8月3日に、死刑が執行された。各社報道している。
なぜこのニュースが出てくるのかと言えば、2009年の民主党の政策集の中に、死刑廃止の国民的議論を起こすと言うのがあるからだ。実際民主党の中には死刑廃止論者が多い。それが死刑執行書面にサインするのだから、確かに疑問がある。だが、この書き方だとどう一般に見えるだろうか。
民主党政権での執行は約4カ月ぶりで計7人になった。
民主党は7人、人を殺した、そう見えないだろうか。多分だが自民党の歴史の長さから、彼らの方が圧倒的に人を殺しているのだ。むしろ日本国憲法制定以降から×××人目の死刑執行が行われた、と言うのが正しい言い方だろう。
そう書いていたら、まとめていた人がいた。
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html
民主党の肩を持つ訳ではないが、このところ死刑廃止議論は不可能に近い状況にある。まずオウム真理教の教祖松本被告の死刑判決だが、法的には死刑は難しかった。これを世論が死刑に導いたと言う議論がある。つまり司法の根拠が揺らいでいると言う事だ。
次が被害者遺族の問題だ。重大事件になると被害者遺族がマスコミに追われたり生活がムチャクチャになるだけでなく、裁判に立ち会う義務まである。特に相手が少年だと、少年法の規定で個人名が出ないが、被害者の名前は出てしまう。こういった中で、遺族の気持ちに司法が配慮していないと言う議論が起きた。
さらに犯罪者が精神障害を負っている場合だが、無罪になる。これはおかしいのではないのかと言う議論がある。
そしてそういった遺族の中から、死刑を求める声が上がっている。そしてこれに賛同する声が大きくなっている。特にネットではそうだ。
ここには大きな問題がある。近代法の概念ではないのだ。古代の法体系がたちあらわれている。報復主義だ。
近代法は、権力者が恣意的に法を使えないようにするために考えられている。権力者の気まぐれや同情で死刑になったり無罪になったりでは、大変な事になる。これを制限するのが法の意味だ。
法に恣意的なものが持ち込まれないように合理性を持たせる、近代法はそうなのだ。報復主義だと、刑の重さやその範囲に歯止めが利かない。一人の殺人に対して、一族郎党すべて殺すとかが起きる。
それでは死刑に匹敵する刑として、無期懲役がある。しかしこの刑、一生でて来れないのではない。10年ほど模範的な囚人として過ごせば、監視付きだが社会に復帰できる。そうでなくとも、不定期に外に出られる。そうしないと完璧な社会不適応者になってしまうからだ。なお何かの手記で読んだが、この出られる事は彼らにとって怖い事らしい。
しかし出られるということが被害者たちにとっては堪え難い所なのだ。なぜそうなるのかと言えば、日本の刑務所は、罪を憎んで人を憎まず、だからだ。どんな犯罪者も更正の機会を与えれば、更正されると考えている。特に昔の犯罪者は、学歴の問題や職業訓練を受けられなかった人が多かった。この場合この考え方は正しいのだが、最近ではどうしたものかと言う犯罪も多い。
例えば秋葉原無差別殺人事件だが、本人は自殺したいが出来ないので死刑になる犯罪を決行した。まああまりにも身勝手な犯行だ。彼の意志に反しての無期懲役が妥当だが、現在の法律ではやっぱり死刑になるだろう。
ノルウエーの銃乱射事件で、犯人は無期懲役になるようだ。ノルウエーには死刑が無い。これを被害者がどう思っているのかと言う話しでは、裁判中靴を投げつけた遺族がいたほどだ。確か靴を投げつけると言うのは、最大の侮辱行為だはずだ。殺してやりたいと思う声もあったが、法が正しいという意見が大多数のようだ。
ただこの関連でノルウエーの刑務所事情が報道された。無期懲役ってえらく快適な暮らしだと言う事。自由が拘束されていると言う以外は、人権が守られているのだ。日本の刑務所はある意味人権蹂躙している。職業訓練と言う名の、強制労働があるからだ。しかし絶対に出て来れない無期懲役を作ったら、確かにノルウエーのようにしなければ不味いだろう。この辺りの人権意識がやはり日本は弱いように思う。
