配信をさぼっていましたm(_ _)m
今回は、新しい国民健康保険法制定までの経緯を解説しています。
当時の社会保障制度審議会は「国民の医療の機会不均等は寒心に堪えない」と表
現、国民健康保険の運営を市町村に義務付け、被用者保険に未加入住民を国民健
康保険に強制加入させることで、国民皆保険制度が実現されました。日本の皆保
険制度は健康保険を中軸とする被用者保険と、国民健康保険を中心とする地域保
険の2本立ての形で皆保険体制が実現していったのですね。
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国民皆保険・皆年金(12)国民皆保険の達成
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保険財政の苦しさを救うために税金が投入されたことなどから、国民健康保険
は戦後、急速に普及していきました。それでも、健康保険などの被用者保険にも、
国民健康保険にも加入していない国民(被用者保険の適用されない零細企業に勤
める会社員や、国民健康保険を実施していない市町村に住む農民、自営業者など)
は、1956年(昭和31年)当時の推計で約2800万人、総人口(約900
0万人)の3分の1に上りました。
当時は、政治的にも、経済的にも、大きな変化があった時代です。
政治においては、1955年(昭和30年)に社会党の左右両派が統一された
一方、保守合同で自民党が誕生し、いわゆる「55年体制」が始まりました。自
民党が代表する保守と、社会党が代表する革新が対立し、社会保障分野でも政策
が競われました。経済においては、急速な復興を遂げ、1956年(昭和31年)
の「経済白書」に書かれた「もはや『戦後』ではない』という言葉が流行語にな
りました。日本は高度経済成長期に入ったのです。
■医療の格差が問題に
ただし、急速な復興の影で、病気による貧困も大きな社会問題となっていまし
た。被用者保険にも国民健康保険にも加入していない人のうち、1000万人近
い低所得者は、一度重い病気にかかると生活保護の世話になるしか道がありませ
んでした。また、国民健康保険を実施している市町村とそうでない市町村の住民
の間の「医療格差」が広がってくると、それを問題視する世論も広がっていきま
した。
1956年1月に、鳩山一郎首相は施政方針演説の中で、「全国民を包含する
総合的な医療保障を達成することを目標に計画を進める」という国民皆保険構想
を、政府の方針として明らかにしました。続く石橋内閣は、社会保障の充実を掲
げ、国民皆保険の実現を閣議決定しました。これを具体化するために、厚生省
(当時)の中に国民皆保険推進本部が置かれ、国民健康保険法の全面改正に向け
た検討がなされました。
■医療の機会均等
当時、政府に設置された様々な委員会や審議会で医療に関する提言や勧告が行
われましたが、いずれも、医療保険の未適用者の存在を問題にし、医療の機会均
等を図ることが大きな課題に掲げられました。内閣総理大臣の諮問機関として設
置された社会保障制度審議会は、1956年11月に行った「医療保障制度に関
する勧告」で、「国民の医療の機会不均等は寒心に堪えない」と表現しています。
国民皆保険実現に向けて、「健康保険を中軸とする被用者保険と、国民健康保険
を中心とする地域保険の2本立てで、国民皆保険体制への道を切り開いていく」
と述べています。
■新国保法の中身
新しい国民健康保険法は、1958年(昭和33年)末に成立し、翌1959
年に施行されました。
1938年(昭和13年)に出来た国民健康保険法と大きく違う点は、国民皆
保険を達成するために、それまで任意だった国民健康保険の運営を、市町村に義
務付けたことです。被用者保険に加入していない住民は、国民健康保険に強制加
入することとされました。また、健康保険に比べて劣っていた医療給付の内容も、
同一の水準にすることが定められました。この法律で、市町村は、1961年
(昭和36年)4月までに、国民健康保険の事業を実施しなければならない、と
されたのです。
「国民皆保険」の形には、単一の制度に国民全員が加入して医療を保障する形
もありますが、日本では、まず、被用者保険に入るかどうかが職業などで分かれ、
被用者保険に加入しなかった人は、すべて国民健康保険に加入するという「2本
立て」の形で皆保険体制が実現していったのです。
