かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

AIの急激な進化にこれからどう向き合うか

2025年01月04日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

新年明けましておめでとうございます。

 

2024年は、メジャーリーグでの大谷翔平の進化スピードに、ひたすら驚くばかりでした。

他方、昨年たった1年でのchat GPTに始まるAIの進化、普及のスピードにも驚かさせ続けています

通常の物事の進化、発展スピードは、倍々ゲームで増えても驚くのに、AIの進化スピードは、100×100×100×100・・・といったようなレベルで進歩していきます。

大谷翔平の進化スピードでさえ、私たちの感覚はついていけないほどなのに、AIのこのスピードが理解できるはずがありません。

ところが、数学的思考に慣れている人たちは、この次元の違う世界を記号で理解します。

地球上の感覚だけでなく、宇宙の世界レベルを日常把握しているからです。

地上では、近くのものは大きく、はっきりと見えて、とおくになるほど小さく霞んで、やがて見えなくなるのは、数十から数百キロの世界。

それが宇宙では、数万キロどころか、数億、いや何万光年といったスケールが日常世界。

これはとても地上の私たちの日常感覚では、ついて行けません。

 

でも、冷静に考えると地上の日常世界でも、この次元の違う世界を目の当たりにして感じることができる時が身近にあります。

それは、夜の星空。

 画像はイメージです。

地球上の日常では、頑張っても数百キロ先くらいしか見ることが出来ないのに、同じ場所で夜になれば、数万から数百万キロ先の惑星ばかりでなく、何万光年先の星や銀河までが、肉眼で見えているのです。

夜空で点にしか見えない星が、太陽よりはるかに大きな恒星だったり、巨大な銀河の塊であったり。

 

AIの異常な進化スピードは、たしかにこれまでの私たちの日常感覚ではとてもついていけないような世界ですが、もう一方で日々見ることができる星空の世界は、とてつもない世界を日常感覚として誰もが感じることができると言うことも、現代人は思い起こす必要があるのではないでしょうか。

地上の日常感覚の隣りに、異次元の日常世界があることを日常感覚として受け入れる時代がやってきたのだと思います。

もしかしたらその辺は、古代人の方がよく理解していたのかもしれません。


今ふと、この大きな変化は、産業革命のような大きな変化というよりは、ルターの宗教改革に似ていると感じました。

AIは、何か特定のモノというよりは、日常のあらゆるモノに浸透していく技術なので、それはちょうど、教会のなかで神父さんの言葉を通じてしか学べなかった信仰が、グーテンベルクの印刷技術の発明とともに誰もがいつでも手元に聖書があることで神とともにいられるようになったようなもの。

そう思うと、かつてないような大変化も、歴史の1ページとして冷静な受け止められるような気もします。


 

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業界主導の産業社会型資本主義時代の終わり ~書店の未来を真剣に考えてみた ② ~

2024年12月22日 | 出版業界とデジタル社会

いま起きている様々な変化のなかでも、意外と見過ごされがちな大事なことに「産業構造の変化」があります。産業構造などはいつの時代でも変化し続けるものですが、ここでいう構造の変化をは、産業それぞれの構成比の変化ではなく、業界を問わず、産業社会全体の構造が変わりはじめたということです。

この現象は、歯止めのかからない書店の減少が話題になっている一方で、まだ比率は少ないものの独立系書店が確実に増加している傾向のなかにも見てとれます。
ギリギリの経営を続けている既存書店側からみれば、それら独立系書店の多くは副業型であったり、古書店タイプであったり、採算にのせることはおそらく難しいいであろうと思える例が多いのは事実ですが、大事なことは、これまでの多くの書店が行ってこなかった個性的な品揃えや営業スタイルを様々なかたちで挑戦して、どこでもそれなりの成果をあげていることです。
たしかにそうしたことは、本業でないからこそ出来るという面もありますが、従来の書店は独自の品揃えや陳列、売り方の工夫が確かに十分であったとは言えず、独立系書店の多くはそれらの新しいかたちを明らかに実現してくれており、それは間違いなく読者に歓迎されています。