それ以前にほとんどの日本人は、刑務所を地獄と考えているのだろう。あの中で凄まじい責め苦を受けているから被害者も納得できるのであって、そうでなければ死刑にしろと簡単になってしまう。
変な話しなのだが、最近の法務大臣の中で個人信条を理由に死刑執行書面にサインをしなかった人がいた。これはこれで、批判を受けた。法的に決まった事をしないと言うのはどうゆう事だと言う話しだ。
実は民主党の法務大臣が、書面にサインする理由はこれだ。死刑廃止支持だが、個人的な信条で現在の法を超える事は出来ない、といった弁護士的な考えだ。今回の死刑執行では、大臣が本当に執行していいのかチェックしたようだ。弁護士的な考えがあるのだろう。
また裁判員裁判で初めての死刑判決が出たあとき、果たして一般人から選ばれた裁判員に十字架を背負わせていいのかと言う議論が起きた。元々裁判員制度は従来の司法の中に一般人の感覚を取り入れると言う意味がある。しかしさすがに3日で人の死を決めるのは難しい。裁判員からもこういった意見が出た。
そもそも法とは、権力を縛るための道具だ。法そのものが権力なのだ。(政治に対して権力といい、法に対して権威と言う言い方もあるが、あえて権力と書いた)本来は一般人の使うものではない。
最近明らかな検察の行き過ぎで、冤罪が判明した事件がある。小沢一郎の裁判も明らかに冤罪なのだ。死刑囚の自殺者の中に、冤罪を訴えていた人もいる。多分自殺者のほとんどが冤罪なのではないのか。(小沢だが、岩手県でなぜ支持されているのかと言えば、絶対しっぽをつかませないという老獪さが支持されているのだ。これが無くなると彼は落選するだろう)
この警察・検察・裁判所に対する不信がもの凄く大きい。警察に関しては、権力を直接行使できるので元々不評だが、裏金作りや組織的に不正を隠蔽する事件が発覚し、まあそれもゴキブリ一匹であと何匹いるのかと言う具合に出てくるものだから、不信はもの凄い。それでいながら軽犯罪が増えているものだから、人は治安が悪くなっていると思い込んでいる。(実際の治安はもの凄く良い。警察不信が深いからそう感じられるのだ。)
裁判員裁判は、アメリカから押し付けられてはじまったと言われている。まあ自由貿易を完璧にするためには、裁判制度まで同じ方がいい。だが日本はアメリカのいう民法ではなく、刑法にこの裁判員裁判を導入した。これは司法不信に対する対策で、ついでにアメリカを牽制できるという判断だった。
だが刑法に適用する事で、民意が刑を重くしてしまうのではないのかと危惧されている。実際重くなる傾向にはあるようだ。
死刑に関しては今の所裁判員による抑止はあると思う。だがオウムや秋葉原事件では判断は難しい。それこそ世論の外圧を一斉に受けてしまうのが裁判員制度だからだ。
死刑制度が犯罪を促すと言う考えもある。秋葉原の事件なんか確実にそうだ。破れかぶれになった人間は何をするか解らない。どうせ死ぬんだからと犯罪を起こすのだ。そうゆう考えもある。
だがほとんどの死刑囚はそうではない。小さい犯罪を重ねるうちに大きな犯罪を犯す。広域殺人118号なんかその例だ。詐欺を繰り返しているうちに、強い被害者との交渉の内に殺してしまった。
もちろん犯罪に慣れていない大多数の人間には、死刑は抑止効果がある。だがそれでは無期懲役でも抑止効果があるのでは?実際そうなのだ。
今問題になっているのは、死刑囚の加齢による死亡だ。死刑宣告されるくらいの犯罪なので、逆説的にうかつに殺せない。連合赤軍の永田死刑囚なんてその際たるものだ。出来るだけ活かして情報を集めようと言う意図を感じる。オウム真理教事件でも、松本死刑囚は事実上の無期懲役になるのではないのかと思う。
今回死刑執行された二人は、冤罪の可能性が無いものと言う。年齢を見る限り比較的早い執行だった。だが死刑を宣告されて、いつ来るのか解らない執行日におびえ続ける死刑囚。つまり毎日が罰なのだ。毎日生と死を繰り返す日々、それでいながら刑務所と言う母体にくるまれている人生。無期懲役の囚人が、外は怖いと思うようになる個人。
それが現在130人いる。実は130人しかいないのかと言うのが私の感想だ。滅多に出ない判決だし、逮捕から判決まで時間がかかっている。
ただそれでもその死まで、絞首刑の夢を見続けさせるのはどうなのか?
