どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

今のふるさと

2012-03-12 02:20:23 | インポート
てつがくカフェが盛岡であった。またしても参加できなかったが、自分の考えている事を書いたのを送っておいた。どう使われたかは解らない。とりあえず全文出しておく。理論の飛躍が多いので、駄文だと思う。
ただ、なんかこの2週間の苦しみが訳の分からない文章になっているのは、確かだ。311の一年目という事で、本当に辛かった。突然現れた恐怖と、確実に来る日付の恐怖との違いと言うべきだろうか。



哲学カフェ「故郷」


 用語の再定義をする必要があると思います。
 
 まず「故郷・こきょう」と「古里・ふるさと」を分けて考える必要があります。どちらも生まれ育った場所をさす言葉です。ただ重要なのは距離感だと思います。故郷は距離も時間も遠いのです。古里は帰れる範囲もしくは時間を近く感じさせます。次に故郷は、国と変換できます。「お国はどちらで」と出来ます。古里の場合、国よりは狭い範囲になります。なんとか村のなんとか集落になります。これと逆に字面通り古い里、田舎をさす事も出来ます。なのでお土産屋には「ふるさとの味」とか書かれる事になります。
 これは漢字の問題であります。故郷の「故」は失われたという意味もあります。 故郷の「郷」は、「白川郷」などありますが元々は村全域とかそういった広さがある言葉です 。古里の「古」は単純にふるい、もしくは田舎という意味合いがあります。「里」は距離の単位でもあります。田舎と言った場合にはとても広い定義になりますし、里の単位は子供の遊ぶ範囲みたいなイメージになると思います。あやふやな感じがします。
 このせいか、「故郷」からはメランコリーやセンチメンタルを感じさせます。「古里」にはノスタルジーがあるように思います。
 画数の違いか、 「故郷」は青年期の思いででしょうか。「古里」となると少年期でしょうか。イメージが変わると思います。

 さて重要なのは、この二つの言葉は使う場所が違うという事です。「故郷」は遠い場所で使われる言葉だと思います。東京で岩手の話しをするといったイメージです。古里は逆に解る人の範囲でしか使えません。細かくなるからです。盛岡だとしても、「故郷はどこ」という場合は大雑把に答えれますが、「古里はどこ」となると難しくなります。逆にアバウトなイメージで使うのが最適となっていると思います。まずもって、会話では使わない、抽象化された言葉になっていると思います。
 故郷からはなれて別な所で生活する人が使う言葉、だと思います。
 その上で、東京生まれの東京育ちは両方の言葉を使いません。なぜなら二つの言葉は、地方を指すからです。「浅草の生まれ」とか「荻窪で育った」とかになります。東京には田舎が無い事になっているからです。故郷も古里も、田舎と置き換える事が出来るためです。

 転勤族の子弟のふるさと感というものもあります。彼らから見れば、ふるさと=地というイメージがあるようです。土地に根ざしたものを持っている人がふるさとを持っている。転勤して土地を点々とした彼らは、あえて言えばという前置きで、地方で少し長くいた土地で、楽しい思い出があった所となるようです。アイディンティティの形成に強く影響した土地をさす場合もあります。
 その転勤族の親が「第2の故郷」という場合があります。これはその土地のコミュニティに受け入れられ、同化したと思っているという事です。それがやむを得ず離れてしまった時に使われると思います。
 

 さて「故郷」と書いて「ふるさと」と読ませる場合はどうでしょうか。この言葉は良いとこ取りをします。距離を不明にしてしまうのです。故郷は遠いのです。帰っても受け入れて貰えない可能性があります。ふるさとはどこか近いのです。コミュニケーションが出来る可能性を持っています。
 更にセンチメンタルがノルタルジックになって、あたかも良い事ばかりあったように見えてきます。


 このルビの振り方はどうも児童唱歌の「故郷」からのようです。うさぎおいし、かのやま、です。このイメージが都合の良い言葉として、ふるさと創世資金などに使われるようになったと思います。
 さてどちらにしても離れた所から使う言葉です。生まれ育って、そこで暮らしている人の使う言葉ではないと思います。「都合のいい言葉」であって、本質は違います。
 暮らしている限り、私の街であり私の村であるはずです。