この独立系〇〇といわれるような既存業界の外側に広がる新しい様々な業態は、書店業界だけではなく、農業や飲食業やあらゆるサービス業、はては製造業などでも大きな流れとなっています。
自動車や家電などの大手企業でさえも、それらの製品を構成する部品の一つひとつは、どこの国のどんな零細企業、ベンチャー企業がつくっているかわからないような時代です。もはや〇〇業界や〇〇業界団体に所属するかどうかは全く意識することなく、さらには国すら問うことなく、必要な技術は必要な提携先と連携したビジネスがいつでも可能になり、事実そうしたことが至るところで行われている時代なのです。

またこの流れは、生産過程だけでなく、流通過程でも確実に広がっています。
右肩上がりの時代はずっとスーパー、百貨店、ショッピングセンターなどを軸とした量販型の流通ルートが大半を占めており、それらはどこも卸売り業者を経由することが大半でした。ところがそこにネット通販の登場などとともに、主要卸売ルートを通さないダイレクト販売の比率は、農産物直売所などとともに、個人の生産者が直接消費者に販売するスタイルが加速し続けています。
こうした流れは、単に流通コストを省くためだけではなく、消費者が信頼できる生産者とダイレクトにつながることができる生産者と商品への「信頼」が保証されることも大きな要因になっています。新鮮で安全な信頼できる食品が手に入るのであれば、ただ流通コストが省けて安いだけでなく、たとえ割高であっても従来の流通ルートよりも信頼できるものとして消費者に選ばれることが多くなっています。

既存業界の枠の拡大を目指す従来のスタイル


確かに、自分達の業界をなんとかして欲しいという願いは誰もが持つものです。

ところが今の日本国民の多くは、昔と違ってどの業界団体にも所属しない働き方をしている国民の方が圧倒的に多くなりはじめていることに今の政治は対応できていません。政治家の側は、それをただ組織率の低下、政治的無関心、政治意識の低さとばかり捉えています。

もちろん、今の流れで非正規雇用や非組織型労働者が増えるのは、決して良いことではありませんが、時代の根本的流れを見れば、一つの仕事だけで一生生きていくというこの半世紀に急速に拡大したサラリーマン型雇用というのは、確実に減少の方向に向かいっています。生涯にわたってさまざまな仕事を同時並行に行う「百姓」型の働き方や生き方がこれからの時代では自然な労働の姿になりはじめています。

そこでは企業も個人も、それぞれの業界内には収まらない、フリーエージェント型の働き方が多くなりはじめており、むしろその方が、豊かな社会に近づく道であることに世の中全体が気づきはじまたかに見えます。これは、雇用を守るという原則には反する思考かもしれませんが、人が豊かに働き暮らすという方向を考えれば、決して悪いことではありません。

業界枠にとらわれない自由な個人のネットワーク社会

「ニッチ」という言葉があります。


ビジネス用語では、特定のニーズを持つ小規模な顧客層や専門分野を指す言葉として「ニッチ市場」「ニッチ産業」などの表現として使われています。
 ところが、このニッチという言葉も生物学用語では、「生態的地位」として使われています。
 動物であれば、餌となる植物や他の動物、隠れ家など、植物であれば、光合成に必要な太陽光や根を張るための土壌などが該当し、それぞれの個体にとって必要なまわりの環境との関係を表すことばとして使われています。

 ビジネス用語といてのニッチが、もっぱら規模の問題として語られているのに対してこの生物学用語のニッチは、存在位置にかかわる関係性の問題としてとらえているので、規模や量にかかわりなく、自らの立場をどう編集しデザインするかということが必然的にともなってきます。
 他方、ビジネス用語としてのニッチでは、どうしても関係性よりも個々のグループ内での所属・参加の問題に思考がとどまってしまう傾向が否めません。

 

まさに、この生態的地位こそが、独立系書店の台頭に象徴される従来の業界主導から、個々の事業の働き方、暮らし方を含めた関係の在り様いかんによって成り立つこれからの生産や労働の姿であるといえます。

