坂東武者たちは、関東の地を開拓し水田化してきた自営農民の群れなのである。かれらの土地所有権は、律令体制という法のもとにあっては、じつに不安定でいつとりあげられても泣き寝入りをせざるをえないという、国法上もろくてかぼそい立場にあった。
かれらは「源氏」という象徴的な名称のもとに結集し、力をあわせて国法擁護のバケモノと化している平家を倒したのである。さらに言いかえれば後世の日本人は精神や意識、もしくは文化の上からみて鎌倉の新体制の末裔であって、それ以前の律令体制の子孫ではない。
頼朝は、そのような自分の歴史的役割をよく認識していた。
かれの軍は地元の開拓農場主たちの兵の連合によるものだった。その成功の果実のほとんどは出兵した北条氏以下の諸豪族に帰されるべきもので、頼朝のとりぶんは栄誉と栄職だけしかない。
が、義経は頼朝の立場を理解せず、勃興しつつある歴史的大状況についても、およそ把握するところがなかったように思える。義経は、頼朝の「王朝」の一員であると思っていた。が、現実には頼朝は個人としてしか存在せず「王朝」の実質は、かれをかついだ代表である北條氏であることを頼朝は痛いほど知っていた。
義経は頼朝の「代官」として出征した。つぎつぎに大功をたて、京に凱旋した。
ただ弱者である義経は、無思慮だった。頼朝と義経のあいだを裂こうとした後白河法皇によって、頼朝の介在せぬ官職を受けるのである。革命軍の野戦司令官が、古い律令体制から官職によって取り込まれるようでは、鎌倉幕府に対する決定的な裏切りになる。しかし、義経はそれが裏切りとはつゆ思わなかった。以後、義経の転落がはじまっていく。
日本史上、義経が際立っているのは、あざやかな戦勝の連続によって無名人が一朝にしてスターになったことである。その後も、義経ほどのあざやかさはない。義経は軍事天才というたった一つの才能をもったために有名になり、それがために劇的すぎるほどの生涯を送った。才能というものはその人をかならずしも幸運にするものではない。しかし社会にとっては幸運の要素になりうる。仮に、義経のいない日本史を想像すると、色あせてみえるではないか。
/「花ぐるま義経記について」パンフレット 司馬遼太郎1986.5.14より要約
かれらは「源氏」という象徴的な名称のもとに結集し、力をあわせて国法擁護のバケモノと化している平家を倒したのである。さらに言いかえれば後世の日本人は精神や意識、もしくは文化の上からみて鎌倉の新体制の末裔であって、それ以前の律令体制の子孫ではない。
頼朝は、そのような自分の歴史的役割をよく認識していた。
かれの軍は地元の開拓農場主たちの兵の連合によるものだった。その成功の果実のほとんどは出兵した北条氏以下の諸豪族に帰されるべきもので、頼朝のとりぶんは栄誉と栄職だけしかない。
が、義経は頼朝の立場を理解せず、勃興しつつある歴史的大状況についても、およそ把握するところがなかったように思える。義経は、頼朝の「王朝」の一員であると思っていた。が、現実には頼朝は個人としてしか存在せず「王朝」の実質は、かれをかついだ代表である北條氏であることを頼朝は痛いほど知っていた。
義経は頼朝の「代官」として出征した。つぎつぎに大功をたて、京に凱旋した。
ただ弱者である義経は、無思慮だった。頼朝と義経のあいだを裂こうとした後白河法皇によって、頼朝の介在せぬ官職を受けるのである。革命軍の野戦司令官が、古い律令体制から官職によって取り込まれるようでは、鎌倉幕府に対する決定的な裏切りになる。しかし、義経はそれが裏切りとはつゆ思わなかった。以後、義経の転落がはじまっていく。
日本史上、義経が際立っているのは、あざやかな戦勝の連続によって無名人が一朝にしてスターになったことである。その後も、義経ほどのあざやかさはない。義経は軍事天才というたった一つの才能をもったために有名になり、それがために劇的すぎるほどの生涯を送った。才能というものはその人をかならずしも幸運にするものではない。しかし社会にとっては幸運の要素になりうる。仮に、義経のいない日本史を想像すると、色あせてみえるではないか。
/「花ぐるま義経記について」パンフレット 司馬遼太郎1986.5.14より要約
どちらにしても欲しいものは手に入れる努力をするでしょう。名誉欲も同じです、それを手に入れるために多くの民が戦い、殺戮を繰り返して来ました。そして現在も、国際的にも自国の置かれた立場を理解できずに「核実験」を振りかざして、その強さを誇張しています。核より食が先と誰か教えてくれないのでしょうか。義経伝説は日本のいたるところにあります、奥州平泉に落ち着くのは皆同じですが、その後モンゴルに渡り「チンギスハーン(ジンギスカン)」になったなど、もっともらしい話もあります。
中央アジアにまで出兵したモンゴルも、食料の問題で敗退、隣の済州島までその手にあったというから、その戦力の勢いが覗える。
背に腹は変えられないのが本音でしょうか。
感心して、面白がって読ませていただきました。職場で、話していて、戦国時代は疑心暗鬼で大変だよね。と、いっていたら、「現代だって、食うか食われるかで大変だよ」と、精神科に努める看護師たちはシビアなことを言ってました。その意味は、相手のことを絶対的に信じることができないと不安だから、徹底的に試す行動をとってしまう、若者たちのことを指しています。多かれ少なかれあると思うのですが、極端なんです。
また、お邪魔しますね。
こんにちは、はとりと申します。
こちらからもトラックバックさせて頂きました。(記事が古くて申し訳ないです;;)
卒論で義経を取り上げようかなと思っているので(ちょっと挫折してますが;)、勉強になりました!!
私はまだフサフサです!(まだって・・・/笑)大丈夫です!
義経は、容姿はかっこいいとは言えないけれど、巧みな話術で十数人の女性を口説いてたのかな、と思っていたのですが、先週読んだ本には「背が低くて~は平家側が義経を悪く言ったのかもしれない。母の常盤御前が美人だったので義経も美男子だった可能性がある」とありました。これを知ってちょっと安心しました(笑)
静御前好きです!!
義経の容姿について長々と失礼致しました
ついでに先ほどTBの仕方を拝見しました。
この人のこのページを参照にしてるよ!って自分の方には出ないんですよね???
それはリンクをかければ良いのか‥。
義経と頼朝、難しい兄弟関係ですよね。