かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「行政」にとらわれない「社会」の基礎単位

2009年08月09日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

社会の基礎単位」というと、まず第一に思いつくのが「家族」です。

このことは過去に書いているので繰り返しませんが、大自然においても、人間社会においても、
環境保護や社会の経済発展云々の前に、
根底の考え方は、「生命の再生産」というべき構造の維持にこそ基本はあるとわたしは思っています。

子供を産んで育てることを基本とした生命の営みこそが、自然においても
人間社会においても、まず第一の条件であり、同時にこれこそが究極の目標でもあります。

「豊かな社会」については、精神面、物質面それぞれ様々な語り方があります。
しかし、より根源的にものごとを考えれば、この「生命の再生産」の構造こそ
なににも増して基調に考えられなければならないものと思うのです。

今回はこのことについて書くのがメインではなく、
その「家族」という基礎単位の次にくる「社会の基礎単位」についてです。

今、国や地域社会を考えるにあたって、地方分権がしきりに叫ばれています。
政権交代が現実味を持ち出したことから、その勢いも加速し、
道州制なども決して遠い先の目標でもなく思えてきました。

しかし、私にはこれらの議論は、どちらかというと以前から二次的な問題としてしか考えていません。
どれも行政上の問題としてばかり見え、地方分権をめぐる議論ですら、「自治」の核心からは、
まだ遠い議論にしか見えないからです。

何度でも言いますが、今の「地方自治体」のほとんどの実態は、
「地方行政体」といったほうが相応しい、「自治」ではなく「行政」の論議に終始しており、
平成の大合併に見られるように、小さいから合併する、力が弱いから大きいものに頼る発想ばかりで、
本来の力が無いからこそ、弱いものが助け合い、知恵を出す本来の自治ではおよそないからです。

こうした視点からは、現在騒がれている「地方分権」の議論ですら、
まだ総務省の手の上での議論にしかわたしには見えません。

さらには、ほとんどの問題の根底で言われる財政難など、大半は「行政ミス」の問題で、
そのミスの責任を取ろうともしないまま、住民に更なる負担のおねだりまでしている限り、
「自治」の力を発揮するにはほど遠い現状といえるでしょう。

これらのことは、また書き出すとまたきりがないので端折ります。

社会の基礎単位の問題を考えるとき、
先に指摘した「家族」がその一番最初にくることに異論はないかと思いますが、
その次にくるべきものは、今の行政上の「地方自治体」では、本来の自治や
住みやすい地域コミュニティに至ることは難しいのではないかと感じるのです。

では、戦時中の隣組制度や町内会のようなものが良いかといったら、そうしたものでもありません。

「行政」ではない、「自治」とは、
まず「より小さく」こそが基本原理であることを再度確認したうえで、
また「自治」とは、住民政治の基礎単位であるだけでなく、
地域経済の基礎単位でもあるべきこと、
さらにお互いの顔が見える規模の、限りなく全員参加に近い組織であること、
などをもう一度確認して話を進めたいのです。

そうした視点で私がなによりも頼りにしているのは「アワニー原則」と呼ばれる考え方です。

内橋克人さんの簡潔な表現にたよれば、
「人が歩いていける範囲(半径600mくらい)で、生活に必要なすべてのことができる街づくり」
といったことです。

アワニー原則の全文を見ると、なかなか面倒なことになりますが、上記の簡潔な表現で、
およそのことは表現され尽くしています。

スモールシティやコンパクトシティとかいわれるのも同類の表現ですが、
こちらの方がより根本的なことを表現しているので誤解も少ないと思います。

行政の単位をどうする、道路をどのようにひくかの問題ではなくて、
誰もが歩いていける範囲内に、まず学校があり、病院があり、八百屋があり、肉屋があり、
行政窓口があり、本屋!があるということです。

もちろん、半径600mというのは、ひとつの目安の表現で、都市部と郊外や山間部などでは
かなり条件が異なるのはいうまでもありません。

ところが、こうした小さいコミュニティの単位となると、その商圏内の人口だけで、はたして病院が、
スーパーが、、本屋がその経営を成り立たせることが出来るのかといった問題が出てきます。

前書きが長くなりましたが、平成の大合併の問題にもつながるのですが
ここが今回の話のポイントです。

「より小さく」というと、すぐに
やっていけない自治体、食っていけない商売、の話が出てきます。

ここからは、かなりざっくりと書かせていただきますが、
60年代、70年代頃までは、日本中どこでも個人経営の零細商店が地域をささえているのが普通の光景でした。
それが80年代を過ぎてから、コンビ二が全国に普及しだし、やがて郊外にロードサイド型の大型店が次々に出店しだし、
どこの商店街も例外なく、衰退の道をたどってきました。
さらに、今では、その郊外店ですら、次々に出来る大型ショッピングセンターに淘汰されています。
この流れは、まだとどまりません。
既にアメリカで始まっている現実ですが、
巨大ショッピングセンター同士の競争の果てに、郊外に巨大ゴーストタウンが次々と生まれているのです。
まもなく日本でもおきることでしょう。

これは常に「消費者のために」の結果だったのですが、この2,30年の間におきたことから
そろそろ何かを学んでもよいのではないでしょうか。

私は今、全国に見られる衰退しきった商店街のなかで、運良く仕事をさせていただいている者ですが、
常に衰退してきた店は、郊外店が悪い、大型店が悪いと人のせいにしてきました。
しかし、今、次々と淘汰されていく大型店をみると、衰退していったお店というのは
規模や立地の問題ではなく、
「そこに競争力のある商品やサービスが無かった」からにつきるのだと思います。

