videonews.comの番組で、宮台真司が大学へ入って初めて受けた授業で、その教授がいきなり放った言葉のことを話していました。
それは統計学の教授の授業で、立錐の余地もなく自分の講義を聞きに集まった学生たちを前にして、その教授はいきなり怒り出したという。
「君たち、一体何のために大学へ来ているんだ!」と。
「大学というのは、
友をみつけ、友と語らい、
旅をし、知らなかったものを知り、
音楽、映画、書物、
そういったものに時間を使う(そういう場だ)」
「統計学なんて本を読めば一発でわかるだろう!」
時代が変わってしまった今では、この大学教授の常識は理解してもらえないかもしれませんが、この話、大学という特殊な教育環境だけの問題ではないと思います。
そもそも人はオギャーと生まれた瞬間から、
たまたまこの時代に生まれ
たまたまこの日本という国に生まれ
たまたまこの親のもとに生まれて
出会うものすべて、
見るものすべて
触るものすべて、
未知との遭遇を繰り返しているわけです。
その繰り返しのなかで多くは、やがて習慣となり、無意識で行われるようになるわけですが、どんなに多くのものを吸収したとしても、わずか80年くらいの人生の間で、果たしてこの世のものをどれだけを知りうるでしょうか。
確かに学んでいる間、学校は大事かもしれません。
働いている間、仕事は大事かもしれません。
でも、その大事なその枠の外側には常に無限の未知の世界が開けていることを、どうして忘れてしまうのでしょうか。
そもそも、大事な仕事でさえ、成人するまでの20年、定年後の20年を除けば、人生80年と言われるうちの半分程度しか使っていません。いや、8時間労働に換算すれば、1日24時間のうちの3分の1しか使っていません。
それどころか、年間労働日からすれば二百数十日なわけですから、
単純にこの世に生を受けた総時間の中で、働いている時間などというのは、全体の10数%程度でしかないことがわかります。シビアに実態をみれば、おそらくその数字は7%にも満たないのではないでしょうか。
この計算、わかりますか?信じられますか?
(この辺は別の機会に詳しく書きます)
経済活動ではなく生命活動に信をおく社会へ
この意味で、高齢化社会をむかえて働く世代の負担が重くなったことが騒がれていますが、前提そのものが、何かとんでもなくおかしいことにも気づけます。
私たちの生命活動を中心にした社会の枠は、もっと広いものとして考え直さなければならないと思います。
先立つものがあっての日々の暮らしであることに間違いはありませんが、生命活動そのものは、決して仕事の枠だけで捉え切れるものではないのも明らかです。
本来は、この意味で、仕事というのもの在り方を組み立て直す必要があるはずです。
話を戻して先の大学教授の表現を借りれば、
「君たち、一体何のためにこの世に生まれて来たんだ!」
大事な仕事でさえ、生涯生命活動の10数パーセントでしかないことを思うと、私は、アフターファイブの時間の使い方というと誤解されそうですが、賃労働の枠にとらわれない働き方、暮らし方こそが、労働時間いかんにかかわらず、価値ある時間の使い方として考え直ぐさなければならないことと思います。
もう一度、この世に生を受けた奇跡から考え起こせば、圧倒される未知の世界の中で私たちは今生きているわけです。
その意味で、目の前に現れた現実のどこを切っても、いかなる些細なことでもそれは
一生を棒に振ってでもやる価値のあることばかりです。
人生、一回ポッキリの招待旅行を何に使うか
この大事なことを、考えるのをおしむ必要はどこにもないと思います。
誤解しないでいただきたいのですが、黙々とただ家族のために働くことも、とても尊く価値ある人生です。
全生涯の生命活動を思うと、子供を育ててからの人生も長くなっただけに
しっかりと自分の心で決めたことで、
学ぶ
遊ぶ
働く
チャレンジし続ける
ということだと思います。
ただ、その幸せへの道は、所属や参加だけで果たせるようはものではなく、必ずリスクと責任を背負った孤独な闘いの道であることを忘れてはいけません。
ただ単に仕事なんかしている場合じゃないぞ!