東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

羽子板市 2019

2019-12-17 15:12:09 | 日々

 この数日、心配な腫れのほうは結果として小康状態ですが、ヘルニア由来の右脛から人差し指にかけての痛みがひどく直立できない場面があったりします。今日は整形外科のDr.の予約日。雨降っていますが、歩きと電車バスでの通院は試練のレベル。ポンチョで自転車での通院ならぱ、羽子板市の初日でもあり、浅草まで出かけ、お世話になっている吉徳さんの露店にお邪魔させてもらってから、病院にまわって帰宅。自転車を漕いで痛みが和らぐという期待もありました。赤羽を出たときは雨足弱かったですが、ポンチョで重装備でしたが、豊島、堀船、小台、宮の前、赤土小、宮地辺りまで進んだころ止んでいました。東日暮里、根岸、金杉、千束から国際通りに入って観音様に到着。

 早速お世話になっている「吉徳」さんの露店へごあいさつに。あいにくの雨ですが、朝から招き猫や干支のねずみのために待ってくださるお客様がみえたとのこと。ありがたいです。「大黒天ねずみ」はすでに売り切れ。ありがとうございます。「鳩笛はないか?」とお訊ねのお客様もおいでだったそうです。出せばよかったです。

 露店でお喋りしていたところ、お客様からたずねられたことなのですが、「仲見世で

吉田さんの丸〆猫そっくりの招き猫が売られていますが、吉田さんのお作ですか?」残念ながら拙作ではありません。仲見世の某店が拙作のを真似させて売っているのが現状です。大きさがちがいますが、圧倒的な違いは招く手の高さです。某店のは手を耳の高さを超えて不自然に高いです。拙作のはできるだけ昔のものに倣って不自然な創作をしたくないので手は耳の付け根の高さです。

 某店の旦那さんの理屈では江戸の招き猫は精一杯高くまねかなきゃいけない、ときいたことがありますが、それが本当であれば、出土品なり伝世品なり絵画なりに記録されているはずで、それを確認していれば、自分でとっくに造形していますが…。

 自分としてはあまりあざといことはしたくないです。こればかりはお客様のお好みしだいで、拙作のように小手の利かないぶっきらぼうな人形を好いてくたださる方、こてこてきれいきれいなのがお好きな方さまざまだと思います。

  

 吉徳さんの露店前でつい油を売ってしまいました。お世話いただいている皆さんにお礼申し上げ、病院へむかいました。その後雨が降らずラッキーでした。


国立劇場11月歌舞伎公演

2019-11-21 21:04:49 | 日々

 9月の歌舞伎座の秀山祭を見たいと思いつつ結局行けず、先日の入院中に偶然知ったこの公演、退院したらこれ観ずして後々の後悔とばかり今日出かけてきました。この演目「日向島」(今回の演題では嶋になってますね。)滅多に上演されることなく、昭和の戦後は現・吉右衛門丈の父上・初代 松本白鷗(8代目幸四郎)さんが昭和30年代に文楽座の綱大夫さん、弥七さんと組んで上演したというのが伝説のような話。その後昭和40年代にここ国立劇場で演じられた。そして現・吉右衛門丈が一度演じられたという話は聞いていますが、その時は観ていないので、今回はじめて観ました。能で「稀曲」という言葉があるように、この演目に関しては、戦後でも4回目くらいの上演という稀なもので、役者さんと義太夫節の技量がそろわなければできないもののようです。名前だけ歌舞伎雑誌や案内書の中で目にしたことはあっても観るのがはじめてです。昭和30年代の上演の際、文楽座の大夫さんが歌舞伎役者の舞台に出演するということがタブーだったと聞いています。今回の義太夫は歌舞伎の竹本の太夫さん(文楽座は大夫、歌舞伎は太夫)葵太夫さんがつとめていましたが、熱演されていました。日向島の場面、盲目になった景清の心の葛藤と絶望、実の娘との出会いによって源氏への恨み、平家への忠節を捨て、晴れ晴れとした船出までの流れが義太夫と役者さんの力の拮抗で進んでいくという感じ、いわゆるチョボという感じではないですねもっと圧の強い感じ。自分もそうだったのですが、目元に手がいってしまうお客さん少なくありませんでした。

 今日は奮発してすごくいい席。

正午開演なのでデパ地下で日本橋弁松か亀戸升本のお弁当を調達して行くつもりだったのが、時間の余裕がないので新宿駅構内の駅弁屋さんで買った弁当。

 普段の食事よりカロリーがありそうな感じですが、今日くらいはいいか?と、、、。

文楽での日向島の上演はあっても観たことがなく、歌舞伎ではじめて観れた、それも吉右衛門丈がいればこそ。歌舞伎座でも国立劇場でも吉右衛門丈のユニットによる上演は素晴らしいです。ここ数年の国立でも上演演目どれもよかった。

 本当は予習して舞台を観るのがいいのですが、、。岩波文庫の「素人浄瑠璃講釈」に「日向島」載っていたような気がするのですがどうだったか、買ったものが家のどこかにあるのに行方不明です。まあこの本「素人」と名がついているけれど難しい内容だという印象ですが、、。

 今日は行ってよかった。

 


道ばたの種々

2019-11-20 14:24:46 | 日々

 寒くなりました。早速風邪をひいてしまい、喉や鼻をやられています。

 駒場のべにや民藝店への道すがら足もとにあれ?という草や花が目に入りました。

 ちごゆりはこの時期の花だったかな?

