大ヒット“ALWAYS”シリーズの第3弾『ALWAYS三丁目の夕日’64』。
あいにく「2D」の方が早目に放映なので3Dをあきらめた。全作観たが、こんかいが一番涙腺がゆるんだ。
あのころのオリンピックのときは、試験のため後半からテレビ観戦した。前半は殊勝にも勉強していたようだ。まだカラーは一般的ではなく、我が家は白黒テレビで観ていた。
東京オリンピックは、市川崑監督がオリンピックは筋書きのない . . . 本文を読む
ミステリーシリーズ
3本手のホイットニーヒューストン
ショック 右手と 左手が2本
11日にヒューストンさん急死。死因や死亡した時の状況などは明らかになっていない。48歳。
10年で76億円遣い切り、一文無しになっていたとか・・・。パワフルな「ボディガード」が強烈だった。
*きょ . . . 本文を読む
ボートを碇泊させた境川。橋のない時代は、江ノ島まで干潮時に砂浜を渡ったのをうかがわせるように波が左右から寄せあっていた。
辺津宮の茅の輪→
ヨットハーバー
江ノ島の南崖
南には、輝く海上に大島が浮かぶ。
江ノ島大橋より
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東京から富士山が見えたとテレビで中継したのを見て、ならば江ノ島からも見える筈だと思いでかけてみた。
予想通り、真っ青な碧空に真っ白な雪を頂いた富士山が、ご覧のように大きく見えた。
寄せる波が岸に砕け散り、飽きることもなくしばらく眺めては、この絶景の前で岩に腰かけて読書をたのしむ。
葛飾北斎の富嶽三十六景神奈川沖浪裏
カヌーや釣り船が、目の前を . . . 本文を読む
利賀そば祭は、2月10日(金曜日)から12日(日曜日)まで開かれる。
豪雪の利賀で、巨きな雪像やかまくらが作られ無邪気にたのしめた。
利賀へは庄川から行ったところ、急峻な峡谷の狭い雪道を車で登るには、道の片脇は深い谷になっており、しかも渋滞してののろのろ運転は怖かった。
帰りの下り坂が滑りそうなので、八尾に抜ける道があるというので使ったら、深い雪道は片側通行で交互に譲り合うのは、2度ほ . . . 本文を読む
宝鏡寺ほうきょうじは、百々御所どどのごしょという御所号をもっている臨済宗単立の尼門跡寺院で人形寺として有名。
「人形寺にんぎょうでら」といわれるのは、代々内親王が入寺し、父君である天皇から季節やことあるごとに人形が贈られてきたことに由来する。多くの人形が所蔵されている。
秋に人形供養祭が営まれることから、タイトルの人形塚が境内に建立された。ひな祭り前だったので、雛壇が飾られており、女性がたく . . . 本文を読む
上御霊神社かみごりょうじんじゃの境内に「応仁の乱勃発地」の碑がある。
細川勝元を頭とする東軍の陣地を置いた「東陣」中心跡だ。範囲は、堀川通から東、一条通から北と、西陣と比べて非常に狭かった。
東軍は足利幕府の正規軍という位置づけで、後土御門天皇と後花園上皇の二人が東陣にいた。
応仁の乱は11年も続き、大規模な争いの中で京都の町は焦土と化し、東陣側細川氏と西陣側山名氏が和睦した形で終わった。
「 . . . 本文を読む
真っ逆さま
雪の金閣寺アップを契機にはじめた京都シリーズはいかがでしょう哉。
西陣を皮切りにしたため、位置的に晴明神社が近く、節分の日にアップしたら陰陽道上特別な日といい、しかも訴訟問題でニュースになりタイムリーな滑り出しになった。
西陣界隈のアップを構想したのも、そもそもこの界隈を歩いたのが、大阪時代の仕事の関係でご縁があったから。また、季節も丁度17年前の平成7年2月のことで、つまり季節は . . . 本文を読む
先日、日本から鎌倉と富士山を世界遺産に推薦することが決まった。そんなおり、縄文遺跡群世界遺産登録推進フォーラムを聴いてきた。
縄文遺跡群は、農耕・牧畜の新石器時代の遺跡とは異なり、温暖湿潤な気候の自然環境の中で約10,000年もの長期間にわたって日本列島に継続した狩猟・漁撈・採集を主たる生業とする、定住の生活実態を表す独特の考古学的遺跡群として、世界遺産の登録を目指すというもの。
特に、土器に突起 . . . 本文を読む
晴明神社は、西陣織会館から南に歩いて直ぐに位置し、傍に一条戻橋が架かっている。
その昔の境内は、陰陽師・阿倍晴明おんみょうじ・あべのせいめいが脚光を浴びる前だったので、閑散としてひなびた雰囲気だった。そのときは、家紋の五芒星がユダヤ星の六芒星に似ているのを、それぞれ何事かありそうな不気味さが伴うので漠然と関連でもあるのかと思った。
五芒星 六芒星
平安時代の天文陰陽博士の阿倍晴明 . . . 本文を読む
西陣織会館は、堀川通り今出川に位置する。
タイトルの写真は、会館内「きものショー」の一幕で、次は偶然にロビーで舞妓が舞うイベントに遭遇して撮れた。
館内では、織りの道具類も展示していて、西陣織の歴史にふれられる。
「西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたことが由来。しかし、住所としては存在せず、この界隈を歩くと機織りの音が . . . 本文を読む