以前このブログで、「地方」を「じかた」と読むと、中央に対する地方といった対比を意識しない地方独自の在り方が考えられるようになるのではないか、といったようなことを書いたことがあります。
そのときは「地方組合(じかたくみあい)」という言葉を知ったことがきっかけで書いたのですが、一般には「町方(まちかた)」に対する「地方(じかた)」=農村部から発するイメージが定着しています。
ところが、どうやら私が感じた(じかた)の見方は、語源をたどると必ずしも勝手な独断とは言いがたいそれなりの根拠もありそうな情報にたどりつくことができました。
それは戸矢学『陰陽道とは何か』(PHP新書)という本で知った「天円地方」という考え方です。
「天円地方」とは、陰陽道の宇宙観だ。もともとは、古代道教の思想として初めて形を成し、地理風水にも反映され、陰陽道にいたって宇宙観となった。意味は、そのまま字のとおりで、天は円形であり、大地は方形であるということだ。「円形の天空」とは、「回転」つまり「動」を表している。これに対して、「方形の大地」とは、「不動」であって、「静」を表す。つまり、天円地方というのは「天動説」のことなのである とし、その原型を紀元前5000年から前3000年にまでたどることができると言います。
これは、陰陽道のいくつかの根幹思想のなかでもひと際重要な考えでもあるようです。
一般的には、「天」を天界宇宙の「円」として解釈した説明が多いようですが、この「天」とは、決して自然科学的認識にとどまるものではなく、王や君主、天皇が権威を賦与され信任されるために必用な「天」「神や自然の摂理」といったような意味合いこそが大事なのではないかと思います。
「天円地方」の根拠と事例は、日本のもっとも古い建築物である〈神社〉や〈古墳〉のなかに見ることができます。
古墳の例では、前方後円墳の前方が地上界、後円が天上界をあらわし、「天降り」の儀式では、「円=天」において神霊を受け継ぎ、「方=地」において即位を宣言する。 つまり天界の「円形」の部分と、地上界の「方形」の部分が、それぞれ異なる役割を担って結合しているわけです。
さらにわかりやすい事例が、相撲の世界にあります。
横綱は、四色の房に象徴される四神の見守る結界で土俵入りし、地から天へせり上がる。力強く四股を踏むことで、地の負(陰)を鎮め、天の勝(陽)へと祈り上げる呪術的作法だ。この所作は、陰陽師の反ぱいという歩行術からきている。
「横綱土俵入り」は、もっとも強い力士が腰に注連縄を張って、かしわ手を拍ち、四股を踏む。そのとき、背後では立て行事が祭文を唱える。この様式は、「地鎮祭」そのものである。
人間界「地方」から天界「天円」の内側へ入る儀式でもあるわけです。
このように、土俵をはじめあらゆる場所で、方形と円形が天と地を隔て分かつ象徴としての役割りを果たしています。
考えてみると、相撲以外の競技で円の中で試合をする競技は思い当たりません。部分的にサークルを取り入れた場所はありますが、長方形のなかで争う競技ばかりです。 その意味でも相撲が、地上界から天界へ踏み入る特殊な行為であることがうかがえます。
そしてこの方形と円形の関係が、陰陽道を通じて中国にならい築かれた平城、平安の都の姿、さらには関東平野における江戸城下の整備としてすすめられました。
ここであらためて平城京、平安京などの地形を思い起こしてみると、都の選定や形が深く風水に基づいてつくられていることは当然ですが、この「天円地方」の思想で見直してみると、天円というものが、必ずしも天上、天体や宇宙だけを表したものではないのではないかと思わされます。つまり、方形の外側にある地上を取り囲む自然界(山、川、海、空)すべてが、「天円」に該当しているのではないかということです。
それは、あらゆる自然界=天円のなかに、人間の結界として「方形」の仕切りを取り結ぶ関係こそが、その思想の根幹であるということです。
この考えは風水思想が完成する前のもので、神と交信するような建物は円形、人間が住む世界は方形とみる考えです。
渡邊欣雄『風水 気の景観地理学』人文書院(1994)より
よって、とりもなおさず「地方」という言葉の本来の意味は、およそ中央や都会に対するローカル、僻地などといった性格のものではなく、それは人間界を取り巻く大自然の気(風水)、景観につつまれた人間社会のあり様のことにほかならないのだと思われます。
そもそも「地方」とは、中央や都会からの独立や自主・自立などを目指し目標にするものでもなく、自分たちのよって立つところの自然環境や風水の気を取り込むことによってこそ、その存在意味が成立するものであるといっても間違いないのではないでしょうか。