 花も実もついていませんが、へびいちご。

 これはダリアの仲間ですか…?

 これタラの木だと思うんですが…。春先の新芽通るたびに気になっていました。こういう実をつけるんですね。はぜの木にも似ているような…。

 日頃どたばたしていて、こうして季節の種々を眺めることが久しくないような気がしました。


おばけ地蔵・妙亀塚・小塚原

2019-09-27 08:52:04 | 日々

 

9月21日の今戸へのお参りの帰り道、橋場や南千住へも寄りました。橋場のおばけ地蔵。夕暮れ時だったので車の往来が少ないためかタクシーが休憩していました。

 時代を経たトタンや木造の質感などお地蔵さまを取り巻くすべてのものがタイムスリップしたかのような懐かしさにあふれていて感動的。

 横に建つ供養塔は昭和25年の建立ですが、この辺りがかつては総泉寺の寺域だったのが大震災のあと板橋の志村坂上に移転してしまったので土地に残された魂を供養するための由、裏に刻まれています。志村の総泉寺は赤羽からそんなに遠くないので、橋場時代を記憶するものなど残っていないか尋ねたことがあったのですが、何もないというご返事でした。

 すぐ近くに「妙亀塚」が公園として残っています。

 隅田川対岸の「木母寺」は謡曲「隅田川」の梅若丸の墓である「梅若堂」で知られていますが、川の反対側のここは歌舞伎化された「隅田川もの」に出てくる「班女の前」という名前で出てくるお母さん=妙亀尼ということになるんですね。 

 歌舞伎での隅田川ものというと吉田のお家騒動から梅若丸と班女の前の悲しい話が軸ですが、いろいろパロディーもあとあと出てきて「法界坊」とか「清玄桜姫」とか「桜餅」などいろいろあるのですが、川と都鳥というのはつきものです。今回しっかり確認していないんですが、三ノ輪の商店街辺りあたりだったか、「隅田川」だったか「都鳥」というお菓子が売られているみたいです。浅草とか向島なら当然ですが三ノ輪というところで出しているというのはちょっと見てみたいです。

橋場から清川に出て「泪橋」の交差点から常磐線と日比谷線の高架の間に鎮座する大きなお地蔵さんも覗いて行こうと向かってみました。

 日比谷線の南千住の駅の南側の操車場の向こうに見える再開発された汐入の街並み。高層住宅が並んで荒涼とした感じですが、確か自分がまだ20代で上野に勤めていたころは汐入には古い長屋が広がっていて、そのところどころに石の碾臼が転がっていたり、イボタガキの殻が見えたりしていたと記憶しています。ここらでは胡粉製造が地場産業だった時代があったそうなんです。「胡粉」というとすぐに「今戸人形とつながっていたのか?」みたいについ短絡的な考えをしてしまいますが、実際製造から販路をいつか調べてみたいと思います。なお。明治通り白髭橋より北に「石浜神社」があり有名な伝説の今戸焼の発祥、太田道灌によって滅びた千葉家の残党が石浜の岸辺に住み着いて、地面の土で生活雑器を作り始めた、というはなしの舞台がこの近くです。

 小塚原刑場の跡はもう少し清川、橋場、石浜寄りにあったのが、操車場建設のためお寺は現在にところへ移動した、とか聞く延命寺。大きなお地蔵さまのそばまでいってみるつもりだったのが既に日も暮れて門が閉められていました。この画像門扉からぎりぎりカメラを向けることができた限界です。初めてここへ来たときは、お地蔵様の真上両側を地下鉄や常磐線の車両が大きな音たてて通り過ぎるので気の毒な印象を持ちました。小塚原で思い出すのは落語「骨の賽」(今戸の狐)、今戸で小間物屋のおかみさんになって狐の絵付けをするのが、もと千住のお女郎さんだったので「骨の妻」と「賽子の賽」とかけてあって、「賽子は骨を材料にするものもあった」ということと「千住」に刑場があったから符丁で「コツ(骨)」と呼ばれていたのが重なりあって話が面白くなっているんですね。

 もう真っ暗なのでこれ以上寄り道も厳しいかと思い、常磐線に沿って三ノ輪まで行き、三ノ輪の商店街から都電や明治通りを縫って帰途につきました。

 商店街の中の「砂場」の古い普請がかっこいいです。三ノ輪の商店街から外れるとすぐとなりは真っ暗な住宅街、という感じです。お酒や食べ物を気にすることなしにできる体であったなら、ここいらで時間を過ごして、、という気持ちですが。現実を考えて通り過ぎました。今戸、日本堤、清川、橋場、、、、はじめてではないけれど、じっくり進めばまだまだいい感じのものがたくさんありそうで、まだ寄ってみたいと思います。