確かに、相対的には常に規模や立地の問題は、大きくのしかかります。
でもどんな条件でも生き残っているビジネスを見れば答えは明快です。

その上で、もう一度、大型化しなければ生き残れないという呪縛から脱することの意味を考えて欲しいのです。
業種によっては、必要なアイテムを充実させるために一定度の大型化が間違いなく功を奏するかにみえ、
そうした選択もあっても良いとは思います。
しかし、ほとんどの例は、「規模か小さいから」という言い訳が、
ビジネスの目的を喪失したうわべの判断にしかすぎなかったことはわかるのではないでしょうか。

最近、興味深い数字を見ました。

日本全国にあるコンビニの数。
約5万店だそうです。

一昔前、4万店と言われたのがあれよあれよと5万の数になってしまいました。
もう飽和状態で限界だと言われますが、これもビジネスを知っている人なら、そんなことはない、と言います。

私たちがどこでも目にすることができるコンビニですが、
そのコンビニよりもさらに多いことに気づかれていない業種がありました。
お寺です。
なんとその数、全国に7万以上。
しかも神社に比べたら、お寺というのは住職のいない建物だけのところというのはとても少ないものです。
宗教法人は楽だからといいたいのではありません。
あれだけ飽和状態と思えるコンビニをはるかに上回る密度で、業態が成立しているということです。

コンビニの飽和を上回る業種は他にもあります。
歯医者さんです。
こちらも全国に7万5千からの数がいらっしゃる。
一回の治療で何回も通わなければならない上手いビジネスですが、競争が厳しいといわれながらも
本屋ほどはつぶれていません。

そういう本屋の数は、一昔前には全国に2万3千店ほどあるといわれていたのが、10年ほどの間に
1万6千店ほどにまで減少してしまいました。

先ほどの歯医者さんの例からみると、同じお医者さんでも
眼科などはぐっと少なく約1万2千人。
さらにこのところ不足が指摘されている産婦人科医ともなると
全国に1万人程度!

およその数字のイメージはつかめたでしょうか。
全国で5万を超えると、かなり頻繁に目にする業種ですが、
1万程度まで少なくなった業種は、町を歩いていても、ちょっと探すのに苦労をします。
(今、私のやっている本屋はそのレベルに向かいつつあります。)

いろいろな業種、業態があるわけですから何事も一口にはいえませんが、
これらの数字から、どこへ行ってもそこそこにあるといえるレベルの業種としては、
やはり2万程度がボーダーラインのように思えます。

そこからこんな計算が思い浮かびます。
日本の人口を約1億(人口減少をシビアに見込み、業種によっては全人口を対象にできないものも多いので)とみて、
それを全国平均分布のボーダーライン2万で割ると、
5,000という数字が出てきます。

1億 ÷ 2万  = 5,000

これが、社会の基礎単位を考える私のもうひとつの目安の数字です。

「人が歩いていける範囲で生活に必要なすべてのことが出来る社会」をつくるには、
この五千人くらいの商圏人口のなかで多くのビジネスが成り立っていくことが大事です。

5千という数字をビジネスで大きく感じるか、小さく感じるか、もちろん業態によって様々だと思いますが、
顧客の実数ではなく、商圏人口ととらえるならば、この数字はかなり密度の濃いビジネスを前提にしていることになると思います。
現実にはおよそ5,000人といっても、場所によって1,000から1万くらいまでの幅は考えられますが、
その平均的な位置としての5,000人というのは、とても説得力があるように思えました。

5,000人の商圏人口は、およそ2000世帯程度の商圏ともいえます。
これも都会と田舎では、比較にならないほどの開きがありますが、
地域コミュニティの単位として考えると、先ほどの半径600m以内といった表現とあわせて
大事な指標になります。

地域で5,000人、2000世帯くらいを対象にしたビジネスとなると、
10年、20年も続ければ、かなり密な顧客との関係を結ぶことになると思います。
それよりも、これからの時代、川上から流れてくるメーカーの代理人としてのビジネスが通用しなくなり、
顧客の代理人にいかに徹するかが求められる時代になってきただけに、
この2000世帯の顧客の需要をつかむビジネスこそが、これからの王道であると感じます。

世界中で暮らす地域の人びとが、安心して暮らせる社会というのは、
同じ「規模のビジネス」といっても、こうした「より大きく」ではなく
「より適切な小さい規模」でそれぞれが自立した経済こそが必要なのではないかと思うのです。

5000人の商圏でビジネスが成り立たない、と思ったときは、
他の問題点を指摘するよりはまず「そこに競争力のある商品やサービスがないから」
と考えた方が間違いないのではないでしょうか。

そうしたビジネス環境と一体になることで、地域コミュニティの質というものもさらに高くなり、
そのコミュニティを「自治」「政治」「経済」「文化」の基礎単位とすることができれば、
相乗効果をともなって真に強い地域づくりが可能になるのではないでしょうか。

今の選挙でこんな話はどの政党からも聞こえてきませんが、
現行の行政区分にとらわれない、本来の「自治」の可能な地域社会、
お互いの顔の見える「信頼」の地域づくりの視点が、とても大事になってきていると思います。

コメント (2)
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