以前、高校生が反応してくれたのには驚いたけど、現代は論争がとことん成立しない時代になってしまっています。
価値観や生き方が多様化したといいながら、それぞれの世界が完全にタコツボ化してしまっているのが今の実情。
最近、MMT論をめぐっての池戸万作と成田悠輔のやり取りが話題になっていましたが、本来、これからの経済を考える上で大事な論点なのに、それぞれの側が内部であいつらは全然わかっていないとヒートアップするだけで、真正面からぶつかり合う議論に全然発展しない。
おしゃべりの切り取り情報ばかりが拡散するという現代ならではの環境もあるけど、問題の重要性からすれば、お金の本質や積極財政か緊縮財政かなどは、専門家とジャーナリストと政治家と一般国民すべてを巻き込んで議論されなければならないテーマです。
それぞれが内輪だけで、あいつらは何もわかってないと言い張るのではなく、異質な相手とこそ、真正面から議論し合えることこそがこれからの時代はとくに大事なはず。
きちんとした論争になってこそ、それぞれの思い込みや立証不十分な点も見えてくる。
ただ対立を避けることばかりが、平和の条件ではない。
フェアに闘うということは、戦いそのものが感情的になりやすいだけに、訓練や場数をふむことはとくに必要。
かといって昔の論争の方が優れていたかというと、現代以上に所属する立場、組織に依拠したポジショントークが多かった気もします。それでもタコツボ化する社会よりはマシなのではないでしょうか。
ほんとうの創造性を考えるなら、より異質なものと積極的に交わる姿勢を持ちたいものです。
イギリスのマーガレット・サッチャーは、There is no alternatives(TINA)ティーナという言葉を作ったようですが、国民を選択肢のない状態にもっていければ、為政者はその時点でもう勝ちだという。
「増税以外に解決策はない」
「財源がないのだから仕方がない」
「軍備を増強せずにどうやって守る」など。
「財源がないのだから仕方がない」
「軍備を増強せずにどうやって守る」など。
社会の劣化は、論争が生まれないまま、他に選択肢がないかの意識状態になってしまうところからいつも始まる。
エリート層は「国民が受容し、屈服すれば」、自分たちは権力を維持できるとわかっている。
エリート層は「国民が受容し、屈服すれば」、自分たちは権力を維持できるとわかっている。
世の中が多様化することを良しとするのならば、より異質のものを拒否することなく、異論があるのであれば互いに真正面から議論できる環境を大事にしていきたいものです。
かつて日米開戦間際の陸軍参謀会議室の入り口で、ある参謀が辻政信に呼び止められ、「お前、この会議に同意するのか、しないのか。同意しないなら、会議したってしょうがない」と言われたのと同じ構図が、現代社会でもたくさんまかり通っています。
オープンな論争は、当事者以外にとても大切な学びの環境を与てくれるものです。
同質のものばかりの集団になってしまうと、それは生物学的にも、文化的にも、滅びる運命に至る。