鶴岡地区医師会だより

三原一郎目線で鶴岡地区医師会の活動を配信しています。

No.154 (鶴岡市医療と介護の連携研修会)

2013-08-09 11:42:42 | 日記


昨日、鶴岡市医療と介護の連携研修会が行われました。

この会は、医療と介護の顔のみえるネットワークづくりを目指して、鶴岡市地域
包括支援センターが主催し、始まったものですが、現在では、南庄内緩和ケア推
進協議会、鶴岡地区医師会医療連携室ほたる、庄内地域医療連携の会などが一緒
に企画、運営しているもので、年2回開催されています。参加職種は、医師、看
護師、薬剤師、ケアマネなど介護系職種、栄養士、MSW、事務職など多岐にわ
たります。

年々参加者が増えており、昨晩の会には188名の参加がありました。

毎回、アドバイザーとして山形県立保健医療大学准教授の後藤順子先生をお呼び
し、会の進行やまとめ役をお願いしています。

さて、今回は精神疾患(発達障害、統合失調症)を抱えたA氏(40代)が終末
期の肺がんの告知を受け、治療を行いながら本人が望む在宅療養を地域の連携で
支え、在宅で看取った事例について、グループで話し合いをしました。

<事例>
患者は母親との二人暮らし。母親にも発達障害がある。患者は母親に暴力行為を
繰り返すが、共依存の関係にある。患者は自分の欲求をコントロールできず、労
働能力もない。生活保護下にあるが、金銭管理ができない。電話、たばこ、薬な
どへの執着が強い。T病院への入退院を繰り返している。

H23年10月、K病院で末期肺がんの告知。抗がん剤治療後、H24年1月から在宅療
養へ。K病院へ通院しながら治療を継続。H25年に入り、腫瘍増大、病態悪化。
母親の介護の限界。3/16-4/15までK病院入院。4月23日、鶴岡公園へ花見へ。お
かゆも食べずらい状況だったのに、屋台のチョコバナナを1本全部食べた!これ
が最後の外出となった。

<患者・家族を支えたプレイヤー>
K病院医師(肺がん治療と緩和ケア)、病棟看護師、クリニック看護師、相談室
スタッフ、T病院精神科医師、訪問看護師、通所介護スタッフ、訪問看護スタッ
フ、障害者支援専門員、社会福祉協議会、福祉科生活福祉係、きずな看護師

これら多職種で、担当者会議を繰り返し、患者を支えた。

患者は、治療に対してもこだわりが強く、周囲は振り回され、かなり疲弊したが、
患者の生きる気力にも励まされ、在宅看取りまで行うことができた。一体感のあ
る支援ができたと考えている、というまさに多職種の連携で支えた事例でした。

患者さんも母親も、さぞかし幸せだったのではないかと感じました。


三原先生 鈴木伸男です。

事例報告を読ませていただきました。

発達障害、綜合失調症、末期肺がんと悪条件の重なった症例で、
私の現役時代ならば、初めからあきらめていたところでしたが、
このたびの多職種連携での前向きで真摯な対応に深い感銘を
受け、併せて連携チームの皆様に深甚なる敬意を表します。

「患者さんも母親もさぞかし幸せだったのではないでしょうか」
という三原先生のコメントを読んで、医療の原点についての
認識を新たにしました。
昨夜の会の参加者が188名という多さにびっくりするとともに、
当地区の医療・福祉・介護の絆についても誇らしく思いました。

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No.153 (一緒に学ぼう 社会保障のABC:第12回)

2013-08-09 11:42:03 | 日記
先日の社会保障制度改革国民会議の最終報告では、国民健康保険の都道府県移管
が提言されましたが、今回は戦後の国民健康保険法の歴史を学びます。

そもそも国民健康保険をなぜ市町村が運営することになったのか、国保の業務は
市町村行政と関係が深いので、というのがその理由のようです。しかし、市町村
に委ねたものの保険財政は危機的な状況となり、保険税としたり、国の税を投入
することでことでなんとかやってきたというのが歴史のようです。

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国民皆保険・皆年金(11)戦後の国民健康保険法
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 太平洋戦争(1941年~1945年)の敗戦を受け、被用者(雇われて働い
ている人)を対象とした健康保険制度も、被用者以外の農民などを対象とした国
民健康保険(国保)制度も、壊滅的な打撃を受けました。しかし、終戦直後に起
きた急激なインフレなどに悩まされながらも、制度の立て直しが図られていきま
した。今回は、戦後の国民健康保険法について見ていきたいと思います。

■原則市町村が運営

 国保再建のために行われたのが、1948年(昭和23年)の法改正です。国
保の運営は、それまで国保組合が行っていましたが、改正により、原則として市
町村が担うことが決まりました(「市町村公営化の原則」と呼ばれます)。国保
の業務は市町村行政と関係が深いので、市町村に任せた方がよいと考えられたこ
となどがその理由です。運営するかどうかは市町村の判断に任されましたが、そ
の市町村が実施した場合、住民は原則として強制的に加入することになりました。

 運営を行う市町村が増えるにつれ、各地に医療施設が設立され、受診率は向上
しました。一方、保険料の上昇は農家の家計などを圧迫したため、保険料の収納
率はなかなか上がりませんでした。そのため、保険財政は危機的な状況になって
いきました。

■「国民健康保険税」の創設

 そこで、保険料の収納率を上げるために、1951年(昭和26年)に地方税
法が改正され、「国民健康保険税(国保税)」が創設されました。市町村は、従
来ある「国民健康保険料」に代わって、国保税を導入してもよいとされたのです。

 あれっ、保険料で行う制度(社会保険方式)と、税金で行う制度(税方式)は
違うのではなかったっけ? 社会保険方式では、保険料を負担することが給付の
条件となるのに対し、税方式はそうした関係性はなく、両者の負担と給付の関係
性は異なるのではなかったっけ? と思われた方もいると思います。国保税は、
確かに税金ではありますが、使い道を限定した目的税の一種とされたため、実質
的には、保険料とほぼ変わりません。

 なぜ国保税を創設したのかといえば、当時の国民感情として、保険料に比べて
税金の方が、納付義務意識が強いと考えられたからです。税金にすれば徴収率が
上がり、ひいては保険財政もよくなることを期待して、市町村が導入を求めたの
です。制度創設に携わった厚生省(当時)の担当者は、国保税といっても実質的
には保険料と変わらず、市町村からの要望を受けた一時的な措置のため、10年
ぐらいたったら保険料の本来の姿に戻したいと考えていたようです。ですが、実
際にはこの措置はなくならず、現在でも「国保税」として費用を徴収している市
町村は9割以上に上っています。ただし、大都市部では保険料を採用していると
ころが多いので、加入者数で見ると5割近くが保険料となっています。

■税金を投入

 国保税が導入されて、保険料収納率はアップしても、残念なことに、財政問題
を解決するまでには至りませんでした。国保が普及すればするほど、受診率は向
上したからです。その結果、多くの市町村が赤字を抱えることとなりました。

 保険財政の苦しさを救うために税金を投入せよという声が強まり、これを受け
て、事務費だけでなく、医療サービスの提供にかかった費用に対して国の税金を
投入すること(医療給付費の2割相当分)が、1955年(昭和30年)に法律
で定められました。

 国の税金が入ることによって、国保の財政状況は次第に改善していきました。
国保の運営者を原則市町村としたことと、国の税金の投入を認めたことは、国保
再建への大きなきっかけになったといわれています。次回も引き続き、国民健康
保険制度について見ていきたいと思います。

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