すでにニュースでご覧になった方もおられるだろうが、今日、事件があった。
姪っ子が帰省するというので、駅まで迎えに行ったときのことだ。時間を聞き違え、ずいぶん早く出向いてしまったようだ。
愛・地球博の影響だろうか、観光地であるのどかな当地にも、外国人の姿が目立つ。
駐車場に車を止めようと苦労していると、時ならぬ悲鳴と怒号が上がった。ひときわ意味不明の怒声が響き、その後、ドタドタと駆け回る足音だろうか異様な物音がこちらに向かってくる。思わず降りて様子を伺おうと車のドアを開けた瞬間、強烈な衝撃音と同時に、ドアに何かが当たる強い衝撃があった。驚いたどころではない、反動で助手席まで飛ばされそうになったほどだ。
訳が分からぬまま、外に出てみると、ボンネットサイドに全身黒づくめのスーツ姿の男が腕にアタッシュケースを大事そうに抱えて昏倒している。
今の衝撃
突発的な事故
加害者はぼく…
思わず青ざめ、男に近寄ろうとした。
そのとき、迫り来る複数の足音が止まり、服装から判断して中近東の人らしき小集団が、駅員らとともに気絶した男の胸もとから鞄を奪い取った。唖然とするぼくに駅員が言った。
「ひ、ひったくりだったのです。こちらのお方の鞄を奪い、停めてある車まで逃げようとした矢先、あなたのドアにぶつかったのです。お怪我はありませんか? お手柄ですよ」
鞄の持ち主を見やると、喜色満面でぼくに微笑んでくれている。となりには全身のシルエットを隠したようないでたちの女性も何人かいて、頭部から顔にかけてもかぶり物をしている。へジャブだ。彼女たちはぼくに感謝を示すかのようなしぐさをしてくれている。
事情聴取の間、彼らがアラブの富豪の一団であることが分かった。被害者の男性はぼくに言葉と表情で精一杯の謝意を表してくれているのだろうが、なにせ意味が通じない。途方に暮れるぼくに、通訳だろう人が、
「お礼を受け取ってほしい、と望んでおられます」
「いえ、とんでもない。いいのですよ、そんなこと」
と、辞退した。ひとりの女性の手から分厚い封筒が男性に渡され、それをぼくに手渡そうとする。札束のようだ。立てて置けるほどの厚みがある。さらに、固辞した。
「わたしの国では受けた恩義はきちんとお返しするのが慣わしです、さもないとわたしの名誉が保てません」
「いえ、受け取れません、ただの偶然なんです」
ぼくは力を込めた。幸い車は傷んでいないし、大破したとしてもそう惜しまれないシロモノだ。
男性の顔は困惑しきっている。その彼に、傍らの若い女性が耳打ちしている。その言葉らしきものに愁眉を開いた男性がこう切り出した。
「隣にいるのはわたしの娘です。娘が申すには、あなたのような方は日本の侍に違いない。あなたのような方と添い遂げられるなら、自分の一生は幸せに違いない。今回の事件は、神様の思し召しのように思えてならない。ぜひあなたの妻にしてほしい、と望んでいます」
「わたしは妻帯していますので」
と、驚いたぼくが強く言い切ると、
「わたしの国では4人まで妻を持てますし、娘が一生困らない額の持参金もおつけします」
「ここは御国ではありません、日本です。それにわたしは妻を愛しています。4人分どころか、百人分も妻を愛しているのです」
と、きっぱり断った。
頭部をすっぽりへジャブで覆い、彫りの深い目元しか覗けないが、その黒目がちな眸はあくまで清み、知的な眉とともにエキゾチックな印象を強く投げかけてくる。通訳によってぼくの意志が伝わったとき、哀しみを色濃くにじませ、それでも訴えるような強いまなざしをそそぎ止まない。なぜかぼくまで無性に悲しくさせる視線だ。
その後のやりとりに紆余曲折があり、嘆き悲しむ娘の複雑な愁嘆場はあったものの、ぼくの姿勢は変わらない。そうこうするうちに姪の到着する時刻になり、ぼくは解放された。
「おじちゃん、何かあったの?」
「うん、 プリンス・オブ・ペルシャ のね、お姫様の縁談が壊れたようなのだ」
姪っ子は不思議そうに駅にたむろする異国の集団を眺めつつ、いつもどおり無邪気に車に乗り込んだ。
と、まあ、今日という日は、こういうことを書いたり、吹聴したりしても、許される日ではなかろうか。