今回は、新しい国民健康保険法制定までの経緯を解説しています。
当時の社会保障制度審議会は「国民の医療の機会不均等は寒心に堪えない」と表
現、国民健康保険の運営を市町村に義務付け、被用者保険に未加入住民を国民健
康保険に強制加入させることで、国民皆保険制度が実現されました。日本の皆保
険制度は健康保険を中軸とする被用者保険と、国民健康保険を中心とする地域保
険の2本立ての形で皆保険体制が実現していったのですね。
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国民皆保険・皆年金(12)国民皆保険の達成
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保険財政の苦しさを救うために税金が投入されたことなどから、国民健康保険
は戦後、急速に普及していきました。それでも、健康保険などの被用者保険にも、
国民健康保険にも加入していない国民(被用者保険の適用されない零細企業に勤
める会社員や、国民健康保険を実施していない市町村に住む農民、自営業者など)
は、1956年(昭和31年)当時の推計で約2800万人、総人口(約900
0万人)の3分の1に上りました。
当時は、政治的にも、経済的にも、大きな変化があった時代です。
政治においては、1955年(昭和30年)に社会党の左右両派が統一された
一方、保守合同で自民党が誕生し、いわゆる「55年体制」が始まりました。自
民党が代表する保守と、社会党が代表する革新が対立し、社会保障分野でも政策
が競われました。経済においては、急速な復興を遂げ、1956年(昭和31年)
の「経済白書」に書かれた「もはや『戦後』ではない』という言葉が流行語にな
りました。日本は高度経済成長期に入ったのです。
■医療の格差が問題に
ただし、急速な復興の影で、病気による貧困も大きな社会問題となっていまし
た。被用者保険にも国民健康保険にも加入していない人のうち、1000万人近
い低所得者は、一度重い病気にかかると生活保護の世話になるしか道がありませ
んでした。また、国民健康保険を実施している市町村とそうでない市町村の住民
の間の「医療格差」が広がってくると、それを問題視する世論も広がっていきま
した。
1956年1月に、鳩山一郎首相は施政方針演説の中で、「全国民を包含する
総合的な医療保障を達成することを目標に計画を進める」という国民皆保険構想
を、政府の方針として明らかにしました。続く石橋内閣は、社会保障の充実を掲
げ、国民皆保険の実現を閣議決定しました。これを具体化するために、厚生省
(当時)の中に国民皆保険推進本部が置かれ、国民健康保険法の全面改正に向け
た検討がなされました。
■医療の機会均等
当時、政府に設置された様々な委員会や審議会で医療に関する提言や勧告が行
われましたが、いずれも、医療保険の未適用者の存在を問題にし、医療の機会均
等を図ることが大きな課題に掲げられました。内閣総理大臣の諮問機関として設
置された社会保障制度審議会は、1956年11月に行った「医療保障制度に関
する勧告」で、「国民の医療の機会不均等は寒心に堪えない」と表現しています。
国民皆保険実現に向けて、「健康保険を中軸とする被用者保険と、国民健康保険
を中心とする地域保険の2本立てで、国民皆保険体制への道を切り開いていく」
と述べています。
■新国保法の中身
新しい国民健康保険法は、1958年(昭和33年)末に成立し、翌1959
年に施行されました。
1938年(昭和13年)に出来た国民健康保険法と大きく違う点は、国民皆
保険を達成するために、それまで任意だった国民健康保険の運営を、市町村に義
務付けたことです。被用者保険に加入していない住民は、国民健康保険に強制加
入することとされました。また、健康保険に比べて劣っていた医療給付の内容も、
同一の水準にすることが定められました。この法律で、市町村は、1961年
(昭和36年)4月までに、国民健康保険の事業を実施しなければならない、と
されたのです。
「国民皆保険」の形には、単一の制度に国民全員が加入して医療を保障する形
もありますが、日本では、まず、被用者保険に入るかどうかが職業などで分かれ、
被用者保険に加入しなかった人は、すべて国民健康保険に加入するという「2本
立て」の形で皆保険体制が実現していったのです。