さらに、ガンジーは、早くからこうした社会の理想像を「大洋のような輪(オーシャニック・サークル)」として具体的にイメージしていました。
「この構造の中では、けっして上昇することがなく、ひたすら拡がり続ける輪があるばかりだ。世の中は、底辺に支えられた頂点を戴くピラミッドではない。そうではなく、個人を中心とする大洋のような輪だ。・・・・したがって、いちばん遠い外周は力を振るって内側の輪を圧し潰すことはなく、中のもののいっさいに強さを与え、そこから自らの強さを引き出す」

これまでの産業社会型資本主義では、大きな仕事のあるところにたくさんの人を移動させる社会として発展してきました。それに対して、個々の人びとの生態的地位が明らかになるこれからの社会では、人のいるところに小さな仕事をたくさんつくったり持ってきたりする社会です。
それは、決して自給自足型や原始生活への回帰を目指すものではなく、ガンジーの考えていたのは、「自らの存続に必要なものを近隣に頼らないが、依存が必要な他の多くのものについては互いに頼り合う」社会です。

都市・地方を問わず過疎化などの人口減少が加速する社会では、大きな仕事のある所へ人を集めるのではなく、人のいるところへ小さな仕事をたくさん増やす転換こそが、大事な鍵になります。

コロナ以後、リモートワークなどが急速に広がりましたが、大事なのは仕事も遠くからばかり持ってくるのではなく、人が今いる場所で発生する様々な課題や需要に応える小さな仕事を発生させるといいうことです。詳しくは後の具体策のところで書きます。

このような意味で、従来の「ギョーカイ」軸の産業型資本主義は世界史的な流れのなかで終わりはじめているのです。もちろんそれは一気に消えるわけではなく、第一次産業の農林漁業が就労人口が大幅に減っても絶対になくなることはないのと同じように、必ず一定量では残り続けると思います。

出版業界で広がる業界の外側領域
こうした現実は、出版業界でも確実に進んでいます。

かつてはトーハンや日販と取り引きがしたくても、保証金などのハードルが高く諦めざるをえなかった中小零細出版社があり、そうした版元をカバーする存在として地方小流通センターなどの役割がありました。またミシマ社やディスカヴァー21のように、取次を経由せず自らの営業力で書店と直接つながり販路を確保する例なども増えてきました。
ところが、この数年ほどの間にそれらのさらに外側の流通ルートが気づかないうちにかなりの広がりをみせてきています。
そのひとつの契機は、前にふれた独立系とよばれる書店の増加です。
従来の取次ルートへの参入が難しいからというはじめのきっかけはありますが、大型書店でも置いていないような小さな版元と直接取引をして少しでも粗利のよい条件で仕入れている独立系書店は少なくありません。しかもそうした零細出版社の本は、確かに量販品ではありませんが、一部のコアの読者には熱烈な支持を得ているところが少なくありません。まさにマスメディアに対抗する本の情報の醍醐味を味わえる世界がそこにはあります。
実際にトーハン取扱の新刊書は1日に200~300点ほどありますが、それらの新刊情報を丁寧にチェックしても出てこない貴重な良書の数はかなりの数にのぼります。ここを一部の独立系書店は丁寧にフォローしてくれています。

さらに、BOOKOFFなど古書店の棚をみていると感じますが、それら個性的な書店すらも経由せずに、版元が直接読者に届けるダイレクト出版のような本の比率もかなり増加の傾向にあります。これはネット販売ならではのマーケティングやきめ細やかなネット広告技術の徹底により、多少高額な商品であっても、かなりの市場を拡大し続けることが可能であることを立証してくれています。

電子書籍の領域では
さらに急速に拡大しています。印刷、製本、流通の手間がなければ、読者と直接つながる道には様々な可能性が開けているからです。このデジタルマーケティングの領域こそ、広告効果のリアルタイムでの測定や、顧客動向の分析、さらには顧客の囲い込みなどの技術で、まさに紙かデジタルかを問わず、これからのあらゆるビジネスの中核をなしていくものであることは間違いありません。

