どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カオスだね

2016-05-13 01:44:19 | 日記

 

今日は天気が良かった。少し肌寒かったが、日差しが強くて熱く感じるほどだった。ちょっと仕事で忙しすぎて慌ただしい1日でもあった。生活は曇りといったところか。風邪はまだ抜けていないが具合が悪いというほどではない。

 

 

日銀当座預金の一部マイナス金利で、銀行が恨んでいるとかマスコミは面白おかしく書いている。確かにそちらがわかりやすいし、恨みにも思っているのかもしれない。だが、当座預金に利息がついている状況がおかしいのだ。何を恨んでいるのかが良く分からない。

そういった記事は多分家計と国家財政との違いを良くわかっていないのだろう。というかわかっている方が少ないのかもしれない。実際私もわかっていない。

 

 

家計は貯金があって、稼いだ金があってそれで成り立っている。家を買う場合でも、今後の家賃とローンの差額を吟味して、損がないということで買うことが多いだろう。プラマイゼロならいいのだ。

企業になると、会社の資産になりそうなものに投資するという考えになる。それは研究費だったり開発費だったり工場だったり家屋だったりする。それもまた100%自己資本でできればいいのだが、銀行から多少の借金をしておいた方が後々いいことがある。信用の創造ということになるのだろうか。資産の投資に成功して安定した収益を得ていても、突然取引して下さいと言っても銀行はなかなかに取引には応じない。借金も財産のうちという言葉があるが、これは長い付き合いで作り上げた信用と言い換えることもできる。

で、ここで重要なのは、突然の資金難になった際にこの信用が効いてくる。まれにある黒字決算倒産というのはこれで起きる。自己資本と少額の借金で回していたのが、取引先の突然の倒産で資金がショートして手形を落としてしまうのだ。これがないように預金は必要だが、信用も増やす必要もある。このために一定の借金が必要になる。それは回転資金だったりするわけだ。取引が大きくなればなるほど、資産が小さければ小さいほど信用という梃子は重要になる。

とは言ってもあんまりにも資本と借入金が乖離している状況では誰も金を貸さない。なのでそのバランスが問題になる。

だが国家になるとさらに複雑になる。貨幣の発行権があるからだ。いくらでも貨幣の信用創造ができる。だからこそ、国家の収入と貨幣発行量には制限がある。借金を払うためにお金を印刷しまくって、国家の資産と信用を上回ったら、その貨幣は暴落する。ジンバブエドルがいい例かもしれない。

で、ここまでは単純な話なのだ。

自由主義経済下での国家の貨幣管理は、市場で行わなければいけないという原則がある。ただ国家が資産を動かすのは限界がある。そこには国家防衛や国民の意思や尊厳がある。その上国家が持っている資産は、土地だったりするので厄介だ。動産のような美術品に至っては、国家は高く売り抜く方法をなかなかに持てない。

ということで、簡単にできるのは国債の発行だ。これは貨幣の発行と同義なのだが帳簿上の問題だけで済ませることができる。銀行との取引で、国債を大量に売れば国債の価格は下がり金利は相対的に上がる。国債は額面と金利が一定なのだが、相場で買取価格と売り出し価格が変動するのだ。

国家ができるのは、この国債を市場から買ったり売ったりすることで貨幣価値と金利を操作することしかできない。それ以外は口先介入とか、市場とのコミュニケーションとか、信用創造という良く分からない安倍政権が行っているものでしかない。

 

 

国家の財政を超えるお金が市場にある。実はここに問題がある。

例えば東日本大震災の後に、円高になった理由はアメリカの金融緩和を嫌っただけの資本が一気に動いただけで、日本のファンダメンタリズムなんて全く考えなかった。

これらに対して、借金で防護しているという形がある、そうなんだろうな。日本というのは。