冠婚葬祭などの場は、お互いの家族などの様子を確認する大事な場でもあります。
しばらく見ない間に、立派に成長した子どもや老いを増したひとたちなど・・・
そんな姿を見ていると、親の愛情というのは、いくつになっても子どもに対して
無条件に与え続けられるものだと感じます。
年をとって成人したから卒業ということはなく、親にとって子どもはいくつになっても子ども。
死ぬ最期の瞬間まで、子を気遣い思い続ける。
他方、子どもの側からは、そうした姿はわずらわしく感じてしまうことが多い。
でも、親からすれば、それでも無条件の愛を与え続ける。
決して親だからとって完全な人間ではない。
成人した子どもだからといって、完全に自立したわけでもない。
からだばかりでなく、こころの様々な病気もかかえながら誰もが生きている。
親だからといって、すべての問題を解決できるわけではない。
でも、親の問題は、子どもが解決してくれることもある。
子どもも解決できなかった問題を孫が解決してくれる場合もある。
あるいは、たとえ解決できなくても、
次の世代が背負ってくれるだけでも、親はありがたいものです。
そればかりか、箸一本の重さを分けて背負ってくれただけでも、
親からすれば、千キロの荷を背負ってくれたかのように喜んでくれる。
親から子へ受け継がれる命の連鎖のなかで、
互いの気持ちに断絶さえなければ、
どんな問題が親にあっても、子にあっても、
魂の底上げのような作業が、いつか必ずなされていきます。
残念ながら、互いの気持ちに断絶があると、
それは決して能力の問題ではなく、
互いの欠点や問題を非難しあうばかりで、
魂の底上げは、いつになっても起こらない。
親だからといって必ず子より立派な人物であるとは限らない。
でも、親子の間に偽りのない愛情が溢れていれば、
必ず、子どもは親の欠点を非難することなく、
親の解決できなかった問題を解決してくれる存在になっている。
すべての問題をひとりで解決しなければならないのではない。
すべての荷をひとりで背負えなければならないのではない。
ほんの僅かな荷を分け持ってくれる人があらわれたときに、
ひとりですべてを解決すること以上の大きな前進が起きる。
そんな命の連鎖があらわれたときに、
動物的生命の連鎖を越えた人間ならではの生命の連鎖と
魂の底上げのような前進がおきるのではないだろうか。
ルールの枠にはめる教育の世界や、相手に正義をおしつける社会では、
こうしたことは起こりにくいものです。
冠婚葬祭のわずらわしい儀礼には、うんざりすることも多いものですが、
私にとってそこは「命の連鎖」のすばらしさを、いつも教えてくれる楽しい場でもあると
義父の葬儀を終えてつくづく感じました。