どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

帰省からとんぼ返り

2012-08-15 19:39:51 | インポート
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せっかく里帰りしているのに一日しかいれません。ねぶたの残骸が残っていました。


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青森名物、物産館のアスパムとベイブリッジ。相模から来たバイカーから写真を撮ってくれと頼まれてとったりしました。



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そのバイカーと一緒に海に出ます。
アスパムは客船用の港になっています。けっこうここ自体が観光地になっています。



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ウッドデッキからベイブリッジと現在浮かべているだけの青函連絡船・八甲田丸です。


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ねぶた小屋とアスパムです。ここにねぶた小屋団地があります。



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ベイブリッジと水産会館。青森と言えば寂れた街の印象がありますが、なかなかどうして。



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とはいえ商店街は寂れています。至る所駐車場と空き店舗ばかりです。



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うとう神社が見えます。その向こうがポッカリあいていますが、再開発が行われるようです。



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とはいえまだまだ古い建物が健在です。



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ねぶた団地とアスパムのピラミッド。ねぶた小屋にはもうねぶたはありません。ちょっと残念。このピラミッドは、本当は遊覧船の発着場として作られたのですが、いまは何か展望台になっています。
そういえばルーブルのピラミッドの時期にこれ作ってたな~


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ベイブリッジとねぶた観光館ワ・ラッセとJR系の物産館A-ファクトリーです。


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ワ・ラッセと八甲田丸まではそれぞれ桟橋と言うか、歩道が続いています。



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ワ・ラッセの外壁はこんな具合。鉄板ののれんです。船舶用の塗料で塗っているようです。


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ところどころこうして鉄板を曲げてチラ見が出来るようになっています。


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なんというか徹底したコンセプチャルな建物です。最近の青森の公共事業はこんな具合のものが多いです。県立美術館なんてそうです。


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これらの建物群が出来た時には、本当に驚いたものです。


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ワ・ラッセの中はねぶただらけです。ねぶたを作ったり、ちょっとハネトになったりいろいろ出来ます。


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無料スペースから有料スペースが覗けます。この辺り実はシカケですね。ちょっと有料スペースも見たくなります。



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古いねぶたを紹介する写真展です。ねぶたは青森の伝統の金魚ねぶたの技法から、弘前のねぷたのような武者絵を立体にしてしまったところが特徴です。大正のこの写真を見ると、その過渡期にあるもののようです。現在のような感じに落ち着いたのは昭和にはいってからのようです。


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ホールにあるのは、その過渡期にあるものを梅沢富美男の姿で再現したもの。



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衝撃のゆるキャラ。ハネトンです。ね・豚と、ねぶたの踊り手をハネトというのですが、それを合わせて、ハネ・トンです。やっちゃった感があります。
ワ・ラッセそのものが、我・ラッセで、方言で自分の事をワというのとネブタのかけ声のラッセラーとかけています。私ははねると言う事。笑・ッセでもあるし輪・ッセでもあります。
様はダジャレです。



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A-ファクトリー前ではホタテ祭りが行われています。焼きホタテが5個で500円。特価です。



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A-ファクトリーは観光土産ショッピングモールです。県産ワインやシードル、ブランデーの試飲が有料各安でできます。フードコートも県産農産物をたっぷり味わえます。またけっこういい店を呼んで来ています。


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開放的でいい感じの土産物売り場です。ここにわざわざ呼んで来た店が多いのと、厳選された特徴のあるお土産をおいています。かなり品揃えはいいです。



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ワ・ラッセとベイブリッジです。さて青森はこの景観をどうやって作ったのでしょうか。なんと時間だけをかけ続けたのです。青函連絡船が廃止されポッカリあいた土地を徐々に集めて、まずアスパムを作り港湾を整備し、ベイブリッジを作り、本当に徐々に徐々に作ってゆきました。港湾整備なんかあれでまだ完成していません。反対側に砂浜を造ってみせるようです。
青森の出身として、ちょっとこの鋼鉄の意思に感心します。