このようにわたしたちの気づかないうちに、DXを通じた従来の「ギョーカイ」の外側の市場世界は、想像を超えたスピードで急速に広がっています。それは決して書店業界、出版業界だけのことではなく、他のあらゆる業界で脱・横並び型社会化し、外側へ分散するエネルギーとして世界中で同時に起きていることです。

それに引き換え今の政党政治は、それぞれの政党が経団連、医師会、労働組合、宗教団体など、各業界を代表する利害団体の代弁者としての性格を未だに色濃く持っています。
そのため、個々の業界利益を優先し、票につながる補助金型予算獲得にばかり終始し、業界間の対立構造がそのまま政党対立の構造になってしまっているので、失われた30年がもたらしている深刻な日本全体の共通課題を最優先にする抜本政策を問うことより、どうしても個別の業界利益を優先してしまいます。

 

ここからは余談ですが、このような意味で今の沈没し続ける日本の現状をみれば、災害被災地を含めて最優先されるべきは、個別の業界向けの補助金、交付金の獲得よりも、まずは「減税」だと思います。

ただ息をしているだけでお金が消えていく暮らしから解放されて、国民がより自由に動ける環境、賃金アップよりも可処分所得の増加こそ第一の指標にする政治を行わなければならないことに気づきます。生活費は下がることによってこそ国民の活力は増し、結果的に税収増にもつながることは、各種の統計でも立証されています。

もちろん官僚は、自分たちの予算を増やせる政策は積極的でも、自分たちの予算が減る政策は評価されない構造にあるので今の逆噴射構造は容易には変えられませんが、まさにそこにこそ国民による政治の力が問われるわけです。
そんな時代ほど、誰かひとりのリーダーシップによるガラガラポンを期待して、過激なことを言う人に一票を入れたくなる気持ちもよくわかりますが、こんな時代だからこそ結論を急ぐことよりも、きちんと根本がら考えるる方向での地道な努力こそが求めてられているのだと思います。今この危機に直面して、遠まわりなことなどしている余裕などないとも言われそうですが、今ほど安直な答えや急激な変化を求めることが危険な時代もないと思います。

だからこそ、ただ安直な答えを知ることではなく、自分で考えることを基本としている「読書の力」に依拠した本屋の未来は明るいと思えるのです。読書の文化は、口承文化よりも個人主義的で自主的だからです。

教育現場や公共図書館などと足並みを揃えた、抜本的な学びの環境を変えていくことでこそ、それは容易なことではありませんが、長期的にはこうした目標を据えた上での改革でないと、これからの時代は生き残れないことも確かであると思います。

#僕たちは地味な起業で食っていく

 

前回 戦略の誤りは、個々の戦術や作戦の成果では取り戻せない ~書店の未来を真剣に考えてみた ① ~

次回、前提3 人類の「公共財」としての性格こそ「本(情報)」の本質 (準備中)

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戦略の誤りは、個々の戦術や作戦の成果では取り戻せない ~書店の未来を真剣に考えてみた ① ~

2024年11月25日 | これからの働き方・生業(なりわい)

冒頭から失礼ですが、わたしは、いまの書店業界の問題解決のための第一目標は、「紙の本の文化を守りましょう」や「まちの本屋を守ろう」ではないと思っています。

もちろん、そうした問題が大事であることに異論はありませんが、いま私たちが直面している深刻な問題解決のためには、これからの日本社会のあり方をどうするかといった根本問題を抜きに業界内だけの問題を考えていたのでは、抜本的な解決にはならないのではないかと思うからです。

以下の文は、すでに書店数がピーク時の半分以下になり、本屋のない自治体が増え続けるなか、地域の様々な需要に応えていくこれからのフルスペック型書店「まちの最後の本屋」とはどのようなものかを考えていくために書いたものです。この考察のなかには、いわゆる独立系書店やセレクトショップ型のなんらかの専門書店や古書店、あるいはブックカフェなどは含まれていません。