 さてあっさりと言い切りましたが、古里の抽象化は変な話しです。単純に古俗を守っている里で十分な話しです。これは多分なのですが、近代化が進む里というのが現実にあって、古いというイメージがなじまなくなり、古里→ふるさとに変わったのではないのかと根拠もなしに思います。その上児童唱歌が抽象イメージとして残ったのではないのかと思います。自然が一杯あるというのが、基本になりそうです。

 ここで、「故郷・ふるさと」というのは実際はどうゆうものなのかと、考えます。まず単純に現在100歳から0歳までの間でイメージしますと、恐ろしく多様な事が解ります。用例は出すまでもないでしょう。日本全体の変貌が凄まじすぎるからです。
 更に個人差があります。同じ地域で生まれ育ってもスポーツマンとオタクでは違うはずです。基本的に同じ生まれ育ちでも、「あなたのふるさとは、私のふるさとと同じではない」となるでしょう。
 実はこういった所で、ふるさとは変わらない山や川などの自然としているようです。これを基本に、変わっていない所を探しつつ、それぞれのふるさとを定義していると思います。
 更に生まれついてそこで暮らしてきた人と、離れた人とでは意味が変わります。
それが、住んでいる人にはふるさとというのは、おかしいという私の発言になります。ただ離れた人にとっても、住んでいる人にとっても繁栄というのはうれしい事です。

 ここで考えたい事があります。田舎を故郷という言葉を使う場合です。最近増えているようにも感じています。地方発信の番組なんかでたまに出ていました。コマーシャリズムを感じるのですが、そういった使い方もあります。
 実は復興に際して、「ふるさと」という言葉が出ている例が多いように思います。しかも住んでいる被災者がいっているという事です。「ふるさとが居住禁止になった」みたいな発言です。もちろんここで「失われた郷」であるならば正しい言葉です。しかし使われているのはふるさとという遠いイメージであって、誰に向けての言葉なのかよくわからない所があります。

 故郷の言葉にはもう一つ、嫌らしい意味があります。それは東京などに人を送った歴史です。現在でもこれは続いています。優秀な人間を輩出して、故郷に錦を飾ってもらうという歴史が戦前ありました。現在もあります。しかし今うまくいっていない、というのが状況だと思います。ふるさとはがんばって育てたのにと思っているかもしれません。育てられた人は、東京で競争が激しすぎてがんばってもがんばっても、何も出来ない。社長になってふるさとに工場を造りたくとも、グローバル経済ではムリとなっています。
 ふるさと納税は、言葉の意味でも、この隙間でうまく回ってゆければ面白い制度だと思います。
 

 ふるさとと言う言葉をなぜ地方が、しかも住民が言わなければ行けないのか。本質的な問題だと思います。生まれ育った土地から遠くはなれた時に、ふるさとは生まれるのです。この言葉は、土地を抽象化しなければ現住者が話せない言葉です。確かに津波で「故郷」になってしまいましたが、それでも住むと言うならばそこは故郷ではないのです。生活の場なのです。

 私にとっては、違和感のある使われ方をされている言葉は滅多にありません。そもそもふるさとは各個人で違うものです。記憶の問題です。元々住んでいる人に取っては些細な変化でも、出て行った人に取っては大きな事だったりもします。世代間のさもあります。
 

 震災はその意味でも、すべてを消し去りました。残っているのは、ガレキだけではなく、住んでいる人も離れた人も、思い出だけを残して消えました。そこに「ふるさと」が立ち現れていると感じます。
 被災者がふるさとという場合には2重の意味が込められているように思います。
 まず一つは、自分たちの土地をなんと呼んでいいのか解らなくなっている、という事です。例えば山田町といって良いのか、街と言っていいのか。無くなっているのですから。
それでは、田舎と呼び変えても良いのですが何ともしっくり来ません。そこで「故郷・ふるさと」に落ち着いたのかと考えられます。特に外部から来たボランティアやメディアに対しては使いやすい言葉だと思います。
 次が、今現在離れて行った人たちへの期待かもしれません。戻ってきて欲しい。その気持ちが本来使われない言葉に出ていると思います。
 もしかすると、東京へ出て行って帰ってこない子弟たちへの呼びかけなども含んでいると思います。