てんてれつくの猪

2019-08-16 00:34:48 | 日々

 一昨日、浅草の藤浪小道具の倉庫を日本人形玩具学会の見学会への参加として見学することができました。

 浅草6丁目だったか?昔の猿若町です。歌舞伎の大道具なら「長谷川」小道具なら「藤浪」といわれるくらい歌舞伎にとってはなくてはならない老舗の小道具屋さんの内部を素人の分際で見学できるとうことは滅多にないことでした。この昔の猿若町、今でも近くにお神輿や太鼓の「宮本卯之助商店」とか造花の老舗などあり、その昔江戸三座が並び、栄えた時代の名残のようです。とにかく芝居好きにはこの上ない機会。

 一枚目の画像の猪こそ「仮名手本忠臣蔵」5段目に登場する「てんてれつく」の鳴り物で登場する猪の実物。舞台だと照明のせいもあり、あっという間の登場退場なのでゆっくり細部まで眺めるということがないので、このように触って観ることができるなんて感激です。江戸の芝居風俗を描いた絵には人ふたりが入った4本足の猪もあったようですが、長く定着しているのはひとりで入る2本足の猪で前足2本はぶらぶらしています。その時々で細部が違ったり役者さんのお好みで変化があったすることは珍しくないでしょう。

 耳が垂れていますね。動きにつれてぱらぱら動くのでしょう。

 中側。張りぼてです。

 右に並んでいる素朴な首はご存じかと思いますが歌舞伎十八番「暫」の後半で鎌倉権五郎の大太刀で切られる首です。猪といいこの他愛のない素朴さが歌舞伎の値打ちです。狂言によっては劇中の首実検で使うリアルは切り首も存在します。それと切り首の左に鈴太鼓が見えますね。「娘道成寺」の「園に色よく、、、、」のところで使う楽器です。「早乙女早乙女田植え歌 裾や袂を濡らした サッサ」(ちょっと古典的なエロさ。)あと「鏡獅子」の胡蝶「世の中に絶えて花香のなかりせば、、、花のおだまき」で二人の胡蝶がシンメトリーな振りで合わせて踊ります。

 いろいろな狂言だの踊りで使われる傘のいろいろ。花の傘は「道成寺」の所化の踊りで使います。大学のときの歌舞研で「道成寺」が出て。所化で踊ったことがありますが観るのと演るのとでは大違い。白拍子花子は件ごとに違う人が分けて踊っていましたが、道行の件は「花組芝居」の加納幸和さんでした。もう40年近く前の思い出、、。

本当は倉庫の中の見学をするつもりでいたのが、家族が救急搬送されたから急いで駆けつけてくださいなんて救命士の人から電話が入って泣く泣く途中で帰ったのでした。「アーラ 口惜しや 無念やな@@@@@」

 

 


ケロケロ(ソロ)その①

2019-05-08 23:18:19 | 日々

 べにや民藝店さんでの作品展、みなさまありがとうございました。最終日の6日は家族の通っているデイサービスからの送迎車からの受取の関係で、午後3時までしか会場にいられなかったので、その後の経過についてはまだ把握しておりません。会期は過ぎましたが、これから会場内に展示していた古い今戸人形などをしまいに行く予定です。

 最終日前日に、歌舞伎好きつながりの方が来場くださったついでに貴重な情報をくださり、こころ踊りました。お勤めされている越谷での蛙の鳴き始めがあったということなんです。昨年もバスの停留所から携帯でライブ音声を聞かせていただいて、その後、越谷へ行ってみたのですが、時既に遅く?まったく声は聞こえませんでした。夏場に見沼田圃数か所へ出かけ、実際蛙たちの姿を確認したのにまったく鳴き声は聞こえず何故なんだろうという感じでした。

 実体験では例えば父の故郷である山形では、夏の盛りでも合唱するのが聞こえたし、埼玉でも例えば栗橋と加須のあいだ一面田圃というところで夕暮れからものすごい合唱を耳にしました。昨年の夏の見沼田圃はなぜなんだろう。ただ、夏に現場で見かけた蛙たちは思い出してみるととても小さな姿の子たちばかりで、ひょっとすると春に生まれたおたまじゃくしが蛙になったばかりだから鳴かなかったのだろうか、つまりその親たちの春の営みの時期こそ大事なのだろうと考えていました。

 今日早速、昨年夏に訪ねた、さいたま市見沼区の「見山」の田圃へ行ってきました。JR北浦和駅前から市立病院ゆきのバスの終点から少し歩いたところ。黄昏時で、さいたま副都心のビルが遠くに見えます。

 見沼代用水東側の水路。橋から川下である東側を観た風景です。

 昨年の夏、蛙の姿をみた辺りは既に真っ暗。畑だらけのところなので、足元を照らす電灯など全くないところで、空の明るさで足元が見えるという感じで、最近東京ではあまり体験できない暗闇です。わかったことですが、昨年「ひつじ田」になっていて、蛙を姿を観た水田は今年は水をひいていないので、湿り気がなく、蛙が住める環境にはなっていないようです。しかし、暗闇の中、合唱ではなく、ソロの鳴き声は聞こえます。

 さっきまでしきりに聞こえたひばりの声も日が沈んでやみ、ときどき蛙のソロが聞こえます。

 真っ暗闇を歩くというのも最近ではあまり経験しないことなので、それだけでも堪能しました。浦和の三室にはその昔スイミングスクールがあって小学校3年から4年くらいまで通っていました。この辺りその近くで、途中バスからスイミングスクールがあったところの景色も見えましたが、随分変わったものです。それも当たりまえ、45年以上経っているのですから、、。それにしてもまだこうした暗闇が残っているというのは貴重です。近いうちに、昨夏蛙の姿を確認した場所2か所を改めて訪ねてみようと思います。