死刑制度の問題といじめはどこかが繋がっているように思う。日本は均質だと思われている社会だ。実際は全く違うが、その中で異端と思われたらいじめられたりするわけだが、いじめる理由は目の前からいなくなって欲しいという所にある。それでも存在し続けるのだから、いなくなるのではなく自分の下部においていなくなるようにしむけてゆく。いじめた側が、死んでせいせいしたと言う発言は、間違いなくそうだ。
死刑もそうだ。目の前からいなくなればいい。そういった考えがある。それが出会うかもしれないという、ほとんどない可能性(刑務所はそのあたりは配慮している)に対して、無期懲役をを拒絶しているのだ。
恐ろしく話しが飛ぶが、現在の反原発にも、「目の前に無ければいい」というニュアンスを感じている。金曜日官邸前デモをイマイチと感じているのは、この辺りだ。だがもうそろそろ次のステップに来る。このデモが車道を占拠しつつあるのだ。また人が集まりすぎて車道に人が溢れたりしている。
日本のとても古い地層が、今噴出している。オスプレイ問題でも実は同じ事が指摘できる。新しい事を拒否しているのだ。事故率が高い今のヘリより、まだマシなのだが。
死刑制度の廃止には、壮絶なステップがある。まず死と言うものがどうゆうものかを理解しなければ行けない。この辺日本の宗教観は、死んでしまったものは封じ込めてしまえ、これが基本だ。縄文時代からこれは変わっていない。平安時代から慰撫と言う方法が使われているが、死んでしまったものに対する儀礼であって、死そのものに対しては何も理解が進んでいない。武士道は、実際の所成立した江戸時代にこれが必要だった日本人は人工の10%の武士階級のみだ。それ以前の武士には、武士道と言う概念は無い。ただ人を殺す事の倫理はあった。
これが江戸時代に、人を殺してのし上がる社会から安定した階級として武士が成立する流れで、家を守るために死ぬという概念が成立した。
それが明治維新から第2時世界大戦の間に、国を守るにすり替えられた。とはいえ特攻隊の多くは国のためと言いながら、家族のために殉死している。
さてさて、最後にしよう。私には死刑制度も自殺率も同一に思える。社会を守るために全く違う事が、同じくあると言う事だ。自殺は、社会から必要がないと自分で判断したから起きる。死刑制度は本来法律での判断のみだが、現在社会に必要ないと社会が判断した上の制度になりつつある。意外な所、裁判員裁判がもしかするとこの抑止力になるかもしれない。しかし裁判員裁判制度の最大の欠点は、裁判員になった人物の情報が裁判所が出さなかったとしても、マスコミが出さなかったとしても、その裁判所の地域では筒抜けなのだ。どうやって会社を休むのか?裁判員になりましたと会社に報告しなければ行けないだろう。
地域の影響が大きい制度でもある。
日本の死刑制度は多分廃止される事は無い。この点に関しては中国と対して変わらない。もちろん法整備がキッチリしているのは日本だ。それでも日本のアジア性は疑いも無い。
日本では最近では法は道具だと認知されている。だがまだ法を使う事の実利性が疑われている。その上で、法はえんま大王が使うものか、蓬莱への手紙に「法に従え」と書く中国と変わらない何かを感じている。
なのでこのブログの事は、水にながしてくれ。だって日本人だから!