 今回は行政による、「ふるさと」の移転が問題なのだとは思います。強制移住なのかどうかという事です。財産権の問題もあります。ここで天災による移住が、人権として正しいのかが議論されるべき問題です。
 次にふるさとから土地を切り離して、コミュニティが残っているかどうかという問題もあります。多くの犠牲者を出し、生活のために土地を離れて行った人も多数います。この状態で、高台に移転して新しく生まれ変わったとしても、そこは「ふるさと」と言い切れるのかどうか解らないという事です。
 毎年季節ごとに帰省していた家族が、来なくなる可能性もあります。

 大変な事例としては、福島県の場合です。子供のために家族で避難した先で仕事を見つけてがんばっているのに、コミュニティからは逃げたと言われてしまって帰れなくなっている状況も起きているようです。この場合、故郷を2重に喪失している事になります。家屋の被災・コミュニティからの拒絶です。これを避けるために我慢する人も現れていると聞きます。
 極端で目立つ事例ですが、こういった事が岩手県沿岸でもあるのかどうか。福島ほどではないが、あると考えています。

 ここに違う側面もあるのではないのか。この言葉は、同調圧のシンボルとして使われていないか、という事です。かつて「日本男児だろう!」と言われていたのと「ふるさとの復興!」というのは似たような美学を感じるからです。


 「ふるさと」という言葉の美しさは解ります。ただこれを連発すると、本来の生活の場を復興させる、妨げになる可能性を感じます。
 自家中毒に陥る可能性を秘めているからです。「ふるさとを守り・育てる」といったキャッチコピーが、逆を生む事の方が多いのは誰もが承知している事です。
 これが今回は「ふるさとの復興」です。これ以上の曖昧さは無い訳です。

 最後になりましたが、自然の大枠さえ残っていれば、大体の所ふるさとなんです。コミュニティがまとまっていていれば尚良いのです。それが出て行った人間の意見です。全く違う姿に変わっても、文句は言えません。むしろ後世に残る意義のある町作りをした方が、自慢できます。
 ふるさとというのは、自然だけではありません。自慢できる、ここを忘れちゃいけません。
 極端な所、巨大防潮堤に住居があったら?上は道路だという発想が良くない。巨大防潮堤が太陽光発電施設だったら?防潮堤の傾斜角を計算して、風が通りやすくして風力発電もしたらどうか?防潮堤の上は飲食街で海を眺めながらのだったら?すっごい近未来感が出ている。緊急時には防潮堤のシェルターに潜り込めば3日は大丈夫だったら?防潮堤の海側にウオータースライダーを付ければ日本最大落差のウオータスライダーになるかもしれない。漁師は海からはなれるのを嫌がっているが、ここなら海は近い。
 逆に全部地下だったら?
 無い町を作ってしまうのも考えられる事です。自然には最適でしょう。
 ふるさとという言葉は、考える自由も奪う可能性があります。


最後の例だが、実際法令等で出来るはずが無いアイディアだ。だけどこれくらい極端なアイディアを出さないと、変な方向に行ってしまいそうな気がする。




少し付け加えます。日本の民謡は各地域でドメスティックなものだったと思います。それがラジオなどで広がり広域化しました。例えば東京出身者が津軽三味線を弾くとか、九州出身者が東北の民謡を歌うとかなりました。
それがどうかと思われるかもしれませんが、こういったこともふるさとを考える起点にはなりそうです。


311を過ぎるまで

2012-03-04 21:25:34 | インポート
最近体調が悪い。心の具合もとても悪い。
これは例の岩手県は日本の敵だにはじまる事なのだが、山梨の件はかなり堪えた。
問題は311一周年が近づいている事もある。あの一瞬ですべてが消えた日だ。心が麻痺しそうな死者の数。無い事にしたい放射能物質、そして予想を上回る差別。
仕事を抱えているし、確定申告もある。なのでしばらくブログはお休みします。
再開は3月20日あたりと考えています。
吐き出すために始めたブログですが、どんどん毒を貯めてゆくような気がします。言葉にする事で、自分が自分に固まったり、毒を解毒するつもりが自分の中にたまってゆくのを感じています。これはとても気持ち悪いです。
1945年の話しは、キッチリと再開した時に出します。実は1945年のデーターをどう見せるかという悩みもあります。
しばらくお休みします。もしかすると間に書いてしまう事もあるかもしれませんが、それはよっぽどの事だと考えて頂ければ。
それではおやすみなさい。