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残念ながら海にクラゲがプーカプカ。



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ホタテ釣り大会が行われていました。制限時間内に15枚釣ったのが最高のようです。
そういえば、ロンドン・オリンピックで青森県出身者の活躍が目立ちました。レスリングだったりアーチェリーだったりするのですが。そうそう銀メダルの男子アーチェリーの古川選手ですが、進学校の青森東高校出身でした。これまた珍しいことです。
そういえば、体格のいい人が多い街です。なにしろ相撲と柔道が盛んな土地です。レスリングはどちらかと言えば八戸ですが、県民の体格も理由の一つでしょうか。


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くすんだ町並みのイメージがありますが、結構ドハデです。青森も弘前も、建物の自己主張が激しいです。しかしそれにホっとしてしまう自分がいます。


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色使いが何ともいえません。よく田舎臭いと言われますが、これはこれで何とも。


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高速バスに乗って盛岡に帰ります。八甲田山が見えます。



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花輪インターでどこかでみたバイクが。今日であったバイカーです。まあ偶然です。それにしても豪華な装備です。


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盛岡に帰ってきました。青森に向かうときも徐々に青森の匂いがしてくるようですが、盛岡に近づくとやはりにおってきます。
しかし疲れました。更に今日ネタが古くならないようにと、連続3本ブログを書いたのでますますぐったりしています。


墓参りのついでに弘前

2012-08-15 16:56:54 | インポート
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お盆です。青森でも弘前はお盆の入りが重要です。盛岡では送りの16日が重要視されています。
ウチの墓が弘前にあるので、13日に墓参りです。高速バス、ヨーデル号に乗ります。なんでヨーデルなのかよくわかりません。
窓から盛岡ガスのタンクが。巨大なスイカです。


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出発するときも雨でしたが、道中降ったり止んだりを繰り返しています。バイカーは大変です。


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しかし高級車ばかりです。


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雨がやみ、山から雲が立ち上っています。



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弘前につく頃にはすっかり晴れました。


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弘前駅前は全面禁煙になりました。津軽はこういった事にはおおらかな土地なのですが、何か思い込むと突っ走る所があります。やり過ぎのように思えます。


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禅林街の角のだんご屋です。弘前は和菓子がとてもおいしい街です。洋菓子もレベルが高いです。しかし弘前の人はそれをよく知りません。この店も相当レベルが高いです。単なる寺町のお供え屋さんではありません。


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禅林街の入り口です。本当は寺とか見て歩きたいのですが時間がありません。弘前の人に任せましょう。なおこの門の酒屋ですが、品揃えがシブイいい店です。
寺町に酒屋がある…。



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さて茶まんじゅうと大福を買いました。もう今日は売れに売れているのでしょう。大福は出来立てです。一個100円です。これを毎日何気なく食べている弘前の人は幸せ者です。


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近所にはこれまた和菓子屋です。この店の方がうまいと言う人もいます。この天窓がある民家と言うのが弘前の特徴。更に近所に、津軽藩御用達の店があったりします。



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この界隈には造り酒屋がありました。その店が引っ込んでいます。道路拡張でもあるのだろうか。この前庭の作り方が、弘前らしいケレン味でしょうか。


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ここには有名な庭園があります。藤田記念公園です。ここを紹介すると盛岡の庭園はまったく紹介できなくなるので、これまた弘前の人に任せましょう。



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弘前市役所です。実はかなりいい建物。一階の作りがいいです。盛岡の市役所も似た外観なのですが、建築家の気合いを感じるのは弘前の方です。


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お城の追手門です。ここも紹介するのは止めておきます。外堀と内堀が残っている城なんて…。
弘前の建築群は紹介しきれません。



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民家のフリーダムさ加減が何とも言えません。豪雪地帯で木像3階建てです。



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白鳳発見!



