わたしは神仏の話は結構好きな方です。
でも矛盾しているようですが同時にこの
「神も仏もありませぬ」
という言葉も大好きです。
通常、この言葉は、身も蓋もないような状況やそのような言葉づかいのこと指して言いますが、そのような意味とともに私は「神も仏も区別しない」といった意味でこの表現が好きなのです。
歴史的には、神も仏も区別しないとは、神仏習合のイメージがわくことと思います。
もちろんそれもありますが、私は、そもそも神さまというのはサムシング・グレートとしてのエネルギーのようなものであり、それに名前をつけた瞬間から人間軸でものごとを区別し始め、ものごとを差別するようになってしまうのもと考えています。
モーゼも、「みだりに神の名を口にしてはならぬ」と言い、神の名を口にした瞬間から差別や対立が生まれるのだと兄のアロンの振る舞いを戒めています。
そもそもほとんどの宗教の開祖は、教団・宗派をつくったり、偶像崇拝そのものをかたく戒めています。
日本の歴史でも、
雄略天皇が葛城山で異様な神に出逢って「お前は誰か」と問うたとき、
相手は「オレは一言主神(ひとことぬしのかみ)である」と答えてしまう場面があります。
この自らの名を相手に名乗ってしまった時点で、その土地の神は相手(中央の神)への服属、その土地の固有性の封印を意味します。
名乗るとき、あるいは名前をつけられたとき、すなわち特定の立場からの命名であるからこそ、序列や階層性が避けられないのです。
そうした意味で、八百万の神というのは、ただたくさんという意味だけでなく、序列のない多様な世界観という意味で、とても大切な思想であると思っています。
ただ、それは中心軸のない虚無主義やニヒリズムに通じるのではないかとも言われがちですが、私はそうは思いません。
その八百万の神の世界というのは、夜空の満天の星のようなもので、空一面に散りばめられたどこか一つの星であっても、それは太陽の何十倍の大きさの恒星であったり、とてつもない大きさの銀河や星雲であったりします。
つまり、一つひとつの点にしか見えない世界が、とてつもなく大きな世界なのです。
この例で言えば、キリスト教、ユダヤ教、イスラムなどや、天台宗、浄土宗、日蓮宗、真言宗だろうが、神道であろうが、それぞれがはかりしれないほど大きな星の一つひとつであるのだと。
それほど大きいので、星や銀河や星雲の内側から見れば、自分の世界こそが全ての宇宙であるかに錯覚してしまうのは、確かに無理もないことです。
一つの信仰や一つの文化、一人の人間世界だけで、あまりにも広大ではかり知れない世界があるからです。
そんな無限宇宙の世界観を、ひとり空海だけが曼陀羅の宇宙観のなかで、神も仏も全てを包摂したものとして、のちの神仏習合へも通じる世界観としてみていたような気がします。
空海が、ものごとを説明する表現として言葉の力を使ったり曼陀羅図を描いたのは、必要なこととして異論はありませんが、それらの世界の大元は、言葉や形では言い表わし尽くせない大いなる何者か、サムシング・グレートであるという意味で、
「神も仏もありませぬ」
という立場で私はあり続けたいと思っています。
この神社のご祭神はなんですか?と聞かれることの違和感について前に書いたこともありますが、そもそも神の名はみだりに口にしてはならないものだと私は思います。