PS
論理性が無くて申し訳ない。
更に追加なのだが、アスペルガー症候群の人が親族を殺す事件があったが、これに対して裁判所は求刑より重い量刑を出した。
http://www.373news.com/_column/syasetu.php?ym=201208&storyid=42194
この問題は大きすぎる。アスペルガー症候群は軽症の場合理屈っぽい人物なのだが、重傷は自己理論から動けないのだ。これを動かし反省させるとなればもの凄い努力が必要になる。
どの程度か。何月何日何時に一緒に自宅で食べたお昼ご飯が、ハウスのレトルトカレーでご飯の盛りがどの程度で、その時の会話もすべて記憶しているのだ。そのすべてが独自のロジックを作ったらもう崩せない。
それでも大体のアスペルガーは、その記憶の大体は無視しているし、社会的な経験を積めばアスペルガーなりの「マニュアル」を作れる。だからアスペルガーは特殊な人間として生き残っている。
この判決の場合、このアスペルガーの引きこもり(社会との接点がない)人物なので、更に酷いだろう。マニュアルが無い。なにか違う事情が考えられる。
アスペルガーだと、自分がいかに虐待されたかをそのロジックで説明するし出来る。それが社会から外れてものかどうかは関係ない。ロジックのみなのだ。
裁判では最も不利な人物だ。彼は反省したフリが出来ないのだ。ロジックは一本だ。普通の人は二三本使えるのだが全く出来ないのだ。
しかもこれは裁判員裁判なのだ。最も不利な条件だ。
それにしても16年の求刑に20年の判決だ。求刑からにして酷すぎる。そして刑務所にはいってからも暴れ続けるだろう。どうするのか、警務員がひたすら努力するのだろう。
実際このところ、今までの犯罪と違う形が目立って来ている。これに対応することがとりあえず大切だ。
死刑制度問題も、ここからはじまると思う。
この判決のせいで、この書面が遅れたと言うほどの大事件だ。大体この程度の記事に時間をかけるバカがどこにいるのか、それはここにいるのだが、イヤ本当に困った。もう本文書いていて忘れていた。忘れないと本文書けないからだ。
アメリカとEUには言いたい。アジアの人権と言うのはこんなもんだと。でEUはそうだろうね、だけど出来るよ、僕らも努力しているけどダメな人もいるみたいだけど、今いい感じだよといい、アメリカはそれって基本だろう!ってアスペルガーみたいな事を言ってくる。日本もこの程度だ。いい所もあるがね。
なぜこのニュースが出てくるのかと言えば、2009年の民主党の政策集の中に、死刑廃止の国民的議論を起こすと言うのがあるからだ。実際民主党の中には死刑廃止論者が多い。それが死刑執行書面にサインするのだから、確かに疑問がある。だが、この書き方だとどう一般に見えるだろうか。
民主党政権での執行は約4カ月ぶりで計7人になった。
民主党は7人、人を殺した、そう見えないだろうか。多分だが自民党の歴史の長さから、彼らの方が圧倒的に人を殺しているのだ。むしろ日本国憲法制定以降から×××人目の死刑執行が行われた、と言うのが正しい言い方だろう。
そう書いていたら、まとめていた人がいた。
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html
民主党の肩を持つ訳ではないが、このところ死刑廃止議論は不可能に近い状況にある。まずオウム真理教の教祖松本被告の死刑判決だが、法的には死刑は難しかった。これを世論が死刑に導いたと言う議論がある。つまり司法の根拠が揺らいでいると言う事だ。
次が被害者遺族の問題だ。重大事件になると被害者遺族がマスコミに追われたり生活がムチャクチャになるだけでなく、裁判に立ち会う義務まである。特に相手が少年だと、少年法の規定で個人名が出ないが、被害者の名前は出てしまう。こういった中で、遺族の気持ちに司法が配慮していないと言う議論が起きた。
さらに犯罪者が精神障害を負っている場合だが、無罪になる。これはおかしいのではないのかと言う議論がある。
そしてそういった遺族の中から、死刑を求める声が上がっている。そしてこれに賛同する声が大きくなっている。特にネットではそうだ。
