地域社会や共同体自治を考えるとき、現代の機能しない「地方自治」の根本的問題が、そもそも明治の「町村制」のスタート時から横たわっていることを、地方自治に携わる人たちや地方自治を語る人びとがいったいどれだけ知っているでしょうか。
とても大事なポイントであるにもかかわらず、その歴史的経緯がほとんど知られていないのではないかと思うので少しでも多くの人に知っておいていただきたく、長い引用になりますがメモとして以下の本の一部を転載させていただきます。
『行き詰まりの時代経験と自治の思想 権藤成卿批評集』 書肆心水 2013刊
権藤成卿(ごんどう・せいきょう/せいけい)1868年生、1937年没。
在野の東洋古制度学研究者。明治以来の官治主義、資本主義、都会中心主義を批判し、原始以来の伝統的な生産・生活共同体の尊重を訴え、昭和期の農本主義思想家として大きな影響力をもった。昭和恐慌下の農村救済請願運動の中心人物の一人となり、その思想は血盟団事件などの思想的背景をなすものと見なされた。
主要著作 『皇民自治本義』1920年、『日本震災凶饉攷』1932年、『農村自救論』1932年、『君民共治論』1932年、『日本農政史談』1932年、『自治民政理』1936年、『血盟団事件 五・一五事件 二・二六事件 其後に来るもの』1936年。
この権藤成卿という人は、今ではほとんど知る人もいないのではないかと思いますが、おそらく戦後民主主義の側からの右翼的イメージが先行して、こうした著作の評価が顧みられずに歴史からほとんど忘れられてしまったのかもしれません。
(以下、本書95ページからの長文引用となります)
市制町村制
或る国と或る国との風俗習慣がそれぞれ異なっているように、自治に対する観念やその組み立て方もまた国々によって、独特の発達をしたものであるが、明治の藩閥官僚によって採用され、市制町村制として現在まで実施されている我が国の自治制度というものは、実は日本に於いて昔から自然に成長してきた自治の観念や組織とは根本趣旨が異なったものである。
明治二十一年に制定された「市制町村制」は、制定当時の政府顧問であったドイツ人のモッセとロエスレル の二人が、主としてその起草に当たったのであるが、この法制中に使用されている「自治」という言葉は、無論ドイツ流の自治を意味しているもので、日本古来の特質をいい表わすために使用されたものではなかった。外国制度上の「自治」を意味する外国語の翻訳に当たって、日本の用語である「自治」をあてはめたにすぎないのである。従ってその施行された自治制度の実態は、言葉こそ自治であるが、日本の本来の自治という言葉に含まれているさまざまな固有の要素を、抹殺するかないしは歪めるかして、組み立てたものであり、むしろそれはプロシアの地方制度を、そのまま移動したようなものといえるのであった。では一体その移植したものは、どんなものであったかというに、一言にしていえば、自治体の国家化出会ったのである。
本来、我が国古来の自治というものは、民衆がその衣食住生活を基礎とする公同共存の信条によって、自然に結び合った状態をいうのである。従ってそれは、民衆によって生み出されたところの、民衆の生存の仕組みなのであって、他の誰かの命令によって生み出されたものではない。民衆は治められるものではなく、自ら治まるのである。すなわちその自ら治るということは、民衆の義務であり、同時に権利であって、公同共存の生活をみだす者に対して、民衆が制裁を加えるのは、この権利と義務が発動した場合である。それ故に、この権能は自ら治まること自体の中に含まれているもので、これが真の自主権というものである。
「国家の統治作用を或る一地域の団体に委任したものが自治である」
「自治権は国家の統治組織の一部である」
「だから自治体の自主権の内容を規定するものは国家である」
「自治体は国家の監督下に在らねばならぬ。そして法令の範囲内でしか仕事をすることはできない」
「自治体の仕事をするという権限は、自治体が当然に有する権限ではなくて、国家がその目的を達する上に、特に自治体に与えた分権である」
これでは、自治体というものは、まるで国家の手によって、造られたもののようである。だが、本来の国というものは、人間の安全な生存のための集団生活が、漸次に村落の自治となり、村落の自治が更に郡県の自治となって、そうして郡県の自治が集まって、遂に一国となったものである。それ故に、自治体こそ一国の基礎単位である。
