鶴岡地区医師会だより

三原一郎目線で鶴岡地区医師会の活動を配信しています。

No.153 (一緒に学ぼう 社会保障のABC:第12回)

2013-08-09 11:42:03 | 日記
先日の社会保障制度改革国民会議の最終報告では、国民健康保険の都道府県移管
が提言されましたが、今回は戦後の国民健康保険法の歴史を学びます。

そもそも国民健康保険をなぜ市町村が運営することになったのか、国保の業務は
市町村行政と関係が深いので、というのがその理由のようです。しかし、市町村
に委ねたものの保険財政は危機的な状況となり、保険税としたり、国の税を投入
することでことでなんとかやってきたというのが歴史のようです。

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国民皆保険・皆年金(11)戦後の国民健康保険法
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 太平洋戦争(1941年~1945年)の敗戦を受け、被用者(雇われて働い
ている人)を対象とした健康保険制度も、被用者以外の農民などを対象とした国
民健康保険(国保)制度も、壊滅的な打撃を受けました。しかし、終戦直後に起
きた急激なインフレなどに悩まされながらも、制度の立て直しが図られていきま
した。今回は、戦後の国民健康保険法について見ていきたいと思います。

■原則市町村が運営

 国保再建のために行われたのが、1948年(昭和23年)の法改正です。国
保の運営は、それまで国保組合が行っていましたが、改正により、原則として市
町村が担うことが決まりました(「市町村公営化の原則」と呼ばれます)。国保
の業務は市町村行政と関係が深いので、市町村に任せた方がよいと考えられたこ
となどがその理由です。運営するかどうかは市町村の判断に任されましたが、そ
の市町村が実施した場合、住民は原則として強制的に加入することになりました。

 運営を行う市町村が増えるにつれ、各地に医療施設が設立され、受診率は向上
しました。一方、保険料の上昇は農家の家計などを圧迫したため、保険料の収納
率はなかなか上がりませんでした。そのため、保険財政は危機的な状況になって
いきました。

■「国民健康保険税」の創設

 そこで、保険料の収納率を上げるために、1951年(昭和26年)に地方税
法が改正され、「国民健康保険税(国保税)」が創設されました。市町村は、従
来ある「国民健康保険料」に代わって、国保税を導入してもよいとされたのです。

 あれっ、保険料で行う制度(社会保険方式)と、税金で行う制度(税方式)は
違うのではなかったっけ? 社会保険方式では、保険料を負担することが給付の
条件となるのに対し、税方式はそうした関係性はなく、両者の負担と給付の関係
性は異なるのではなかったっけ? と思われた方もいると思います。国保税は、
確かに税金ではありますが、使い道を限定した目的税の一種とされたため、実質
的には、保険料とほぼ変わりません。

 なぜ国保税を創設したのかといえば、当時の国民感情として、保険料に比べて
税金の方が、納付義務意識が強いと考えられたからです。税金にすれば徴収率が
上がり、ひいては保険財政もよくなることを期待して、市町村が導入を求めたの
です。制度創設に携わった厚生省(当時)の担当者は、国保税といっても実質的
には保険料と変わらず、市町村からの要望を受けた一時的な措置のため、10年
ぐらいたったら保険料の本来の姿に戻したいと考えていたようです。ですが、実
際にはこの措置はなくならず、現在でも「国保税」として費用を徴収している市
町村は9割以上に上っています。ただし、大都市部では保険料を採用していると
ころが多いので、加入者数で見ると5割近くが保険料となっています。

■税金を投入

 国保税が導入されて、保険料収納率はアップしても、残念なことに、財政問題
を解決するまでには至りませんでした。国保が普及すればするほど、受診率は向
上したからです。その結果、多くの市町村が赤字を抱えることとなりました。

 保険財政の苦しさを救うために税金を投入せよという声が強まり、これを受け
て、事務費だけでなく、医療サービスの提供にかかった費用に対して国の税金を
投入すること(医療給付費の2割相当分)が、1955年(昭和30年)に法律
で定められました。

 国の税金が入ることによって、国保の財政状況は次第に改善していきました。
国保の運営者を原則市町村としたことと、国の税金の投入を認めたことは、国保
再建への大きなきっかけになったといわれています。次回も引き続き、国民健康
保険制度について見ていきたいと思います。

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No.152 (納涼ビアパーティ)

2013-08-05 12:29:19 | 日記


8月2日は、鶴岡地区医師会恒例の納涼ビアパーティーでした。

この納涼ビアパーティは医師会員と全職員を対象とした、医師会最大のイベント
です。今回は、360人ほどの参加だと聞いています。

冷たいビールに、美味しい料理を食べながら、新人職員のパフォーマンスや抽選
会、恒例となった全員合唱などを皆で楽しみました。

以下のスナップは、ほたるの小野寺さんに撮ってもらいました。

https://plus.google.com/photos/101791822828330277284/albums/5908459226971154577

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No.151 (医療と介護の連携研修会案内)

2013-08-05 11:17:01 | 日記
医療と介護の連携研修会の案内です。この会は、元々は、病院(医療)との地
域(介護)の連携を深めるために鶴岡市の長寿介護課が主催して始めた研修会です。

年々規模が拡大し、今年は180名を超える出席があるようです。内容は、講演を
聴くという座学形式ではなく、グル―ワークやロールプレイなどを多用し、多職
種間のディスカッションを通して、地域の医療・介護の課題を学ぶ機会となってお
り、当地区の多職種連携の進展に大きな役割を果たしてきた会でもあります。

