稗(ヒエ)を食べてみました。
私は、30年近く前、盛岡へ仕事で行ったとき、駅近くのお店のメニューに「稗飯(へめし)」があったのをみて食べてみたいと思いましたが、寄ることができずに帰ったことを悔やんだ記憶があります。
その後、観光地の高級田舎料理を食べさせる店のメニューのなかにあるのを見たりもしましたが、それ以来、未だに食べる機会に恵まれませんでした。
それが、最近、古代史や縄文文化、東日本文化といったくくりでいろいろ考えることが増えるにしたがって、どうしても、クリやトチの実の食文化と「雑穀(一般に米と麦を除く穀物)」の食文化は、しっかりおさえる必要を感じ、実際に食べてみたい気持ちがとても強くなっていました。
ほんとうは、稗と粟、両方手に入れてみたかったのですが、検索すると粟の方は鳥のエサの情報ばかりだったので、今回は稗のみを入手してみました。
食べ方を調べると、塩を入れて炊くことが出ているたので、まず味付け面が心配され、おかずとして何か塩辛のような塩分の強いものがないと、食べにくいことが予想されました。
そこで私自身は、まずお粥か雑炊で食べる準備をしていました。
ところが、そんなことを考えていたときに別宅の妻がちょうど家に来てくれて、喜んでアイデアをふるって料理してくれました。
妻は、最初は鍋のなかに入れてみることからはじめました。
結果的にはこれが、稗の特色を知るには大正解でした。
上の写真の鍋を楽しんでから、途中で稗を入れて食べたのですが、この時は、十分に煮立った他の具材の味と稗の味が、まったく混ざりませんでした。
米のようなカロリーは、まったく無さそうな食べ物。
ものの本には、米より栄養価は高いとあるが、米のように噛んでも味わいはない食べ物。
それが、おいしい鍋の様ざまな具材のなかにいっしょにあるだけの料理、といった感じでした。
感動するほどの味ではなくても、もう少しは風味のようなものが感じられることを期待したのですが、このヒエに限ってそうした感じはほぼゼロに等しいものでした。
昔の人が、稗一升に米一合も入ればとても贅沢に思えたという。
でも、山仕事をするときは米を食わないと力が出ない、と。
そんな気持ちが「この食感」なのかと、とてもよく理解できました。
年寄りから聞く話でよく敗戦後は、芋ばかりの飯にはうんざりした、とか白いご飯に梅干し一個あれば、飯は3杯は食える、とかいった話の実感もこの稗の味を知ることで、とてもよくわかります。
白米の前には、まず玄米があり、麦飯があります。
しかし、その次の稗飯(ヒエメシ、へメシ)、粟飯との間にはずいぶん開きがあるような気がします。
現代の私達の食生活では、美味いのもと不味いものの区別はよくしますが、このように、これといった味もなく、これといった満腹感にもつながらない食品というものは、ダイエット目的のような食べ物ですらなかなかないものです。
ただ、ここからだ大事なのですが、
そんな食べ物であるにもかかわらず「五穀」として、長い日本の歴史を通じて大事にされ続けてきたヒエやアワです。
日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきましたが、「五穀」とは
古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆
日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆です。
「五穀」として大事にさた歴史がありながらも、稗、粟だけは、現代ではほとんど需要がなくなってしまいました。
痩せた土地でも育ち、冷害や干ばつにも強いから昔は大切にされたのでしょうが、今では代替作物も増え、そうした心配がほぼなくなったからなのでしょう。
稗がそれほどまでに重視された理由は、まず第一に、やせた土地でほたらかしでも育ち、冷害や病気に強いこと。
第二に、ビタミン豊富で米より栄養価が高く、米に比べて味落ちもせずに5~6年持ち、10年以上の保存にも耐えること。
でも、もう飢饉の心配はない時代だから、需要はないし消えてしまっても当然ということではなく、もっと日本の歴史を知る文献以外の貴重な手がかりとして、なにか大事な役割があるように思えてならないのです。
私は、万葉の時代の文化をあるホテルのロビーに設置したライブラリーを通じて、ひとつのコンセプトを提案させていただいている都合もあり、ヒエやアワ、雑穀文化はもっと様ざまな角度から掘り下げなければなりません。
さらに、天皇の大嘗祭(新嘗祭)は稲の祭祀かの印象がありますが、行事内容をよく見ると粟と稲の祭祀であ流ことがわかり、加えて粟のほうが先になっていることからも、歴史的に格別の位置付けがあることを改めて考えなければなりません。