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古い家屋がいろいろ残っています。


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天窓があるのは、雪に覆われている冬の明かり取りなのでしょうか。とは言ってもガラスを自由に使えるようになった明治末くらいからでしょう。天窓の流行は。
個性的な家が多いです。



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震災で盛岡の中三デパートは、ガス爆発しました。結果民事再生法の適用になりました。でも弘前店は営業しています。よかったです。



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さて和菓子ですが、ちょっと解りにくいですが寿々炉と言う看板が見えます。下には瀧次郎と言う看板も見えます。寿々炉ですが高級和菓子店です。まあ一個250円以上300円台です。この小さい街には相応しくない高級店です。この他にも高級店が二つほどあるのです。
どこに出しても恥ずかしくない和菓子です。仙台の売茶翁に匹敵します。その寿々炉が庶民向けに出したのが瀧次郎。これまたうまい店です。盛岡にこんな店があったらと本当に思います。
しかしだ、弘前の人はどうもおいしい和菓子が当たり前すぎてよく解っていないようです。和のスイーツに関してはとてもいい街です。



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土手町の蓬萊橋から五重塔が見えます。


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古い教会。弘前は空襲が無かったと言うのもありますが、古い建物がとても残っています。ただ不思議なことに、細かくは直すのでしょうが、外壁をサイディングにしたりとかはあまり行っていない家が目立ちます。なんというか立てる時には異常にこだわった家を建てるが、住んでしまえばあとは頓着しない何かを感じます。外壁をトタンで済ませてしまってそのまんまと言う家が目立ちます。経済的な事もあるとは思いますが、気質なのでしょう。
あの5重の塔のそばにある喫茶店ですが、居抜きで店主が4代変わっています。その際に内装を塗り直したりはしたようですがほとんど手をつけていないそうです。けっこういい店ですが、4代続いて同じと言うのは不思議です。
家より人間の個性が強い街、なのでしょうか。


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現代美術の奈良美智が弘前の出身です。奥の建物は古いリンゴ倉庫。公園になっています。



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その公園の前にある幼稚園のバス。



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りんご箱に文字を入れるステンシル板です。弘前でとても発達しました。しかしこういった品種のリンゴがあったのでしょうか。



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さて青森の実家に帰ります。弘前駅構内です。弘南電鉄の車両が見えます。一度乗ってみたいのですがなかなかうまく行きません。


1945年の天気を考える・結論・平均気温

2012-08-15 15:10:40 | お天気
1945年の夏は暑かったのか、本当かどうかを調べて来たこの企画。最後の結論を出すためにどうすれば良いのか、チト悩みました。単純にその年の月別平均気温と、独自に作成した1929年から1960年までの月別平均気温の差を見てみる。
本当はだ、29~60年の月別平均気温の分散(ばらつき具合の事、29~60年間の盛岡での平均気温は-0,7度からー6.7度)を示し、データーの乖離率を示すと信頼性が高い発表になる。
だが元々29~60年の平均と言うのもかなり恣意的だ。これは記憶に残る平均という考えで作成した。もの凄く暑いと言うのは過去を思い出して暑いと言うが、記憶に残る暑さと言うのはそれが過ぎ去っても思い出される暑さだ。
過去30年間の平均気温を平年気温と言うが、この場合過去を扱うので1945年を中心に30年平均をとった。本当は一般的な過去30年と60年までの15年を合わせた平均にしたかった。こちらの方が記憶にもっと近い平均になるだろう。しかし1929年前後から各地での気温の測定がしっかりと行われているようで、使えなかった。
なので29~60年という31年平均になっている。
更にだ、29年から45年までの16年間の平均でいいのだろうかというのもある。41年と45年の特異点を含んでいるからだ。50年代の安定した気温を含んだ方がよりいっそう平均と言えるのではないのか、そういった恣意性がある。

さて図がズラスラと出てくる。この見方は大雑把に1度以下の差の場合平年並みと言う事。2度だとやや寒いとか暑いになる。3度だと寒い暑いとはっきりといってもいい。
なお参考までに41年と47年も入れた。
グラフで表示していた時にはよくわからなかったところが見えている。さて北からはじめよう。