ぺこちゃんに会いに

2019-03-16 10:39:10 | 日々

 時系列としては逆になりますが、確定申告の準備を始めた先々週、かねてより楽しみにしていた「ぺこちゃん」(その昔、玉電や世田谷線を走っていた人気電車200系)に会いに、田園都市線「宮崎台」駅に隣接している「電車とバスの博物館」へ行ってきました。実物のペコちゃん♡♡♡

 写真の中でしか見ることができなかった実物に触れて感激。

 この裾の絞り具合が絶妙。「ぺこちゃん」の愛称の由来ではあるけれど、「おかめさん」でも「起き上がり小法師さん」とでも呼びたくなる面構え。正面のX上の塗り分けが量感を際立たせているような、、。解説パネルには「ペコちゃん」とも「いもむし」とも呼ばれたとか。たしかにそう言われるとリアルいもむしな感じではあるけれど、、。

 やっぱり窓から下のカーブが堪りません。それと運転台横の直角三角形の窓♡

 連結部の幌?宇宙的な感じが、、、?

 座席の手すりのパイプが太くて独特。側面の床辺り、絞ってあるからかっこいいけれど、足の踏み場は少なくなるってことですね。

 びっくりしたのは先頭の内部。運転席がないんです。係員の人に聞いたら、運転手さんはずっと立って運転していたとの事。渋谷⇔二子玉、或いは渋谷⇔下高間全区間を交代なしで運転するとは限らないけれど、もしそうだったら結構しんどいかも、、。それとお客さんの座席が先頭まで延びているとは知らなかった!これってゴージャス。

この電車で玉川通りを車に混ざって走っていた車窓は空想するだけでもすごいです。

 カーブしたフォルムに塗られた塗料のツヤ、子供の頃マーブルチョコのツヤのときめいた感覚につながってくるようです。

 東横線を走っていた500系。色が渋くて品格あるフォルム。運転窓に庇がついているというのが新鮮な感じ。赤羽を走っていた旧国鉄の茶色い省線電車型の電車にこういうのがあったかどうか、、。 

 屋根のベンガラのような色は昔の地下鉄銀座線の鋲だらけの古い車両の屋根と同じような色味。

 車内に入って先頭部の内側、お客さんの座席が先頭まで伸びているはペコちゃん同様ですね。座席の側面板の形がノーブルで真鍮色のパイプの手すりがアイリッシュパブみたい。茶色く太い柱も斬新。電車でも古い時代のものはていねいな普請なんでしょうか。

 まずはぺこちゃんの直接触れることができて満足でした。帰り、渋谷の喧騒に戻るのに気が引けるので大井町へ出て、京浜東北線で帰宅しました。

 

 


経木の小絵馬

2019-03-14 23:05:30 | 日々

 昨日ずーっと胸につかえていたもの(確定申告)を済ますことができ、これまでできなかったやるべきことにじっくり取り組んでいきます。

 それとは別にもうすぐ春のお彼岸なので、我が家のワンちゃんたちの眠っている板橋舟渡の霊廟へ塔婆を頼みに行ってきました。お線香をあげて手を合わせてから、せっかく天気もよいのでまっすぐ帰るのももったいないので、自転車でついでに戸田橋で荒川を渡って、戸田から川口に向かい、川口で昼食をとって家に帰ろうと思いつきました。

 戸田へ入ってから昔、経木の小絵馬を作っていた古い人形屋さんがあったのを思い出し、まだ残っているのだろうか、、?と中山道沿いを記憶を辿って進みました。前回行ったのは30年以上前のことなので、マンションの立ち並ぶ景色ばかりの中、心配でしたが、ひっそり残っていました。

 お雛さまの際が済んで五月のものに飾り変えるところなのか、店内はあっさりしていましたが、おじさんに件のことを聞いてみると、一瞬「何だ?」という表情をされましたが、すぐに通じて奥から出してくれました。

 「向い狐」の絵馬。中央の宝珠を中心に狐がシンメトリーに向かい合っている構図。向かって右の狐は蔵の鍵を咥えています。関東地方各地にあった一般的な構図のもの。当然お稲荷様。この辺りでは神社へ奉納するというより、各家の庭のお稲荷様の祠へお供えする需要で支えられていたそうです。

 「鶏」の絵馬。おんどりとめんどりとひよこ。鶏の「とさか」の色と形状が「炎」を連想させるため、火伏の神様である「荒神様」のご眷属として防火、家内安全の祈願として、竈の上にお祀りされている「荒神棚」のお供えします。一般家庭の他、火を使う生業、、「鍛冶屋」とか「錺職」など鞴の仕事や焼き物など関係でもお祀りされることがあります。

 「暴れ馬」の絵馬。「咲いた桜になぜ駒繋ぐ」という言葉(桜の木は描かれていませんが)そのものという感じの構図。一般的な馬の絵馬は馬に関る生業であれば馬の健康、安全ということなのでしょうが、馬の生業に関係なくとも諸願に向けてお供えされるみたいです。ここの人形屋のおじさんの話では地元、戸田では「鶏」の絵馬とともに11月の荒神様のおまつりに需要があるといことでした。