答えのないせかい

2012-03-04 19:37:27 | インポート
ダイヤモンドオンラインで、震災を検証する連載がある。とっても良い記事だ。
この中には様々な被災者が出てくる。ただ一つだけ共通点がある。
東電の悪口をまくしたてる被災者が、ほとんどいないという事だ。特に福島県人がそうだ。もちろん記事なので記者がその辺りをボカしているのかもしれないが、この記事のタッチからはそうは感じられない。
たまに、東電の事を憎くてたまらないという被災者はいる。しかしそれはあくまでも心の中でのほとばしりであって、出来るだけ話さないようにしているというのが伺える。
確かに、福島県は原発を誘致する事で交付税から様々特典があった。これに対するうしろめたさもあるかもしれない。しかしこれを震災前に本当に解っていた福島県人はどの程度いたのだろうか。そもそも原発が危険だという事を、理解していなかった。というか洗脳に近い状況にあったのではないのか。でなければ、原発事故直後の大熊町ののんびりした住民たちの姿は説明が出来ない。
原発事故から現れた問題は余りにも多すぎる。震災そのものの被害、国債発行残高の問題から復興予算が出せない国の問題、当然地方も同様な問題を抱えている。雇用の問題、自立できない農水業の問題、高齢化の問題はこの東北地方では元々もの凄く大きい。健康保険や医療の問題もここに繋がっている。産業構造の問題、例えば土建王国と言われている岩手県だが現実の所、ここ10年以上に渡って大型公共事業が無いため技術者がかなりいない。もともと3Kと言われるほどの世界で、見通しが暗かったから後継者が育っていなかったのだ。
東京という問題もある。若い子は東京を目指して巣立つ。そこで材をなして帰ってくるかと言えばそんな事は無い。帰ってくるのは問題が起きて帰ってくる例ばかりだ。定年後は東北で、というのも困ったものだ。健康保険の金額を上げるだけだ。ちなみに東京との健康保険税と岩手の健康保険税は倍どころでなく違う。東京は若く健康な人を集めて繁栄しているが、問題が起きた人を地方に飛ばしているから健康保険が安くなっている。
福島原発は、その東京に電気を送っていた。
事故以来どんどん露になる問題を前に単純な解決策が無いという事を、身にしみて知ってしまった。答えが無いのだ。どのような情報を集めようが、客観的であろうと努めようが、心の赴くままに判断しようが、答えが無いという事実があるのだ。
東電にすべてを押し付けて解決になるのか?国の責任と言い切っていいのか?自分たちが選んできた政治家の責任は、自分たちの責任でもないのか?自分はなぜ地元に就職したのか?
別な記事に、南相馬市に住むお父さんたちの記事があった。悩みを共有しようという試みだ。そこには様々な人がいる。自分は仕事のために残って家族は避難しているとか、逆に家族ごと南相馬市に戻った人もいる。当然事故以降も離れられなかった人もいる。共通する思いは、これで正しかったのか、という事だ。
答えが無い。だから正しいかどうかを常に自問自答しなければ行けない。
よくそんな土地に住まずにはなれた方が良いという人がいる。確かにそうだ。だがいまのコミュニティから離れるというのは、もの凄いストレスになる。高齢者には勧められない。離れて仕事があるのかという問題もある。東電や国からの賠償金でウハウハすれば良いじゃないのかという人もいる。でも仕事がなければ、自分と社会の接点が無くなるという事を意味する。
人は社会に認められて、生きるものだ。そこに仕事や地域社会がある。片方が欠けると人はうまく生きられなくなる。これをいきなり新天地でがんばりなさいと言われても、両方あっという間に再構築できる人間なんて滅多にいない。
今東北で起きている事は、実は全国に当てはまる事だ。東北では放射能の問題が余りにも大きすぎて、全国からは見えにくくなっていると思う。
東電の悪口をなぜ東北人は言わないのか。確かに福島から抗議団体が押し掛けた。でも大多数は言わない。東北人が寡黙だとか恥ずかしがりやだからという訳ではない。
答えが無い事を知っているからだ。安易な答えがいかに危険なのか、よくわかっている。東電の責任だけには全く出来ない。だから恨むのだ。そして自分の無知を恨むのだ。そして自分の人生を恨むのだ。恨む自分を恨むのだ。
しかし恨みは口に出すと呪いになる。呪いは自分にも降り掛かる。
答えが無いから、とりあえず一歩を踏み出さなければ行けない。
しかし差別の問題が起きている。
もはや、としか言えない。
最後になるが、差別というのは人権侵害でもあるが、呪いなのだ。呪いが何も生まない事は解ると思うが、互いに末代まで祟る。それでいいのか、と言いたい。
生者が死者を羨み、という台詞があるが、ギリギリでふんばっている。これが東北の現状だ。だから岩手は福島の悪口は言わない。宮城も言わない。知ってしまったからだ。


