30年くらい前に出会い、
20年くらい前にようやく古書で購入し、
ずっと棚の肥やしになっていた本。
ようやく熟成して味わえる幸せ。
幸田露伴『評釋芭蕉七部集』岩波書店
「七部集」の構成は、
「冬の日」
「春の日」
「阿羅野・員外」
「ひさご」
「猿蓑」
「炭俵」
「続猿蓑」
幸田露伴が「冬の日」の評釋のなかで見事に七部集の要を述べてます。
芭蕉は渋滞せず、執着せず、山を出蔓の水の、茂林深谷の間を行き、平野曠野の中を流れ、觸處に景をなして趣を變ずるが如く、峰にかかる雲の暁天に紫を横たへ、夕陽に紅を暈して、少時に態を換え観を異にするが如し。
春の日は冬の日に異なり、曠野は春の日に異なり、ひさごはまた曠野に異なり、猿蓑はまたひさごに異なり、炭俵また猿蓑に異なり、續猿蓑また炭俵に異なれるを看て知るべし。
猿蓑は好き集なり、されど猿蓑のみに芭蕉の眞◽️正體の籠れるが如くいふは、却って芭蕉を累するのあやまりに墜ちん。
20年前、俳句も素人の自分にはとても理解できないと感じたことは今も大差はないのですが、十分の一程度の理解でも所どころ出会う玉のような文章は、言いようのない深い感動を覚えます。
これが、全くの解説なしの原文となると次のようなもの。
せめて行間くらいは、たっぷりと開けてもらいたいものですが、この『七部集』の場合、一行あけただけでも、相当分厚い1冊になりそうです。
これを片っ端から読み解くことなど、俳諧のプロでもなければとてもできるとは思えません。
これを幸田露伴は、全編にわたり実に丁寧に読み解いてくれているのです。
今読んでいる「冬の日」のなかでは
窓に手づから薄葉を漉き 野水
の「薄葉」の解釈、説明など和紙漉きの知識から言葉の正確な読み取り方まで、白川静の漢字説明以上とも言えるほど、知識、洞察ともに素晴らしいものです。
歳時記に暦や民俗学的な情報が不可欠であるのは疑う余地もありませんが、一つひとつの句の解釈をこれほどまで多方面の古典や風俗などの事象を丁寧に添えて味読された本は、おそらくないのではないでしょうか。
箕にこのしろの魚をいただき 杜國
この句の「このしろ」の解説も見事なものなのですが、漢字変換の出ない文字があまりに多い文なので、紹介はやめておきます。
「ともかく、写真機の在りどころをかえるように句は鍛錬しなきゃいけねぇ。」
「『歩きだす』ことが、たいせつだ。いきなり端的にいい句ができるということもむろんあるが、これァまずよほどえらくなってからのことだ。
こねくることは、芭蕉もいってるようによくはなし、又いつかの初一念ということもあるが、しかし工夫は怠っちゃいけねえ。
ほととぎすの句なら、ほととぎすが飛ぶところ鳴くところを見るか聞くか想像するかして、また花なら花にまずレンズをむけたらシャッタアをあけるまえに工夫しなきゃいけねえ。
句は、はっきりしたのもよし、幽玄なのもいいが、歩いて、動いて、ためて見る、そういう工夫や鍛錬が必要だ。
こうして句ができて、それにみずから確信がもてたらいいのだ。もっともいくら確信があっても道理にはずれちゃ困る。又、はっきりといっても法律や算術とは違う、算術の答はふつう一つだが、詩歌には数かぎりなくある。
明の某は詩経の註の詳しいのをつくったが、この註をみて金銀七宝ずくめながら得体がしれないと評した者がある。工夫も、ただやたらにこらすのじゃおもしろくない、といって安全確実ばかりでもつまらず、しかも不細工ァもとよりよろしくねえ。」
(高木 卓 『露伴の俳話』 講談社学術文庫より)
幸田露伴が果たしてどれだけ写真機を使いこなしていたかは知りませんが、この表現は俳句表現のことにとどまらず、このまま現代の写真撮影の真髄を表しているようでもあります。
幸田露伴『芭蕉入門』講談社文芸文庫
高木 卓 『露伴の俳話』 講談社学術文庫
たとえば釣りの話にしても露伴の談話は、ふかい経験とひろい知識によって裏づけられているので、何といったらいいか、泉の水面がもりあがって水がムクムク湧きでるような、とうていわれわれには受けきれないようなゆたかさがあった。
(同上)
後に柳田國男が『木綿以前の事』の中で、芭蕉俳諧と『七部集』の特徴について見事な解説をしていることを知りました。
柳田國男は、必ずしも俳諧を嗜む人ではなかったようですが、これほど本質をついた文章を書けるのは、やはり柳田國男ならではのことと思います。
まず「山伏と島流し」のなかで俳諧には時代の生活が現れている」とし、「その中には書き伝えておかなかった平凡人の心の隈々が、僅かにこの偶然の記録にばかり、保存せられていて我々をゆかしがらせるのである。卑属と文芸とを繋ぎ合わせようとする試みは、なるほど最初からの俳道の本志であったには相違ない。しかしその人を動かそうとした力の入れ処が、いつの間にか裏表にかわっていたのである。蕉翁の心構えは奇警にも奔らず、さりとてまた常套にも堕せずして、必ず各自の実験の間から、直接に詩境を求めさせていたところに新鮮味があった。」といい、それまでの「俳諧が芭蕉の世の東国を語るごとく、精彩を帯たる生活描写はかつて無かったのである。」と示す。
「独り俚俗の友であった俳諧の記録だけが、偶然にこれを我々には語っているのであった」と、『七部集』から数々の引用・解説を加えています。
さらに「西鶴や其磧や近松の世話物などは、ともに世相の写し絵として、繰り返し引用せられているが、言葉の多い割には題材の範囲が狭い。是と比べると俳諧が見て伝えたものは、あらゆる階級の小事件の、劇にも小説にもならぬものを包容している。そうしてこういう生活もあるということを、同情者の前に展開しようとする、作者気質には双方やや似通うた点があるのである。」
このような解説を知っても、今から20年後、30年後に紐解いたとき、私の理解は未だたどり着きえない世界かと思われますが、それでも味わうたびに得られる感動は、疑いなく深まるものと思えます。
露伴は、大正九年(1920)の53歳のころから80歳で亡くなるまで、ひたすらこの七部集の評釈を続けました。読む側も、それ相応の時間をかけて当然のことでしょう。