 「絵馬」というと観光地のおみやげとか記念品というイメージができて、願かけするために境内に納めるという習慣は今でも残っていますが、神社仏閣で授与されている大量生産の絵馬というのはそんなに古いことではないらしく、もともとは願をかけるということは人目を憚られることなので、雑貨屋、荒物屋で買ってきて名前も匿名で「男〇才」「女〇才」として納める風だったので町の荒物屋や雑貨屋に線香やろうそくなどとともに置いてあり、それらを作っていたのが絵師、提灯屋、看板屋、人形屋など色を塗る生業の人々だったとか聞きます。

 そんなわけで、これら画像のような願い別に画像が決まって作られている絵馬というのは、今ではあまり目立つところに名物のように売られていることがほとんで少なくなっています。「観光記念」とか「参詣記念」などとして名所で売られているものは昔の庶民の生活で需要のあった小絵馬とは別のものですが、これらが「絵馬」だというくらい普及しています。

 以前、私の地元、赤羽の岩淵町にあった荒物屋さんで売られていた小絵馬はここ、戸田で作られたものを仕入れていたものですが、既にになく、岩淵の旧家の人たちはどうしているのかわかりませんが、戸田でも昔ほどの需要もないので、親戚の家々でも絵馬作りをしていたが、今ではうちだけになってしまった、ということです。

 30年以上前のことで、もうなくなってしまったか?と思っていたものが、今まだ健在だということはうれしいです。

「岩淵(赤羽)の経木絵馬」→


雛の家

2019-03-03 16:25:25 | 日々

 今日は3月3日のひなまつり当日。全国各地でお雛様にまつわるイベントで賑わっていることでしょう。都内だけでも各所で雛にまつわる展示や催事がにぎにぎしく開催されているかと思います。残念なことに朝から雨が降っています。

 昨日は郷土の雛を大切に収集され、自宅に飾っていらっしゃる方をお訪ねして見学させてもらってきました。私も所属させていただいている「日本人形玩具学会」の発足当初からの会員でいらっしゃる吉本滉子さんのお宅です。学会の会員名簿は五十音順なので同じ「吉」はじまりの苗字なのでいつも同じページのお近くに記されているお名前なので、お名前だけは存じあげていたのですが、ご面識はいただいておりませんでしたが、昨年の丸の内丸善オアゾでの「みそろぎ人形展」会場へお越しくださって、私のブース前でお話していてはじめてお目にかかったという次第です。それより遡って、「べにや民藝店」さんが青山で営業されていたとき、拙作の人形展をさせていただいた折りにもお越しくださり会場内にあった「一文雛」と「江戸一文雛」(尾張屋風)をお求めくださったそうで、裃雛はまだなので丸善にあるかと、お越し下さったそうなのですが、最近作っていなかったため会場には置いていなかった。そこでお時間をいただいてできたところで連絡差し上げるというお約束をしていたのでした。そして新年が明けてから今年のひなまつりに間に合わせなければ失礼かと思い、急いで作ってお送りしたのでした。亡父の法要を終えて東京に戻る3月2日か3日に見学させていただくというお約束をいただいて昨日お邪魔させていただいたという次第です。

 ふた部屋に台を設営された上にズラリと並んでいる様子は圧巻です。ほとんどのお雛様はひとつひとつ作者を訪ねてお求めになられたとのこと。それだけにそれぞれにその当時の思い出があり毎年飾るのもしまうのも大切にされているのだそうです。「べにや」さんでお求めになられたふた組の拙作の一文雛。白いのは当時確かに作っていたのですが、忘れていました。裃雛ふた組は同じ明治調のパターンで塗ったものなのですが頭や襟元の塗り方が異なるパターンで、両方とも塗ってお送りしたものです。拙作の裃雛の後方に見える芝原の「団子雛?」の一対は三代目田中謙治さんの作、小さい裃雛の一対も田中謙治さんの作で、その他は現在の作者のもののようです。手前の皿に盛られた食べ物はご自身で細工されたものだそうです。

 手前のテーブル右奥に積みあがっているのは、山形のひな祭りでお供えされている「かど」(ニシン)に見立てて、千葉で売られている魚型の食品パッケージを利用して膨らみを持たせているそうです。一番手前はお訪ねするのに普通のお菓子ではつまらないと思って、西荻窪の「ルーペ」さんで買って手土産にお持ちした「金花糖」。もし既に同じものをお供えされていたら申し訳ないかも、、、と思っていたのですが、お喜びいただいて何よりでした。

 あまりの壮観さに全てにカメラを向けることをうっかりしていましたが、梁の上や天井近くにも紀州方面の立雛型の御守とか雛の絵柄の絵馬なども飾られていました。

 この木彫の段雛や横の立雛やその他すべて、ご自分でお作りになられたものなのだそうです。もうびっくり!!!てっきり奈良彫のセットなのだと思っていました。このようにひとつの部屋に歩いて作者を訪ね、お集めになられた雛の数々、もうひとつの部屋にご自身でお作りになった雛の数々が飾られてあり、お住まいのお部屋には昭和はじめの雛段で御殿飾りつきのものものや玄関には大きな九州産のお雛様も飾られていました。