そのためには多少遠回りにみえても、まず以下3つの前提を踏まえることがどうしても不可欠であると考えます。

 ① 出版業界の今問われている諸問題を解決しても、日本経済全体の衰退スピードに容易には追いつけない

 ② 業界主導の産業社会型資本主義の終わり

 ③ 本という情報のいちばんの本質は「商品」ではなく「人類の公共財」

こうした前提からまちの書店の具体的な対策を語らなければならないのは、私の関わっている書店も世代交代の時期にあることや、2028年(ずれ込む可能性あり)の教科書改訂から教科書のデジタル化が本格化することが予定され、2030年に至る時期が教科書販売を経営の柱にしているまちの本屋の大転換になることが予想されるからです。ここはどうしても長期的視点にたって根本的考察をする必要があると考え、長くなりますが以下に説明させていただきます。

 

前提1 出版業界の今問われている諸問題を解決しても、日本経済全体の衰退スピードに容易には追いつけない
       ~戦略の誤りは、個々の戦術や作戦の成果では補えない~

たしかに、出版業界内部で改善すべき深刻な課題は、ネットやデジタル領域に市場が加速的に移行していくこと、本の粗利が異常に小さいこと、流通システム改革が遅れていることなどたくさんあります。

しかし現状の危機を招いている数字上の圧倒的要因は、出版業界固有の問題ではなくて、日本社会全体の問題であると私は思っています。つまり、1996年頃をピークとして、OECD諸国のなかで日本経済だけが30年近く成長していないことです。より正確には、経済成長していないというより、一部の大企業は記録的な成長を遂げていながら圧倒的多数の国民生活は貧しくなっているという構造です。
出版業界や本屋独自の切実な課題もたくさんありますが、変動している数字の9割近くの実態は、日本の小売業全体や国民生活共通の実態を反映したものであり、国民の可処分所得の低下、将来への不安が無くならない日本の政治に由来していると考えます。

 

 

 

 


もちろん、賃金が上がることや適度なインフレが継続することも大事かもしれませんが、ほんとうの一丁目一番地は、「日常生活の固定費が下がり」「可処分所得が増える」ことと「労働時間の短縮」です。
この第一目標を理解せずに、「適度なインフレ目標」や「賃金アップ」や「手取り収入」だけを目標に掲げていたのでは、数値的にみかけの成果が表れたとしても、私たち国民の暮らしが抜本的に豊かになることはないと考えます。

ましてや多少の少子化対策の効果が出たとしても、下図からもあきらかなように、数十年は厳しい人口減少トレンドが変わるはずのない状況で、今のままではそう簡単に日本経済全体が回復することはないからです。

 

 


上のグラフは都道府県の中でも、もっとも厳しい未来が予想される秋田県の例ですが、
市町村レベルで考えたならば、
秋田県の例が決して特殊ではないことは容易に想像がつきます。

こう言うと、自分の独自努力を放棄してものごとを他人のせいにする言い訳ではないかと言われますが、経営は、業界内だけの視点に偏ることなく、まず全体を左右している大きな要因をしっかりと見据えたうえでないと、戦略を根本から見誤り、結果が伴わない努力に終わってしまうものです。戦略の誤りは、個々の戦術や作戦の成果では補えなえません。

下の図をみてもわかるように、日本史上経験をしたことのない大きな変化に私たちは直面していることを忘れてはなりません。

この大変化の構図をみると、書店粗利の数パーセントの改善や、物流システムの改善、雑誌付録の書店負担の問題などそれらすべてを解決できたとしても、書店減少の勢いを止めることは容易には出来ないことが想像つくことかと思います。

加えて、右肩上がりの時代を過ぎても、出版点数は増え続け、なおかつ本に関する情報流通は1996年のピークを過ぎてからの方が、新聞や雑誌の書評や広告中心の時代いくらべたら飛躍的にネット上で増大しています。そうした条件下でも売上が下がるということは、出版社や書店側のシステムが改善しても、た易く上向きになるとは思えません。

 

 

こうした問題をただ業界内の課題に狭めてしまうことは、むしろ国民的共通課題から目をそらす方向に、出版業界や各業界が加担してしまっていることにもなりかねないことを強調させていただきます。

