれだけのことができるかということよりも、
今、どれだけ多くのものを背負っているか、背負えているかの方がずっと大事な視点であると。
自分が何が出来るとたくさん並べたてることよりも、
今、どれだけのものを背負えているのかということです。
この背負うものの第一は、
子どもを産み、育てるということです。
これに勝るものは、おそらくありません。
わたしは子どものいない身なので、そのことを考えると
世間で持て余している「理不尽なこと」のひとつやひたつを背負うことは、
それほど大変なこととではなく思えてきます。
どうぞ、皆さん
そちらで持て余している「理不尽なこと」は
遠慮なく、わたしのところにみんな持ってきてください。
・・・というのはウソですが、
少なくとも、こう考えると私には、
より多く「背負えること」ということがとても素晴らしいことに思えるのです。
山登りの例などで考えると、
より多く背負いながらも楽をするための知恵というのがいろいろ思い浮かびますね。