 聞くところによれば、「お人形は顔がいのち」の浅草橋の「吉徳」さんの小林すみ江先生もこれらの雛をご覧にいらっしゃったことがあるそうです。大切にされているものなので広く一般公開はされていないそうですが、人形に関心を持っている方であれば事前に相談のうえ、見学させてくださることは可能だということです。今年は飾るのも今日までなので、これから大切におしまいになられるようです。

 吉本さんのお母様は美術学校で日本画を専攻されていたのだそうで、猫で有名な川村目呂二さんとご親交があったとかお父様は日本画の奥村土牛先生とのご親交があったそうです。すごい。まずはたくさんの郷土雛たちに拙作の土雛も仲間入りさせてくださってうれしく思いました。


寄り道

2019-03-02 02:19:53 | 日々

 昨日は亡父の三回忌の法事のため山形へ。菩提寺で法要、そのあと須川の近くにあるお墓へお参り、そして移動してお斎という流れでした。始発の山形新幹線に乗り車窓を眺めていましたが、福島までは山を除いてはほとんど雪は積っておらず、板谷峠は当然40センチくらい積もっていて、米沢盆地に入ると畑は真っ白に積もっていました。赤湯から汽車は上り勾配を走って置賜と村山の境あたりもわずかに雪が積もっていたものの、上山あたりからは山を除いてはほとんど雪は積もっていませんでした。お墓のお参りで足場の心配をしていたのでその点よかったです。お寺は山形の中心部よりも在なので屋根から落ちた雪が積もっていましたが、、。亡父の実家である最上の親戚のみなさんの話では向こうはまだ積もっているということ。積もっている最上と積もっていない境は村山の楯岡辺りだったそうです。

 法事の勝手を知らないところ、みなさんの助けで何とか3回忌まですませることができてありがたいと思いました。

 お斎で結構食べ物をいただいたあとですが、まっすぐ帰るのももったいないので、帰りは仙山線で仙台へ出て、お馴染みの店に寄らせてもらってコーヒーをご馳走になったり、久しぶりだったのでいろいろおしゃべりをして駅に戻り、仙台へ行くと必ず寄っている中嘉屋食堂で軽く食べて、はやぶさ号で大宮までノンストップで帰りました。「中嘉屋食堂」は駅構内の他、勾当台公園近く市役所のそば、もうひとつ長町にもあり、向こうで時間があるときは市役所近くで食べます。ここの料理はアイデアというかちょっと工夫のある感じで好きです。例えば「酢豚」だったら大抵ピーマンが入っていますが、この店ではピーマンの代わりに「ししとう」が入っていて風味や味が引き立っています。今日は軽く食べたかったので「牛タンラーメン」を注文しました。スープはあっさりとして微妙に甘さを感じますが、嫌なかんじではなく悪くないと思います。麺もパラッとした感じでつるつる食べることができていいと思います。仙台へ行ったら絶対「牛タン」という好みでもないのですが、さっぱりとしてお汁と麺と合っておいしいと思いました。

他にもいろいろなメニューがありますが、今日はおそばとハイボール2杯だけ注文して新幹線ホームに向かいました。

 市内でタクシーに乗っていたとき急に昔の映画「赤い殺意」(ちょっとエグい感じの映画でしたが)の舞台が仙台だったので出てくる景色が大学病院の近くの交差点ではないかと思っていたので運転手さんお訊ねしたのですが、知らないとのこと、知り合いの店でも訊ねてみたのですが知らないという返事。あんまり地元では話題にならない作品なのでしょうか。(本当エグい内容で、当時ではスキャンダラスな内容だったろうと思いますが、、、北林谷栄さんが出ているということで観たのですが、、。)吉田さんそういう映画お好きなんですかとか聞き返されますが、「赤い殺意」とか「日本昆虫記」とかどちらも北林さんが出ているということで観たのですが、ものすごく皮肉な作品という印象でした。

 はやぶさ号のおかげで10時過ぎには帰宅して十五夜さんに「ただいま」をいうことができました。


お参り

2019-02-23 21:40:03 | 日々

 早いもので2月に入ったと思っていたらもう20日過ぎ。来週は2月も最終週。江戸からの伝統を受け継いだ最後の生粋の今戸人形作者であった尾張屋 金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のご命日は2月29日なのですが、今日尾張屋さんへお許しをいただいてご墓所へお参りに出かけてきました。お昼過ぎはぽかぽかとしたお天気で自宅から自転車で今戸へ向かいました。

 春吉翁の作業風景。「きせる窯」に焚きつけているところ。現在の今戸町内からは想像するのも不思議な風景。自分が20代の頃、今戸の町内で燃料屋さんを営んでいらしたお爺さんからお話を聞くことができて、そのお爺さんは尾張屋さんのことも憶えていてお話を聞くことができました。また20代の頃、春吉翁のお孫さんである佑助さんに直接お目にかかる機会があったのもラッキーでした。その後お宅にお邪魔させていただいて長時間いろいろなお話を聞かせていただいたのもありがたかったです。時間の経つのは早いです。佑助さんと奥様も春吉翁とともにお参りさせていただきました。