また今の政治状況をみるほど、政党がそれぞれの業界(財界、労働組合など様々な業界団体)の代弁者にとどまっている限り、30年デフレ脱却への道は、いつまでたっても切りひらけないのではないかと思えます。

念を押しますがここで問うているのは、問題の立て方の順番の話です。各論は各論で、どれも大事なことに変わりはありません。

 

 

 

次回、前提2 

業界主導の産業社会型資本主義時代の終わり ~書店の未来を真剣に考えてみた ② ~

 

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立派な計画より、大事なのは「やり抜く覚悟」

2024年11月24日 | これからの働き方・生業(なりわい)

道は近きにあり。
というけれど、その近くの存在こそが一番やっかいで、自分にとっての価値があること。

よく相方から注意されてるけど、頭で考えるほど答えは遠いことろにばかり持っていってしまう。

ところが自分自身が直面している足下の問題ほど、もっとも厄介であり、その足下の厄介な問題のなかにこそ、ほんとうの答えはある。

仕事を「ほぼ出来た」「だいたいやってる」「このくらいでいいだろう」で済ましている内は、そこに自分のクレジットを書き込むことは出来ない。
またそうした仕事で済ませている限りは、次の世代にバトンを渡すことにもならない。

これは決して完璧主義のことを言っているのではありません。

目の前のひとつをやり抜く、やり切る「覚悟」の問題です。

もちろん何をするにも他人の協力や理解は不可欠です。でもその場合でも、どんなに立派な企画書よりも、まずは自分自身の覚悟が第一であるということです。


どれだけエネルギーを注ぎ込めば答えが出るのかはまったくわからないし、誰もあてにすることもできない最後の1%、0.1%の詰めの作業が、自身のこれからの務めであると、先日、甥と話していて確信することができました。気づくの遅かったかもしれないけど😅

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最近、妙に鼻につく「自由」や「リベラル」という言葉

2024年11月18日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

近代民主主義の父と呼ばれるJ・ロックが、「個人の自由」を唱え、それは海を渡ったアメリカの独立宣言で、「生命、自由及び幸福追求」の権利という表現に結実しました。

ところが、ロック自身の『市民政府論』の中では、「生命、自由、財産」の3つであらわされてます。
アメリカの『独立宣言』を起草したジェファーソンは、「財産」という言葉は崇高な建国の理念としてはあまりにも露骨すぎると感じるデリカシーがあったのか、これを「幸福追求」という上品な言い回しに書き換えた。(関岡英之)
日本国憲法第十三条の「生命、自由及び幸福追求」という文言は、このアメリカ独立宣言を丸写ししたものらしい。

フランス国旗の青、白、赤の三色は、自由、平等、博愛だそうだけれども、この三つ目が意外と「財産」であったり「博愛」であったり、「幸福追求」であったり微妙に変わる。

いまやアメリカ建国の父ジェファーソンのデリカシーなどどこへ行ったやら、「自由」=「財産」とばかりに、世界に「博愛」や「幸福追求」などはどこか隅っこの方に追いやられてしまいました。
さらに「自由」も「財産」の自由なら認められても、個人の尊厳をもとにした絶対的自由など、様々な「世間」や「公共」の圧力のもとに「自由主義陣営」などという恥ずかしくなるような言葉とともに厚かましく覆い隠されてしまいました。

トランプが登場していろいろ世の中を引っ掻き回してくれるおかげで、この「自由」という言葉の真の意味や実態が、ようやく問い返すチャンスがちょっとだけ出てきてくれた感じがして、それが個人的にはとてもありがたい。

というのも、最近はやたら「自由主義陣営」とか「民主主義陣営」、はたまた「リベラル」といったような言葉が妙に鼻につくようになってしまったから😅

毎度わけのわからないことばかりですみませんが、自転車には、他のあらゆる移動手段と違ってこの「自由」を不思議と感じることができます。

車でもモーターバイクでもなく、電車でも徒歩でもなく、なぜかグラベルロードバイクには、「自由」が最もしっくりと収まる。
理由を聞かれたら困るけど、そこには「自由」を得るために必要な大切な何かがあるように感じられるからかもしれません。

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