だが、明治の藩閥官僚は、この基礎単位たる自治体を、より良く発達させるように案配調斉したのではなく、返って自分らの「統治」に都合のいいように、自治体から自治の権能を奪ってしまったのである。
自治と地方分権
そして彼らは、自治体から自治の権能を奪うために「地方分権」ということを強調したのである。彼らのいう地方分権とは、中央の権力を地方に分ち与えるということであって、自治体によって存立してきた、固有の権能を認めるということではなかった。もしも自治体が本来何の権能をもっていなかったものなら、これで理屈は通るであろうが、本来の自治体は、それ自身の存立のために、立派な権能を持っていたので、それは自治する人の義務が、他から強制された義務でないのと同様に、他から分かち与えられた権能などではなかったのである。それは与えられなくても、すでに持っていた権能である。
地方分権とは、この権能を奪う代わりに、中央の権能を分譲しようということに過ぎない。そして「市制町村制」は、この目的にそって実施されたもので、すなわち「市町村は国土分画の最下級であるが、ある限界内においては自治の権能を与える」というのである。事実、こういう意味での権能は与えられたが、それが自治権能でないことは明らかである。或る人々は、現在の「自治体」の「自治」は、官から与えられたものだから、「官治体」という方がいいといっているが、けだし正当な言葉である。
このようにして、地方分権の呼称の下に創られた「市制町村制」の発布後は、自治体の自治活動を全く拘束する結果となり、自治体はその本然の機能を発揮することができないような有様となり、自治は萎縮してしまったのである。 「市制町村制」は制定後近年に至までに、幾度かその条文を改めたが、現行制度にあっても、依然として自治体は名目のみの自治体に止まっている。すなわちその権能は、相変わらず「国法」の特別指定するものとされて居り、更にこういう権能は、自治体にとって権能ではなくて、むしろ「負担」となっている現状である。
農村に及ぼした結果
このように「市制町村制」の制定後は、昔からの共同的自治の平調が破れ出し、伝統的性質が根底から崩れ出したのである。
その結果は、例えばこれを農村についてみれば「村」と「村民」とは全然隔離されてしまい、両者の関係は、この自治制が布かれる以前のような密接不可分なものではなくなったのである。何故そうなったかと言えば、すなわちその原因は、旧来の町村が改廃分合されて画一的な「行政区」にされてしまったことにもあるが、何よりもこの町村が、町村民と別個独立の「人格者」となった点にある。別のいい方では、町村は、それを構成し組織している町村民から、全然離れた「法人」という擬個人となったからである。これは西欧の個人主義的な法人思想が、この新しい自治権の根底に横たわっているからである。このような個人主義的形態は、個人所有権の確立を眼目とし、自治体を自分らの統治下に、新編成しようとした藩閥官僚には、まことに好都合なものであったに違いないが、しかし我が国の成俗とは全く相容れないものであった。
旧来の村落形態にあっては、村と村民とは、密着した一つの概念であり、村が村民と離れて抽象的に存在しうるなどということは、考えることもできなかった。村といえば、全村民が思い浮かぶように、全村民は村について生きていたのである。換言すれば土着的に生きていたのである。しかし「土着」の原則が破られた現在にあっては、このような関係を単に観念上に形成するさえ困難であるが、事実維新前後までは、村と村民とは不分離の全体であって、村の負担する公租は当然村民全体の共同負担であり、村の債務は同時に村民全体の共同債務であり、村の防衛は同時に村民全体の任務であり、そして村有地は同時に村民全体の所有地であったのである。こうした村落組織自体こそ、村民の公同的な、連帯的な、自治生活の公同修睦を示して余りあるものであるが、明治の翻訳的理論は、これを「狭溢な村落根性」として排撃したのであった。そして村落固有の歴史制を破棄して彼らが遺成した新町村は、住民にとっては「他人」の如き、従って自治の実態の伴っていない、形式的なものに過ぎないのである。ーーー自治体を法人としたことは、自治体を個人化したことであり、それはまた村が村民から独立した別個の個人として行動することを許したものである。