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さて札幌では、45年はとても寒い年だった。特に7月の寒さは大きい。8月に平年並みに気温が戻る。これが1945の夏が暑いと感じる原因だろう。
41年と47年だが、米が不作だったんじゃないのかという気温だ。特に41年は酷かっただろう。



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盛岡だが、札幌と同じ傾向。7月の寒さと8月の平年よりやや暑いかな?というギャップが暑さを強く感じさせていた。41年だが典型的な暖冬・冷夏の年であった。



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仙台も同様。7月の寒さがすごい。47年は冬が厳しく感じたろう。




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新潟も同様な傾向。41年の米は本当に大変だっただろう。



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さていままで傾向がよくわからなかった、長崎・厳原。やはり海の中だけあってマイルドな変化だが、傾向は大体同じだろう。ただ傾向は同じだが平年並みの夏だったと言えそうだ。41年は本当に大変だったろう。



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金沢でも傾向は同じだろう。45年の7月が寒く、8月が平年並みと言う事だ。


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さて松本だが、以外と差が小さい事が解った。とはいえこれは図の問題もある。45年の2月が記録的な寒さだったことが解る。平均の差で-4度というのはすごい事だ。これが図の棒の長さを小さく見せている。
45年の夏はやや寒い7月に、少しだけ暑い8月だったようだ。



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さて45年の夏について、最も多く語られているのが東京の夏。東京での印象が45年の夏の印象とも言える。
結論、厳しい冬と7月の低温が、平年並みの8月の暑さを更に厳しく感じさせていた。空爆で焼け野原になった光景もある。日を遮るものも無い。こういった諸々が重なっているのだろう。



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名古屋も東京と同じ傾向だ。ただ7月の寒さはやや寒いで、8月の暑さは平年のちょっと暑い。



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大阪も同様。暖房に使う燃料が少なかった45年の冬は、かなり厳しかっただろう。47年の急速な冬の訪れも大変だったのではないのか。


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松山でははっきりとは言えない。傾向としては冬の寒さと7月の寒さが8月を暑く感じさせているといえるが、ややとしか言いようが無い。



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福岡も松山と同じ傾向。東日本では7月と8月のギャップがあるが、西日本も九州に近づくと平年並みに収まってくる。
全体で41年の冷夏がすごい事になっている。


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最後は八丈島。離島にしては寒い冬だったが、45年の夏は平年並みだった。確かに7月のやや寒さと言ったものはあるが確実にそうとは言えない。


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1945年の夏は暑かったのか?まず現実的に言えば、平年並みの暑さでしかなかった。これが暑く感じたのは、冬がとても寒かったからだ。そして東日本では7月がとても寒く8月の気温とギャップがあった。西日本でもそういった傾向があるが、これははっきりしなくなる。だがこういった事が身体に与える影響は大きい。冷暖房完備で、高機能な衣類を着ている現代人にはよくわからないだろうが、築40年の家で暖房入れてもスカスカ暖気が逃げてゆく家に住んでいる私にはとても解る。寒さに身体が慣れた所に暑くなると、本当に具合が悪くなる。
次に、冬の燃料不足。夏は空襲で日差しを遮るものが少なかったりトタンの下でしのいでいたりしたのが暑く感じさせている。食料不足もあるだろう。41年のは多分だが凶作だ。45年も順調とは言えない。戦争中でもある。
最後だがやはり終戦の年であり、ポツダム宣言受諾した8月15日の天気に大きく影響しているのだろう。この日は全国的に晴れで暑い日だったと言う。これには間違いが無い。その他にも広島の原爆投下の朝がとっても暑かったとか、著名な日に限って暑いと書かれている。こういった事が影響しているのだろう。


夏には「暑い暑いと言うな。余計に暑く感じる」とはよく言われる。1945年の夏はみんなが暑い暑いと言っているが、実際はそんな事は無い。みんなが言うから余計に暑く感じていたのだ。