 紅白の梅。ちょうど今くらいが見ごろですね。

ハスキー君がお散歩から帰ってきたところで、久しぶりに再会することができました。

 来週は父の法事があり、その支度もあるので、ちょっと早いのですが今日お参りさせていただきました。

 往きは明治通りの宮地から三河島、東日暮里、龍泉、吉原大門から山谷堀経由で今戸へ向かいましたが、千束稲荷前を通ったら、まだ境内に地口行灯が飾られていました。

 帰りは金美館通り、根岸、子規庵経由で日暮里へ、西日暮里で道灌山下へまわって駒込、染井、西ヶ原経由で帰宅しました。


Bohemian Rhapsody

2019-01-03 14:49:50 | 日々

  昨年暮れ。いろいろな納めに向けて夜なべをしていた折、たいていNHKの深夜の再放送をつけながら作業をしていたのですが、そこで今この映画が話題となって、「クイーン」のボーカルだったフレディー マーキュリーが今の若い人の間で熱くなっている、というニュースを耳にしました。映画のタイトルになっている「ボヘミアン ラプソディー」が収録されているアルバム「オペラ座の夜」のLPは不思議と買って聞いていたのでした。ただリリースされたリアルタイムではなくて大学に入学した頃だったかと思います。

 レコードやCDを自分で買うということは、いいなと思って身銭を切るのでそれなりのレベルに思い入れがあったのですが、自分の音楽の履歴といえば、大学にあがるまで鎖国的状態だったように思います。その時代時代にテレビやラジオから耳に入ってきた楽曲のいくつかは記憶に残っていますが、ロックなどよくわからなかったですね。小学生から中学生にかけて自分の小遣いで買ったレコードというと、テイチクレコードの「日本の民謡シリーズ」の青森、秋田、山形民謡のレコードだったり、高橋竹山の「津軽三味線」、藤本ふみ吉の「江戸端唄」、芳村伊十郎の長唄だったりしました。それでもラジオから流れてくる「カーペンターズ」や「スリーディグリーズ」とか「オリビア ニュートンジョン」なんかの楽曲は耳にには入っていました。

 大学に入って同じアトリエの友人が洋楽好きで、その人から聞かされたのが「ボヘミアン ラプソディー」はじめて聞いたときは、曲調が4段階に変化して何とも不思議、それと長い曲だなあという印象でしたが。気になって「オペラ座の夜」を買ってしまったのです。収録されている楽曲がそれぞれあって、一番最後に「ボヘミアン、、、、」が入っているという構成でした。何も予備知識もなく買ったレコードで「クイーン」のメンバーの顔さえ知らなかったのでLPにあるメンバーの顔写真をはじめて見て「ベルばら」みたいだと思いました。フレディ―以外のメンバーもバッハやヘンデルみたいだと思った憶えがあります。同じアルバムに収録されている「You're my best Friend] という曲はメロディーラインがポップな感じでこれも好きでした。不思議なことに、この曲を聴くと世田谷のぼろ市を思い出すんです。(どうして?という具体的な理由はわからないのですが、、。)

 音楽的開国となってから小林克也さんの「ベスト ヒット USA]の番組を見るようになってから、リアルで「クイーン」のミュージックビデオだとか化粧品のCMだとかKIRIN メッツ?のCMとかカップヌードルのCMとか目や耳に入ってくるようになった気がするんですが「オペラ座の夜」の顔写真の「ベルばら」ではなくてサーカスのクラウンみたいな全身タイツのようないでたちにはびっくりしましたね。

20代30代はドイツに出かけることが多かったし、ミュンヒェンのいろいろな友達の家に居候させてもらっていたので、フレディ―がどこかに別荘を持っているという話を聞いてどこなんだろうとは思っていました。因みにミーハーですが、第三帝国時代のベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」の監督だった、また80年代はじめ「NUBA]という写真集を出版して話題となったレニ リーフェンシュタールさんの家は市内 シュワービング地区にあって友人のお父さんの住まいの真向かいでした。

 そういうなかで、フレディーが亡くなったというニュースでびっくりした記憶もあります。どっぷりと「クイーン命」的ではなかったけれど、どの曲もフレディーのしなやかで熱い歌唱力に惹きつけられるものがありましたね。

 不思議と映画館に足を運ぶということがないんですが、今回出かけてきました。前回映画館に入ったのは十数年前だったか渋谷のスペイン坂の映画館だったように思います。シネコンなるものも初めてです。

 何の予習もなしに観たのですが、大筋実際のクイーンとフレディーの人生に沿ったストーリーだったのでしょうか。演じている俳優さんとかまったくわかりませんし、劇中の歌唱は別人が歌っているものですけど。本物をよく意識して演じられているようですね。フレディーの自宅にたくさんの猫さんたちが同居していて話相手になっていること。居間に大きなマルレーネ ディートリヒ の大きな肖像が飾られていること、これなんか実際のことだったのでしょうか。

 「ボヘミアン、、、、」の曲そのものはクイーンが一番ピークに登る時期の曲と聞いているので、今回の映画のあたかもフレディー自身の短い生涯を自身が象徴する意思があったのかどうかわかりませんが、こうやって映画を見るとそういう風に見えてきますね。「ツィゴイネル」=「流浪の民」=アウトサイダー=マイノリティー という象徴なんでしょうか。二重三重4重にも彼が生涯被っていたほかの人々からの壁のようなものを示す場面がありました。

