どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

デザインって難しいな

2016-05-06 00:54:52 | 日記

 

昨日米山のところに行った。なにやら公会堂の方が客がすごいようなので、店はどうだったかと聞くとやはり暇だという。「工芸と遊ぶ~大日本市博覧会第二回岩手博覧会」というのをやっているという。あげる、といってチラシを渡された。奈良晒商の中川政七商店が主体となって全国の工芸産地と組んで工芸品市をたてるというものだ。この中川政七商店の300年の歴史は、結構大変だったようだ。他産地との競合、独自の品質の新商品開発、契約農家の家内労働だった生産方式を、工場で集中管理などで激動期を乗り切ろうとしたわけだ。だがどうも様子からすると美容目的の麻油の販売や、デザインを施したグッズ製造販売なども行って、奈良晒を守って行こうとしている会社のようだ。他産地の衰退というのが、その意味で気になるのだろう。そしてだが、自社製品だけでイベントをやってもお客は来ないが、こうして他産地と組むことでより大きなイベントにできるわけだ。そこには戦略があり、全く悪いことではない。

米山が「現代美術はわかるんだけど、デザインってわからないんだよね」そうのたまわる。「日産の車のデザインについて広報が変なことを言っていた。わたしらはデザインについてお客様の意見は聞きません。なぜならそれは5年後のお客様の意見ではないからです。もちろん今ある批判を受け止めていないということではないのですが、新車を計画してから販売までの5年のスパンの中ではお客様の意見は古くなってしまうからです」。米山は少し納得したようだ。現代美術はその点かなり違う。今ある問題から人間の本質までたどり着いたものを出さないといけないのだ。そうでないと歴史に淘汰されてしまう。

デザインは今ある要望をかなえるためだけにあるのではない。未来に渡って生活の本質をつかみ取るためにある。アップルのデザインのように、生活を変えるというものもある。だが工芸はその点難しい。生活に密着してきた故の変化出来なさ、だろう。そして新しい生活に合わせてのデザインの提案力のなさが問題になっている。

 

 

 

すごい賑わっていた。

工芸とデザインの問題は古くて新しい。昔から失敗した例は、ある意味プロダクト・インの製品。技術力は高いのだが、使うとなると躊躇してしまうものだ。今回も極限的に薄く作られた木工の皿を見た。ただこうなると長く使うことは難しいと想像できる。みずに濡れたりしてはいけない可能性がある。そうすると漆でも布を着せた形にしたほうがいい。ただそうすると木工芸としてはどうなるのかとなる。単なる木地師にしかならなくなるからだ。

南部鉄器だと少し違うな、というものが多い。お一人様のキャセロール鍋はどうなのか。調理した時の容量が500CC欲しいものだ。だから容積は1リッター以上欲しい。蓋の摺り合わせをこだわって欲しいところなのだが、ちょっと残念。多分ブースが狭かったからだろう。

次が「意識高い系」に向けた商品だ。これは致し方ない。それなりの単価を払うというのは、意識が高くないといけないしお金も持っている。ただそうなってくると、単にシンプルなデザインになってしまうのだ。実はこれが一番いただけない。伝統とかそういったものを切り捨てているように見えてしまうわけだ。その上、それがある生活がかなり限定して見えてしまうのだ。もう断捨離の世界なのだ。日本人的には結構いいのだが、そこから先が見えないというのはデザインとして問題がある。このあたりをどう残すのかが重要だと思う。食べてなくなる食品デザインでシンプルというのは意味がある。だがしばらく付き合うものは、ネチっとしたこだわりが感じられるもののほうがいい。

5年後のわたしを感じさせる商品は、実はネコグッズデザイン会社のものだけだった。

 

 

出品者も意識高い系の人が多くて、嫌になった。バブルの時のデザイナーズブランドショップの店員のような感じの作家を、いや彼らはかっこよかった。だが今はヒッピーと何かが融合したようなファショナブルな人が目立った。岩手の作家はやっぱりその辺は地味だった。やっぱり鋳物屋さんは地味だね。でもそこが安心できる。

少し嬉しかったのは、裂き織りのブースで織機が平織りに設定されているのを見て、まあワークショップ向けだからしょうがないなと思うながら、「技術センターに自働ペダル操作の研究があったはずだ」と言ったら、かなり興味を持ったようです。コンピューターでシャフト制御するもので、人は風合いを一定にするのを考えればいいというシステムです。「デニムのカイハラで綜絖に自働で糸を通す機械を見たんです!感激しました!」実は織り機で縦糸を綜絖に通す作業がえらく大変で、その上縦糸のテンションを全て一定にしなければいけない。そのめんどくささと、自動化できる可能性を考えている人がいる限り、工芸の世界は大丈夫でしょう。本質は別なところにあるのです。



知り合いにあった。この会はどう思うと聞いたら、「認知されていなかった工芸の世界が、認知されるようになっただけでいいんじゃない」というお答え。確かです。でも意識高い系の服装はなんじゃね、鉄器屋さんの作業服はホッとしたよと言ったら、「作務衣着て出てこられるよりはマシじゃない」。

まあ確かですね。

なぜその工芸品が必要でそのための技術があって、その技術を生かして新しいものを創造しようというのは正しいのだが、ものすごい断絶感があった。なぜというのが全く伝わっていないのだ。

いやこれは多分、青空市場で飲んだ水出しコーヒー、産地はケニアの不味いこと。多分オランダ人が拒否する味だろう。その断絶感がそう言わせているだけだろう。

意識が高い人はテキストだけで生きている。そう思う。その上古典文学は知らないだろう。