差別

2012-03-04 04:45:26 | インポート
法務省が昨年の人権侵犯事件についてまとめた。
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03_00064.html

これは概要なのだが、詳細のファイルがなぜか開かない。PDFファイルのバージョン違いにしては、変な感じだ。なので読売新聞からだが、東日本大震災関連の人権侵犯に関する相談は、491件。人権侵犯とされたのが29件だった。全体では2万2168件もある事件の一角でもある。
ただ震災での人権相談と言えば、やはり福島絡みだと思う。報道もそこに焦点を当てている。

そこに山梨の幼稚園が、入園拒否をするという話しが出た。朝日新聞の記事。
http://www.asahi.com/national/update/0302/TKY201203020761.html


ここで、「法務局は風評による偏見・差別をしないよう、ポスターを掲示し、自治体広報紙に広告を掲載するなどの救済措置をとった。」と結ばれているが、これがいかに意味が無いのか、法務省は解っていない。
多分政府が言うから、信頼できない、となる。
なぜなら、お母さんは子育てのリスクを最低限にしたいからだ。そこでよく分からない話しばかりだから、混乱しきっている。
無条件にお母さんはリスクゼロを選択してしまっている。これはある意味ただしい。
ただそれで、自分の子供の教育に良いのかどうなのか、これを判断していない。
結果的にイジメを容認しているのだ。これでいいのか?
確かに幼稚園の園長は、考え過ぎだと思う。もちろん経営もある。なのでこの判断だと思うのだが、本人がマトモな判断をしようとしていない事がよくわかる。
幼稚園なので文科省管轄だ。教育が中心の中での話しだ。誰かが差別する事で差別を広げる、教育の場でだ。


さて、その幼稚園児が被爆したとして、その持っている放射能物質が他の子供に移る可能性を計算してみた。結論は、途中でバカバカしくて止めてしまった。福島県双葉郡の体重25キロの子供が、3月中の放射能降下物を全部吸収したとして、それが今現在でどの程度の放射線を出しているのかとか、おしゃべりで出たつばの中にセシウムが原子単位で何個入っているのかとかやってみようと思った。ファクターが多すぎて止めた。単純モデルすら多すぎた。
ほとんど無理。確率は確実に低い。転んで擦り傷にプルトニウムが入るレベルだ。
しかしこのままでは、広島・長崎と同様なことが起きるのだろう。結婚を誓った相手が福島出身で、それで家族から結婚を反対されるとか。
それが今生まれた子供に起きるというのが恐ろしい。
放射能の場合、完璧な無知から差別が起きている。






いまあるウワサ。岩手の釣り人の受難

2012-03-03 04:43:20 | インポート
注 この記事は、2012年3月3日に書かれたものです。現在状況はかなり変わっています。岩手県の水産物の放射能検査結果をリンクします。また岩手県内水面漁協のサイトも改めてリンクします。





3月1日に、岩手県内水面漁業協同組合から、陸前高田・気仙川の矢作川と一関市東山町の砂鉄川から捕れた魚から、240から88ベクレルのセシウムが検出されたと、発表された。


http://www18.ocn.ne.jp/~itnaisui/data/housyanou_120229.pdf


これで、岩手県内の河川では遊魚券を買って釣りが出来なくなるというウワサが流れている。現実的に漁協組合員は出荷のための釣りが出来なくなる。セシウムの基準値を上回る可能性があるからだ。その上で、次の問題がある。
岩手県内水面漁業協同組合のホームページから引用する。