ここには大きな問題がある。近代法の概念ではないのだ。古代の法体系がたちあらわれている。報復主義だ。
近代法は、権力者が恣意的に法を使えないようにするために考えられている。権力者の気まぐれや同情で死刑になったり無罪になったりでは、大変な事になる。これを制限するのが法の意味だ。
法に恣意的なものが持ち込まれないように合理性を持たせる、近代法はそうなのだ。報復主義だと、刑の重さやその範囲に歯止めが利かない。一人の殺人に対して、一族郎党すべて殺すとかが起きる。
それでは死刑に匹敵する刑として、無期懲役がある。しかしこの刑、一生でて来れないのではない。10年ほど模範的な囚人として過ごせば、監視付きだが社会に復帰できる。そうでなくとも、不定期に外に出られる。そうしないと完璧な社会不適応者になってしまうからだ。なお何かの手記で読んだが、この出られる事は彼らにとって怖い事らしい。
しかし出られるということが被害者たちにとっては堪え難い所なのだ。なぜそうなるのかと言えば、日本の刑務所は、罪を憎んで人を憎まず、だからだ。どんな犯罪者も更正の機会を与えれば、更正されると考えている。特に昔の犯罪者は、学歴の問題や職業訓練を受けられなかった人が多かった。この場合この考え方は正しいのだが、最近ではどうしたものかと言う犯罪も多い。
例えば秋葉原無差別殺人事件だが、本人は自殺したいが出来ないので死刑になる犯罪を決行した。まああまりにも身勝手な犯行だ。彼の意志に反しての無期懲役が妥当だが、現在の法律ではやっぱり死刑になるだろう。
ノルウエーの銃乱射事件で、犯人は無期懲役になるようだ。ノルウエーには死刑が無い。これを被害者がどう思っているのかと言う話しでは、裁判中靴を投げつけた遺族がいたほどだ。確か靴を投げつけると言うのは、最大の侮辱行為だはずだ。殺してやりたいと思う声もあったが、法が正しいという意見が大多数のようだ。
ただこの関連でノルウエーの刑務所事情が報道された。無期懲役ってえらく快適な暮らしだと言う事。自由が拘束されていると言う以外は、人権が守られているのだ。日本の刑務所はある意味人権蹂躙している。職業訓練と言う名の、強制労働があるからだ。しかし絶対に出て来れない無期懲役を作ったら、確かにノルウエーのようにしなければ不味いだろう。この辺りの人権意識がやはり日本は弱いように思う。
それ以前にほとんどの日本人は、刑務所を地獄と考えているのだろう。あの中で凄まじい責め苦を受けているから被害者も納得できるのであって、そうでなければ死刑にしろと簡単になってしまう。
変な話しなのだが、最近の法務大臣の中で個人信条を理由に死刑執行書面にサインをしなかった人がいた。これはこれで、批判を受けた。法的に決まった事をしないと言うのはどうゆう事だと言う話しだ。
実は民主党の法務大臣が、書面にサインする理由はこれだ。死刑廃止支持だが、個人的な信条で現在の法を超える事は出来ない、といった弁護士的な考えだ。今回の死刑執行では、大臣が本当に執行していいのかチェックしたようだ。弁護士的な考えがあるのだろう。
また裁判員裁判で初めての死刑判決が出たあとき、果たして一般人から選ばれた裁判員に十字架を背負わせていいのかと言う議論が起きた。元々裁判員制度は従来の司法の中に一般人の感覚を取り入れると言う意味がある。しかしさすがに3日で人の死を決めるのは難しい。裁判員からもこういった意見が出た。
そもそも法とは、権力を縛るための道具だ。法そのものが権力なのだ。(政治に対して権力といい、法に対して権威と言う言い方もあるが、あえて権力と書いた)本来は一般人の使うものではない。
最近明らかな検察の行き過ぎで、冤罪が判明した事件がある。小沢一郎の裁判も明らかに冤罪なのだ。死刑囚の自殺者の中に、冤罪を訴えていた人もいる。多分自殺者のほとんどが冤罪なのではないのか。(小沢だが、岩手県でなぜ支持されているのかと言えば、絶対しっぽをつかませないという老獪さが支持されているのだ。これが無くなると彼は落選するだろう)