ちょっと考え始めると、米をはじめとする食文化自体あまりにもたくさんの日本の歴史と文化、あるいは政治に翻弄された庶民の暮らしが見えてきます。
【参照リンク】
稗めしの思い出(その1)
http://www.shokokai.com/ninohe/kinsyoko/mukashi/rekisi/20.html
近世農民の食生活
http://www.city.yamato.lg.jp/web/content/000002028.pdf
http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun15-3/09uehara.pdf
日本人は何を食べてきたか
http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/50113366.html
稗を知るには、ヒエそのもののその不味さ、味のさなを知ることも重要ですが、ヒエの理解の入口としては、やはり、こんな美味しい食べ方があるという面も見せることが、どうしても大事かと思います。
お米に玄米、稗を混ぜ、菊を添えた雑穀ご飯。
とくに稗の味が引き立つわけではありませんが、こうした雑穀ご飯こそが一般的な食の姿なのかもしれません。
稗の歴史上の食べ方については、野本寛一『栃と餅』(岩波書店)に、以下のような詳しい記述がありました。
まず稗の食法は、①稗飯、②稗粥、③団子、④粉餅、⑤ネバエ(味噌汁に稗粉を入れて練ったもの)、⑥炒り粉、⑦濁酒と、石川県白山麓の焼畑の調査から整理しています。
具体的には、
「稗飯を白く炊くには一升に二合の割で粟を混ぜるとよい」(本川根町長島・滝口さな・明治二七年生まれ)
「五升釜の底にエマシ麦を入れ、その上に米三合を敷く。さらにその上にまたエマシ麦を敷く。米の分だけの水を入れて炊き、火を引く時に稗の粉を湯で掻いてその上に乗せ、しばらく蒸す。蒸し終えて櫃に移す時に全体をかきまわす」(川根町倉平・柿本とめ・明治三八年生まれ)
「鍋で稗を炒り、石臼で碾いて皮を簸出す。できた稗の粉を湯で掻き、それに大根の干し葉を入れて食べた」 (中川根町壱町河内・吉川美智雄・明治二九年生まれ)
「皮つきの稗を鍋で炒り、石臼で碾いてから皮を簸出し、糠と粉の混ざったものを練って塩味をつけて食べた。これを稗餅または糠餅と呼んだ」(本川根町池ノ谷・大村真一・明治三六年生まれ)
などの例があげられています。
ただし、世の中で雑穀が安易なかたちで注目されている傾向に、辰巳芳子さんはひとこと釘をさしています。
まずはじめに「胚芽米」に取り組むことが大事で、その次が大麦。それからが雑穀であると。
ものには順がある。順を踏まぬと真の理解に至りつけない。
ファッション的は冷めやすく、生産の場を混乱させるから。
そんな意味でも翌日の妻のつくってくれたみそ汁は、そうした期待に十分こたえる、とてもおいしいものでした。
油揚げが入ったことが良かったのかもしれません。
このみそ汁にはヒエがとてもよくとけ込んだ味をしていました。
なんとか、この両極の味わい方を演出のなかに入れてみたいものです。
以前、このブログで『フードトラップ』という本を紹介したときに、塩分、糖分、脂肪分の三つが現代人の人工的な旨味、味覚をつくっていることを書きました。
食べ物が本来の「生命」を自然からいただく営みである原点に立ち返るときに、はじめて気づくほんとうの「味」「うまみ」を知るには、このヒエは格好の食材です。
おそらく、多くの人にこれまで経験したことのない「食」を知る、他には例のない学習材料であるのではないかと思うのです。
雑穀には、鉄や亜鉛などのミネラルやビタミンB1、食物繊維、ストレスを緩和するパントテン酸が豊富なので、近年は、健康食品として需要が増えています。
でも、そんなこととはまったく関係なしに、日本の食文化の歴史を知る大事な手がかりとして、一度食べてみることを皆さんにおすすめします。
稗、とても美味しそうです。
滋養深くとても美味しそうで食べたくなり、調べてみましたら
今はお米より逆に高級品なのですね。
それはそうかと思いつつ
きびの方が手が届きそうでしたので
きびにしてみようかと思っております。
きびご飯は好きでしたが、お味噌汁にも入れてみようかと思います。
こちらのお写真のお味噌汁がなんと美味しそうなことでしょう・・。
岩坊さんは本屋さんでおられるのですね
尋常でない知識量になるほどなと頷くばかりです。
渋川に立寄る際には是非覘かせて頂こうと思います。
コメントを度々すみません。
失礼いたしました。
稗、粟が高級品になってしまったのも、民芸の課題と同じ問題ですね。
今、本屋の方は、週に3回、半日だけ顔を出しているだけです。もしご来店いただける場合は、ぜひご一報ください。