京都や奈良の都がそうであったように、またかつての江戸がそうであったのと同じように、現代においても本来は、都会、田舎に関わりなくそれそれの地域が「天円」囲まれた「地方」なのだということです。
(最近書いた「みなかみ、そこはカミの依り代」 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/81d8822e3b3b1c87d6b38b7b3b3a60d4
も、そうした観点のはなしです。)
実は、この文章を書き出してから気づいたことなのですが、昔の銅貨の真ん中に空いている穴がどうして丸ではなくて四角なのかを考えると、まさにこのお金こそ「天円地方」の思想のもっともよく表されたものではないかと思われます。
銅貨の中でも有名な天保銭のデザイン「吾唯知足」の言葉。
今までは「足るを知る」のデザインの妙ばかり感心していましたが、これはそれに留まらずはるかに深くすばらしいものなのだと気づきました。
この天保銭のデザインは、お金に対して「足るを知る」をあらわしているだけではなく、自然界=天に対する人間界=地方の足るを知るも表現されていたと思われます。
表現されているのは、お金の話だけではないのです。
注 この銅銭の四角穴は、現実には型取り流し込みで作られた銅銭のバリを取る工程で、作業上クルクル回らないようにするための形状です。
あらためて「足るを知る」をこの銅銭と天円地方の思想からとらえなおすと、決してそれが無駄遣いの戒めや清貧のすすめではなく、私たちがいかに四方(=人間界)を取り巻く自然界(=天円)の豊かなめぐみによって生かされているか、ということの表現であるように感じられるのです。
さらに、「天=円=自然界」の気を取り入れる「人間界=地方」が、えてして風水、運勢、気の流れにばかりみられがちなものが、決してそれに留まらず、まさに物質的な自然界の恵みである光、水、土、植物、動物、微生物によって「人間界=地方」は支えられているのだということもよくわかります。
それをいつから「地方=人間界」の内側だけからコントロール可能かのように考えだしてしまったのでしょうか。
「太陽や月は天からあまねく我々を照らし、恩恵を与え、偏ることはない。また神の井(温泉)は下から湧き出し、これまた誰にでも恩恵を与える。万機はこうした恩恵を受けたからこそうまく行なわれ、人々は静かに安心して生活できる。これは天寿国とほとんど同じである」
聖徳太子の『風土記』中の逸文より、関裕二による意訳。『持統天皇』ワニ文庫より
このことをもう少し文明史的スパンで考えてみます。
天円地方のはじまりは、大自然=天円のなかの一点にしかすぎないような「地方」=人間界からはじまりました。この時期は、圧倒的な天円=大自然の側に軸足があるので、「地方」内部の矛盾を感じることはほとんどなく、自然の力の前に人間はひれ伏し、ただ従うばかりの存在でした。
上の写真は地鎮祭で見られる光景ですが、こうした祭礼に限らず、昔の猟師などは、山中で日が暮れ、野宿しなくてはならなくなると、木の枝を折って四方に差し立て、その中で寝るといいます。悪霊が入ってこないためのまじないです。また軍陣にあっては、敵に居場所を感づかれないためのまじないとしても使われたようです。
これらは、まだ人間界はこの四方(地方)で区切られた結界の外側に軸足を置いていた時代の感覚です。事実、人間界に都市文明が生まれる前の共同体は、民族を問わず、自然界=天円との間には結界を作らない丸いかたちをとっていました。
中沢新一『アースダイバー』より
ヤノマミの村の姿
上の写真に見られるアマゾンのような例は決して特殊ではなく、日本でも旧石器時代から「環状ブロック群」といわれる正円形に住居がならぶ遺跡群が発見されています。
それらの地では、人間界も自然信仰・アニミズム、多神教の段階で、主に母系社会である場合が多く、生命再生思想が根強い社会でした。
つまり、人間の軸足(視点)が、まだ「地方」の外側、つまり天円=大自然の側にあるので、自然生命系の連鎖の中で自らを区別するアイデンティティはほとんど必要とされません。
ここでいう自然とは、明治以降に定着した「自然(しぜん)」とは異なる「自然(じねん)」、つまり「自ずから然り」というべきものです。自らは◯◯谷の者、◯◯山の者などといった表現で、固有名詞で自ら名乗ることを強いて必要としない社会です。
そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。草木すら事問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。 白川静 『漢字』(岩波新書)より
それが次第に部族集団レベルから古代都市社会が生まれはじめると、「地方」の領域が広がり、「天円」に対峙する独自空間、人工の世界が生まれ拡大しはじめます。