この警察・検察・裁判所に対する不信がもの凄く大きい。警察に関しては、権力を直接行使できるので元々不評だが、裏金作りや組織的に不正を隠蔽する事件が発覚し、まあそれもゴキブリ一匹であと何匹いるのかと言う具合に出てくるものだから、不信はもの凄い。それでいながら軽犯罪が増えているものだから、人は治安が悪くなっていると思い込んでいる。(実際の治安はもの凄く良い。警察不信が深いからそう感じられるのだ。)
裁判員裁判は、アメリカから押し付けられてはじまったと言われている。まあ自由貿易を完璧にするためには、裁判制度まで同じ方がいい。だが日本はアメリカのいう民法ではなく、刑法にこの裁判員裁判を導入した。これは司法不信に対する対策で、ついでにアメリカを牽制できるという判断だった。
だが刑法に適用する事で、民意が刑を重くしてしまうのではないのかと危惧されている。実際重くなる傾向にはあるようだ。
死刑に関しては今の所裁判員による抑止はあると思う。だがオウムや秋葉原事件では判断は難しい。それこそ世論の外圧を一斉に受けてしまうのが裁判員制度だからだ。
死刑制度が犯罪を促すと言う考えもある。秋葉原の事件なんか確実にそうだ。破れかぶれになった人間は何をするか解らない。どうせ死ぬんだからと犯罪を起こすのだ。そうゆう考えもある。
だがほとんどの死刑囚はそうではない。小さい犯罪を重ねるうちに大きな犯罪を犯す。広域殺人118号なんかその例だ。詐欺を繰り返しているうちに、強い被害者との交渉の内に殺してしまった。
もちろん犯罪に慣れていない大多数の人間には、死刑は抑止効果がある。だがそれでは無期懲役でも抑止効果があるのでは?実際そうなのだ。
今問題になっているのは、死刑囚の加齢による死亡だ。死刑宣告されるくらいの犯罪なので、逆説的にうかつに殺せない。連合赤軍の永田死刑囚なんてその際たるものだ。出来るだけ活かして情報を集めようと言う意図を感じる。オウム真理教事件でも、松本死刑囚は事実上の無期懲役になるのではないのかと思う。
今回死刑執行された二人は、冤罪の可能性が無いものと言う。年齢を見る限り比較的早い執行だった。だが死刑を宣告されて、いつ来るのか解らない執行日におびえ続ける死刑囚。つまり毎日が罰なのだ。毎日生と死を繰り返す日々、それでいながら刑務所と言う母体にくるまれている人生。無期懲役の囚人が、外は怖いと思うようになる個人。
それが現在130人いる。実は130人しかいないのかと言うのが私の感想だ。滅多に出ない判決だし、逮捕から判決まで時間がかかっている。
ただそれでもその死まで、絞首刑の夢を見続けさせるのはどうなのか?
死刑制度の問題といじめはどこかが繋がっているように思う。日本は均質だと思われている社会だ。実際は全く違うが、その中で異端と思われたらいじめられたりするわけだが、いじめる理由は目の前からいなくなって欲しいという所にある。それでも存在し続けるのだから、いなくなるのではなく自分の下部においていなくなるようにしむけてゆく。いじめた側が、死んでせいせいしたと言う発言は、間違いなくそうだ。
死刑もそうだ。目の前からいなくなればいい。そういった考えがある。それが出会うかもしれないという、ほとんどない可能性(刑務所はそのあたりは配慮している)に対して、無期懲役をを拒絶しているのだ。
恐ろしく話しが飛ぶが、現在の反原発にも、「目の前に無ければいい」というニュアンスを感じている。金曜日官邸前デモをイマイチと感じているのは、この辺りだ。だがもうそろそろ次のステップに来る。このデモが車道を占拠しつつあるのだ。また人が集まりすぎて車道に人が溢れたりしている。
日本のとても古い地層が、今噴出している。オスプレイ問題でも実は同じ事が指摘できる。新しい事を拒否しているのだ。事故率が高い今のヘリより、まだマシなのだが。
死刑制度の廃止には、壮絶なステップがある。まず死と言うものがどうゆうものかを理解しなければ行けない。この辺日本の宗教観は、死んでしまったものは封じ込めてしまえ、これが基本だ。縄文時代からこれは変わっていない。平安時代から慰撫と言う方法が使われているが、死んでしまったものに対する儀礼であって、死そのものに対しては何も理解が進んでいない。武士道は、実際の所成立した江戸時代にこれが必要だった日本人は人工の10%の武士階級のみだ。それ以前の武士には、武士道と言う概念は無い。ただ人を殺す事の倫理はあった。
