写真の歴史を考えると、湿板・乾板、ガラス版に感光乳剤を塗ったもの・乾いているか湿っているかの差、などではかなり大きなサイズのものがあった。日本写真史上最大は91×112センチの乾板が出てくる。ドイツでも有名なアウグスト・ザンダーの使っていた乾板は45×56センチと巨大だ。
ただそういった巨大サイズフィルムは自分で現像する事が前提で販売するものであって、大体のサイズは規格化されていた。特にコダックのはじめたラボシステム以降は規格化が重要で、その方向に進んでいった。
プラスティックの薄板を支持体としたシートフィルムでは、大きい方から8×10、5×7、4×5インチ、稀に巨大な11×14インチがあった。実はもっと細かくサイズがある。このあたりのシートフィルムは密着焼き付けが前提な場合が多かった。そして主に営業写真館、人物ポートレート専門で修正技術のある写真館が主に使っていた。修正する際に鉛筆などでイロイロするのだが、そのあらが目立たない為に使われていた。その際にサイズがお客さんの要望でイロイロ変わる、と言う事だ。
もちろんこのシートフィルムだが、風景やファッション、そして物撮りなどについ最近まで使われて来た。面積が大きいので緻密な描写が出来、レンズ操作が自由自在にできるのが特徴だった。
そしてフィルムになるのだが、6センチ幅、35ミリ幅、16ミリ幅、8ミリ幅とあり、カメラによってその億利幅でサイズが変わる。例えば6センチ幅のブローニーサイズのフィルムでは、6×12、6×9、6×6、6×4.5センチのサイズが有る。
なんでこんなにサイズがあったのかと言うのが今となっては解りにくいわけですが、先ほど肖像写真の修整の話でもあったように、用途があったわけです。アウグスト・ザンダーの「時代の顔」も、最大限の記録ということで20×24インチと言う大きさの乾板を使ったわけです。
また多様な技法がありました。例えばプラチナプリントですがかなり硬調なネガを作る必要があります。そして印画紙が紫外線にしか反応しないので、普通は感度が低いのが特徴です。なのでフィルムと印画紙を密着させてプリントするしか方法はありませんでした。なのでフィルムサイズは表現したい大きさと同じになります。
ブロムオイル法も同様な所があります。これに関してはレシピを良く知らないのですが、乳剤が極厚手の印画紙に焼き付けて特殊な現像液につけます。すると銀が還元された、つまり黒くなった部分のあたりが固くなるのです。銀の触媒反応だと言われていますが、固まっていない部分はお湯に浸すと溶けて流れてしまいます。するとデコボコが印画紙の上に出来るわけです。
このレリーフ版に色素をしみ込ませて、別な印画紙に転写するとダイトランスファー法と言うカラー写真の技法になります。そしてこのレリーフの凸の上に油絵の具を載せて転写するとブロムオイル法になります。たしかこの時に余計な絵の具をのぞく作業を雑巾がけと言ったと思います。顔料を代えると色調が変わるわけで、緑なり赤なりが出来ます。白黒以外の表現が出来たわけです。
そして表面だけにキチッと顔料を載せて転写すると
コロタイプ印刷になったと思います。
ただブロムオイル法やコロタイプ印刷は精密な再現を求めたりするわけで、引き延ばしたプリントを見た事がありません。強いて言えばソフトフォーカスが流行った大正期の写真で多分これはというのは見た事がありますが、「光画」の当たりでは、そう言った作品は見られないと思います。
フィルムのサイズの話ですが、少し変な国があります。アメリカです。古い映画で報道カメラマンが持っているカメラがあると思うのですが、
スピードグラフィック、スピグラと呼ばれているカメラです。かなり大きいです。なにしろ4×5インチシートフィルムサイズのカメラです。その後6センチ幅フィルムになりましたがそれでもかなり大きい。
当時の大リーグでの撮影用カメラが写っている写真を見た事があるのだが、みかん箱サイズだった。多分フィルムサイズは8×10インチ。
それでは家族の記念写真に使われるカメラは、カメラを買える家庭は6センチ幅フィルム、余裕があれば4×5インチ、この傾向が変わるのは戦後からかなりたってからだと思う。確か1955年頃からカラースライドがブームになり、35ミリカメラがアメリカでも一般化したと思う。
大戦前後でのヨーロッパでは1914年のウルライカの製造が大きいと思うが、フィルムサイズは何でもありの状態だったと思う。ミノックスの発売が1937年だしコンパスが1936年。もの凄いダウンサイジングが始まっているわけです。それでいながら巨大乾板があったりするわけで、特殊用途の需要があったと思った方がいいのです。
それは表現だったり、スパイ用だったり様々なのですが、写真発祥の地らしい多様性があります。
35ミリカメラの機動性と、レンズやカメラの機構を変えれば更に多様な表現が出来る、そしてフィルムの性能が戦後大幅に良くなりました。ドイツの持っていた特許が公開されたのが大きいです。それで35ミリフィルムでいいじゃないのか、となったように思われるのですが、実際はそうではないのです。特にアメリカやヨーロッパではそうです。1960年までアメリカは大判天国ですし、ヨーロッパでも中判が目立ちます。
しかし日本では、戦前戦後でかなり様相が変わります。戦前のフィルムの多様性は、35ミリカメラに収斂されて行きます。もちろんプロやハイアマなどでは大判や中判があるのですが、アマチュアのほとんどが35ミリになってしまいます。
まあ理由は簡単で、当時の日本が貧しかった結果、フィルム代が安く済む35ミリになったと言う事です。
ですがこれにはもっと別な理由もあります。そのうち考えてみましょう。