「遊漁はほぼ終了しましたが、各単協の遊漁券販売は落ち込みが大きく、特に沿岸地域での遊漁者数は例年の10分の1以下という状況で、遊漁料収入は大幅に減少しております。
加えて、沿岸地域の組合は操業できない組合員が多いことなどにより賦課金・行使料収入が減少し、さらに沿岸地域の遊漁券販売所が津波で流出し販売代金が回収できないことから、次年度の放流事業経費の確保見通しがたたない状態にあります。」

さらにこの漁協は、各河川の魚の増殖に努めなければ行けないという規定もあります。現実に出荷している漁師は少ないとしても、この組合員は釣り人が釣った分だけ、放流等を行わなければ行けないのです。この経費がどうなるのか解らないと危惧しています。
ただ実際は、彼らは遊魚券収入が大きいハズなのでそう簡単には止めないと思うのです。
ですが、ウワサは東電へ賠償請求するというものです。こうなると話しが変わります。タテマエとして漁業で生計を立てていて遊魚券収入は副次的なものだからです。なので賠償請求をすれば、彼らは漁業停止しなければ行けません。その上遊魚券の販売は停止します。倫理的な問題です。もしかすると食べてしまうかもしれない密猟者は厳しく取り締まる事になります。「食べてしまう可能性」で、キャッチアンドリリースのスポーツフィッシングも禁止になるでしょう。
その前に漁業権は権利です。遊魚券はその権利を分売しているのです。漁業権を建前にした賠償請求は、遊魚券を否定します。
岩手県内の河川がすべて禁止になるかどうかは、今後の各河川ごとの漁協の判断になると思います。その上養魚場・養殖場の問題もあります。放流する稚魚の生産をしています。養殖成魚の販売もしています。確実に放流事業の縮小の影響はあるでしょう。その上岩手県の河川で天然川魚の出荷(ホームページで確認したが、フツーなら自慢できる事が書いていなかった。つまりほとんど無いのだろう)が停止したという話しが、養殖場に直撃するでしょう。
いったん禁止になったら、1年以上続くのは間違いが無いと思います。その間に釣具店の閉鎖が起きるのではないのかと予想されます。とりあえずシーズントップにこのウワサなので、かなり売り上げに影響するのではないのでしょうか。
私は、日本の河川と魚の数に対して釣り人が多すぎると考えています。なのでこのようになったらなったでそれは良い事かもしれないと思います。でも、現実と建前が食い違っているというのが、イヤな感じがします。
本質的な問題解決は、セシウムの無い河川を作る事です。これは今現在不可能です。検出限界以下になるのには河川によって変わりますが最低1年以上。それではどうするのかと言えば、東電に賠償請求する場合、岩手県内水面漁業協同組合は釣具店を通じて、釣り人を集めて本当に集団訴訟にする事です。
現実的には、岩手県全河川釣り禁止は無いと思います。岩手県北部では問題が少ないと思うからです。
あと一つ、岩手県には漁業権の無い川があります。北上川です。岩手の真ん中を流れる河川ですが、上流部以外は、八幡平の松尾鉱山の鉱毒で、漁業権問題は回収され現在も設定されていないハズ。アユつりがここに殺到するのでしょうか。
さて、もう一つ楽しいプランも考えられます。「岩手県からブラックバスを追放する」プランです。これを岩手県内水面漁業協同組合が打ち出したら立派なものです。ブラックバスだけ解禁するのです。もちろん間違って釣ってしまった、イワナはキャッチアンドリリースです。写真に撮って我慢しましょう。この考えに賛同してくれた人に遊魚券を出すというのは良いのではないのでしょうか。
ブラックバスの問題ですが、岩手も県北地域まで上昇しています。バス釣りファンの人には申し訳ないのですが、ちょっとこのままでは危ない気がします。とりあえずブラックバスのムニエルはおいしいです。
放射能問題を忘れていた。とはいえもうちょっと少ない方が、バス釣りが楽しくなるんじゃないのかとも思いますが。バンバンつれるのが楽しいのはよくわかりますが。
このプランは、釣具店まで含めた所をカバー出来ると思います。

7月12日追記
内水面漁業者に対しては、採取しては行けない川と魚種が決まったのですが、遊魚券での釣り愛好家たちには、とってもいいけど出来るだけ食べないで、という緩い感じです。
詳しくは岩手県内水面漁協のサイトまで。情報がまとまっています。
http://www18.ocn.ne.jp/~itnaisui/