これが江戸時代に、人を殺してのし上がる社会から安定した階級として武士が成立する流れで、家を守るために死ぬという概念が成立した。
それが明治維新から第2時世界大戦の間に、国を守るにすり替えられた。とはいえ特攻隊の多くは国のためと言いながら、家族のために殉死している。
さてさて、最後にしよう。私には死刑制度も自殺率も同一に思える。社会を守るために全く違う事が、同じくあると言う事だ。自殺は、社会から必要がないと自分で判断したから起きる。死刑制度は本来法律での判断のみだが、現在社会に必要ないと社会が判断した上の制度になりつつある。意外な所、裁判員裁判がもしかするとこの抑止力になるかもしれない。しかし裁判員裁判制度の最大の欠点は、裁判員になった人物の情報が裁判所が出さなかったとしても、マスコミが出さなかったとしても、その裁判所の地域では筒抜けなのだ。どうやって会社を休むのか?裁判員になりましたと会社に報告しなければ行けないだろう。
地域の影響が大きい制度でもある。
日本の死刑制度は多分廃止される事は無い。この点に関しては中国と対して変わらない。もちろん法整備がキッチリしているのは日本だ。それでも日本のアジア性は疑いも無い。
日本では最近では法は道具だと認知されている。だがまだ法を使う事の実利性が疑われている。その上で、法はえんま大王が使うものか、蓬莱への手紙に「法に従え」と書く中国と変わらない何かを感じている。
なのでこのブログの事は、水にながしてくれ。だって日本人だから!
PS
論理性が無くて申し訳ない。
更に追加なのだが、アスペルガー症候群の人が親族を殺す事件があったが、これに対して裁判所は求刑より重い量刑を出した。
http://www.373news.com/_column/syasetu.php?ym=201208&storyid=42194
この問題は大きすぎる。アスペルガー症候群は軽症の場合理屈っぽい人物なのだが、重傷は自己理論から動けないのだ。これを動かし反省させるとなればもの凄い努力が必要になる。
どの程度か。何月何日何時に一緒に自宅で食べたお昼ご飯が、ハウスのレトルトカレーでご飯の盛りがどの程度で、その時の会話もすべて記憶しているのだ。そのすべてが独自のロジックを作ったらもう崩せない。
それでも大体のアスペルガーは、その記憶の大体は無視しているし、社会的な経験を積めばアスペルガーなりの「マニュアル」を作れる。だからアスペルガーは特殊な人間として生き残っている。
この判決の場合、このアスペルガーの引きこもり(社会との接点がない)人物なので、更に酷いだろう。マニュアルが無い。なにか違う事情が考えられる。
アスペルガーだと、自分がいかに虐待されたかをそのロジックで説明するし出来る。それが社会から外れてものかどうかは関係ない。ロジックのみなのだ。
裁判では最も不利な人物だ。彼は反省したフリが出来ないのだ。ロジックは一本だ。普通の人は二三本使えるのだが全く出来ないのだ。
しかもこれは裁判員裁判なのだ。最も不利な条件だ。
それにしても16年の求刑に20年の判決だ。求刑からにして酷すぎる。そして刑務所にはいってからも暴れ続けるだろう。どうするのか、警務員がひたすら努力するのだろう。
実際このところ、今までの犯罪と違う形が目立って来ている。これに対応することがとりあえず大切だ。
死刑制度問題も、ここからはじまると思う。
この判決のせいで、この書面が遅れたと言うほどの大事件だ。大体この程度の記事に時間をかけるバカがどこにいるのか、それはここにいるのだが、イヤ本当に困った。もう本文書いていて忘れていた。忘れないと本文書けないからだ。
アメリカとEUには言いたい。アジアの人権と言うのはこんなもんだと。でEUはそうだろうね、だけど出来るよ、僕らも努力しているけどダメな人もいるみたいだけど、今いい感じだよといい、アメリカはそれって基本だろう!ってアスペルガーみたいな事を言ってくる。日本もこの程度だ。いい所もあるがね。