医師の参加が少ないのが残念なところです。多くの会員の参加を期待したいと思
います。

以下、鶴岡市長寿介護課 地域包括支援センター 叶野 真弓さんからの案内を
転記します。

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 みなさまへ

 8月8日(木)午後6時30分~8時30分
 出羽庄内国際村ホールを会場に
 平成25年度第1回鶴岡市医療と介護連携研修会を開催します。

 テーマは「地域の中で連携を語る」
   ~ 多職種連携 医療・介護の役割理解と連携づくり ~
 講師は、いつもの山形県立保健医療大学 准教授 後藤順子先生
 事例提供者は、訪問看護ステーションきずな 菊池 千香 さんと
 鶴岡市障害者相談支援センター 後藤 美緒子 さんです。
 
 精神障害がある親子を地域連携で支えた事例の報告を受けながら
 その人の望む生活を最期まで支えきるためには
 かかわる各職種がそれぞれの役割を担いつつ
 連絡連携していくことが求められます。
 そのあたりを一緒に話し合いながら考えたいと思っております。

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No.150 (一緒に学ぼう 社会保障のABC:第11回)

2013-08-01 17:39:03 | 日記
8月になるのに、いまだうっとうしい雨が続いています。
異常気象ですね。

さて、社会保障のABC、開会の国民健康保険法の歴史です。

現在の国民健康保険法の基盤は、農山漁村のひどい生活を改善したいという理念
というより、当時の健兵健民政策のおかげで急速に普及したのは皮肉ではありま
すね。

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国民皆保険・皆年金(10)戦前の国民健康保険法
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 前回見たように、農民などを対象とした国民健康保険法は、1938年(昭和
13年)に施行されました。

 病気になっても医者にかかれないような農山漁村のひどい生活実態を改善し、
都市部だけでなく全国に医療を普及させたい――これが、法律が作られたそもそ
もの目的でしたが、施行前年には日中戦争が勃発し、国力増強に向けて国民の体
力を向上させるという役割も担うようになりました。

■「健兵健民政策」

 そのあたりのことは、「国民健康保険二十年史」という1958年(昭和33
年)に刊行された本を見るとよくわかります。国民健康保険制度発足20周年を
記念して、35人の関係者が文章を寄せているのですが、1944年(昭和19
年)に厚生省(当時)保険局長となった伊藤謹二さんの「国民健康保険の思い出」
という寄稿の中に、こんな記述があります(読みやすいように少し言葉遣いを変
えてあります)。

 「法律制定当時の国保(国民健康保険)の主眼点は、農山漁村民の防貧な
いし生活の安定だった。その旗印が時局の激化と共に完全に改められ、大東亜共
栄圏を建設しようとする大理想達成の強力な手段となった。つまり、当時謳(う
た)われた人口増加策や健兵健民政策の担い手としての使命を課せられたのであっ
た。国民皆兵という言葉に対応させる意味からだろう、国民皆保険という標語も
生まれていた」

 当時、戦争のための最も重要な国策が、「健兵健民政策」でした。人口を増や
し、健康な国民や兵隊を育成するといった意味です。この政策を推進するために、
厚生省は、「国保なくして健民なし」と謳い、国民健康保険制度の一層の普及に
力を入れたのです。

■組合の強制設立

 普及拡充に向けた具体策の一つが、1942年(昭和17年)に行われた国民
健康保険法の改正です。国民健康保険組合の設立は、それまでは任意でしたが、
地方長官が必要だと認めた場合は、強制的に設立しなければならなくなりました。
また、組合が強制的に設立された場合は、組合員として資格のある人はすべて加
入しなければならなくなりました。

 当時の厚生大臣だった小泉親彦・陸軍軍医中将は、1942年度から3か年度
内に全市町村に国民健康保険組合を設立することや、国民健康保険を中心とした
“国民皆保険”施策を強力に実行することを打ち出しました。

 こうした方針のもと、国民健康保険の一大普及計画が行われ、1943年度
(昭和18年度)末には、市町村の約95%で国民健康保険組合が設立されまし
た。政府は国民健康保険法を作った当初、1947年(昭和22年)までの10
年間に、約6000組合、約2500万人を加入させる目標をたてていましたが、
1944年(昭和19年)には、組合数は1万を超え、加入者数も4000万人
を超える普及ぶりでした。

 一方、勤め人やその家族を対象とした健康保険制度も、1943年(昭和18
年)頃には、適用事業所数は16万、加入者数も800万人を超え、急速な勢い
で増えていました。

■制度が立ちゆかなくなる

 しかし、太平洋戦争(1941年~1945年)が進むにつれて、国民健康保
険制度も、健康保険制度も立ちゆかなくなりました。戦地に人がとられ、空襲、
疎開などによって医療機関は閉鎖され、医薬品もなくなっていきました。健兵健
民政策を推進するために、国民健康保険制度と健康保険制度の両方を普及・拡充
させ、国民みんなに医療を行き渡らせようという、戦前の“国民皆保険”構想は、
うまくいかなかったのです。

 なお、「国民健康保険二十年史」には、「国民健康保険史上から見れば、19
42年度からの3か年運動を『第一次国民皆保険』ということができる」と書か
れています。このコラムの最初の頃にご紹介したように、日本の国民皆保険体制
は、戦後の1961年(昭和36年)に実現しました。国民みんなに医療を保障
するという点では同じでも、戦前、小泉厚生大臣が目指した国民皆保険は、健兵
健民政策の思想に基づいていたこと、給付内容は健康保険に比べて見劣りするも
のが大半だったこと、一夜漬けで作られた組合もあったこと、診療よりも、保健
婦による保健活動が事業の中心だったことなどを考えると、現在ある皆保険制度
と同列に論じることはできません。ただし、戦前に誕生した国民健康保険法や、
その普及の実績が、現在ある国民皆保険制度の下敷きとなり、その実現を容易に
したとはいえそうです。

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