ここでは人間の視点や軸足が、「地方」=結界の内側にあるので、天円=大自然との生命のつながりを意識することなく、人間自身の力(呪力)や人間社会内部の交換のみで生きていけるかの錯覚におちいります。
自ら所属する組織、宗派、出身などにこだわらないとアイデンティティを確認できない社会です。
この地方(四方)の内側からみた外側の自然のことを、先ほどの自然(じねん)ではなく自然(しぜん)と呼び、それが人間界に襲いかかる自然であったり、生活空間ではなく時たま観光で訪れるだけの美しい自然であったりするわけです。
前者の段階は、自然信仰、アニミズム、母なる大地、八百万の神、母系社会などのイメージそのままあらわれる「マザーネイチャー」の世界といえます。対する後者の世界は、都市社会の発生とともに、イスラム教、キリスト教、仏教などの一神教型宗教が生まれ、集団相互、集団内部ともに対立を生む関係のもと、それぞれのアイデンティティの主張こそが自らの存在価値につながる社会となります。というよりは、大自然生命との直接的なつながりの喪失そのものが、生命基盤のアイデンティティ喪失になり、そのことが同時に新たなアイデンティティ創出を不可避とする社会ということです。
アイデンティティそのものは、社会では身につけるべきものというほどの積極的な意味合いが強いものですが、仏教的世界観からみればそれは「我」に相当するものです。したがって前者の社会では、自然の力の前には「仕方が無い」という言葉が了承される社会です。たとえ社会のなかでも「我」を捨てた関係が基本になります。
対する後者の場合は、地方の四角領域が広がるほどに自然とは切り離された「人工」の「地方」内部でのモノの交換や独自ルールで成り立つ比率も高くなるので、「地方」内部で人間のつくったはずの安心が壊れるたびに、「それは誰がやったんだ」と、必ず誰かの責任を追及する社会になってきます。
本来は、どんなに拡大した「地方」であっても「天円」に包まれた社会であることに本来変わりはないのですが、「地方」が大きくなるほどに、「地方」の内側だけで社会が成立しているかの錯覚に陥ってしまうのです。
この「地方」内部のアイデンティティ優先社会を私は、マザーネイチャーや母系社会に対峙した父系論理のはたらく社会の意味をこめて「アイデンチチ」と呼んでいます。
(この点はまた長くなるので、「アイデンチチ vs マザーネイチャー」として改めてまとめさせていただく予定です。)
それは、大陸的な境界を壁などで明確に区切る文化とは異なる点にもあらわれています。
日本的な結界の内と外は、大陸の城壁や家のように物理的に境界を固定せず、暖簾、簾、屏風、襖など風が通り抜けられる特徴があります。
このことは、同時にカミの観念にもあらわれていて、カミは特定の依り代につくものであって、必ずしも固定的な中心ではなく、より良い場所、居心地の良いところへ季節と共に移動したりもします。
常に「氣」の流れるところや集まるところを見ていることこそが大事なわけです。
こののように、「天円地方」の理解でもっとも大切なことは、決して「天」が「丸い」ことや「地」が「四角」であることの解釈ではなく、そもそも天地(あめつち)は一体不可分であることの理解として天や地、相互の関係を考えることにこそあるのだと思います。
それはおそらく、現代の肥大化した「地方」=都市化された社会をふたたび「天円地方」の枠組みのなかにとらえ直していくことでもあります。
私たちの暮らす「地方」も、こうした思想のもとでこそ、決して中央に対するローカルな社会といった意味ではなく、そこは圧倒的な天円=大自然の恵みにつつまれた豊かな地方であることが、どんなに文明社会が発達しても変わることのない論理なのだと私は考えます。
群馬の山里風景(筆者撮影)
くれぐれも誤解しないでいただきたいのですが、決して単純に都会の暮らしを否定して、誰もが田舎暮らしをするべきだといったようなことをここで言っているわけではありません。
生命のよって立つところの基本がなんであるかということを強調し、確認したかったのです。
いま生きている私たちはお互いに孤立した近代人なぞではなく、
吹く風や流れる水、
草木のささやき、
山や森さえも
光の糸のような絆をつないでくれているのだということを書きあらわしたかったんです。
(石牟礼道子)
天円地方」に関する他の記事
③ 「自然(天円)」につつまれた人間界(地方)」の力学」旅のイメージ(覚書)
④ 市制町村制による地方自治体がうまれたとき、そこに「地方自治」の概念は1行もなかった。
* 掲載させていただいた図版は、ネット画像検索でみつけたものを使わせていただきました。
出典のわからないものであったため、問題があれば削除させていただきます。