 最後ライブエイドのステージで終わったのが救いのような。それ以降の彼の生涯は実際しりませんが、映像で作ったら観ていてつらくなるものだったでしょう。

 45年の生涯といえば、夭折ですよね。若いころ、憧れの画家の人生と自分の現在の年齢との比較を勝手にしていて、エゴン シーレは28?才、カイム スーチンは 42歳 、オスカー ココシュカ は70幾つ、デイビット ホックニーは存命中、などと自分自身の余命で自分の人生を充実できるかどうかみたいなことを友達と冗談半分話していました。

 元旦で56になってしまいましたが、自己満足できる人生の充実を目指したいものです。

 そういえば、オープニングの20世紀フォックスのロゴのファンファーレがいつもの「ぱんぱかぱーん」ではなくて同じメロディーなんだけれど。いかにもクィーンっぽい「♪キュイーン♪」というエレキの音なのも面白かったです。


国立劇場 12月歌舞伎公演

2018-12-21 03:24:56 | 日々

 半年ぶりの芝居見物。半年ぶりの吉右衛門丈です。9月の歌舞伎座の秀山祭では吉右衛門丈の二役が出ていたのですが、9月は生憎催事や出展が重なり、観に行くことができずにいました。今月の吉右衛門丈は「石川五右衛門」を演じられ、「葛籠背負ったがおかしいか」のセリフで有名な「葛籠抜けの宙乗り」を演じられています。

 「宙乗り」は「早変わり」「本水」などと並んで「ケレン」といって肝心な芝居に加えて観客を楽しませるサービスオプション的な演出で、ただケレンばかりを売り物にして芝居が疎かになったり、ただきれいなだけで腕のない役者さんがケレン芝居を演じても趣向倒れ(当然ひいきのお客さんは手を叩いて大喜びしますが)な結果に終わるということが少なくありません。その点、吉右衛門丈のたっぷりとした芝居と愛嬌の上に宙乗りを演じられることはこれ以上のご馳走はない、という感じでした。それと今回は「楼門五三桐」の南禅寺山門の場のパロディーとして「木屋町二階の場」という場がついておもしろかったです。他の場も長い間演じられていなかった古い場面で芝居の流れが奇抜な感じがしましたが、この一座の芝居上手なアンサンブルでそれらしく見せているというのは観客のひとりとして安心して観ていられるという感じです。

 NHKの筋肉番組の決まりセリフではありませんが「吉右衛門は裏切らない」としみじみ実感しました。その昔、故・三代目実川延若さんが「窯茹での五右衛門」の場まで演じていたのは読みかじりで知っていますが、今回はその前の縄にかかるところまで。石川五右衛門といえば、「楼門」の五右衛門とか「葛籠抜け」の五右衛門のように「国崩し」的な立派で手強いイメージ像だと思うのですが、今回出た「五右衛門隠れ家の場」で夫婦親子の情で涙にむせぶ、という性格もあるのがまた芝居で面白かったですね。(道具幕前で大薩摩の出語りがあって、幕を振り落とす演出も「楼門」のパロディーになっています。)吉右衛門丈の一座での芝居は本当に損をしない。腹ごたえのある内容で満足です。幕間の休憩には池袋西武での地下で買ってきた「亀戸 升本」のお弁当を食べました。おかずたくさんで食べでがあってこれも満足でした。


東西南北

2018-12-19 21:38:02 | 日々

 去る14日に吉徳さんへの納め。翌土曜日は雑司ヶ谷へ手持ちの納め。久しぶりに雑司ヶ谷墓地近くの大好きな「ターキー」のラーメンを食べて帰宅しました。この日は体へとへとだったので電車と都電で移動。小春日和のような日だまりの中、都電の車窓はのんびりよかったです。日曜日は吉徳さんに渡し忘れたものがあって再び浅草橋へ。月曜日は銀座と高幡不動へはしごで納めのため移動。その途中三宅坂の国立劇場の前売りに立ち寄りました。よい天気の中、西へ向かう京王線の車窓。高幡不動近辺に残る里山や遠くに見える山々、紅葉の匂いがしました。

 そして急ぎの納めはまず落ち着いて、今日は羽子板市の様子を見たいのと、家族だったワンちゃんのお骨を納めている板橋舟渡のペットのお墓への更新手続きの必要もあり、自転車でまず舟渡へ向かいワンちゃんたちに手を合わせ、ここから自転車で中山道沿いに巣鴨まで、巣鴨から染井経由で通院している病院へ。不忍通りから西日暮里を経て根岸入谷経由、金美館通り、国際通りで観音様境内へ向かいました。

 かつて生活を共にしていたプードルと黒ラブちゃんが眠っているのはお堂の中のロッカー式の納骨スペースです。お堂の横にブルドッグの遺影つきのお墓が見えます。

 舟渡を出発して志村の坂の途中にある「薬師の泉庭園」と山上に聳える「総泉寺」のお堂。こじんまりしていますがいろいろな草木が楽しめるところ。江戸時代からある庭園なんだそうです。「総泉寺」はかつて隅田川沿い、今戸町の北隣の橋場にあった古刹で関東大震災だったか空襲だったかで現在地へ移転したと思います。今でも橋場に「妙亀塚」という碑が残っていますが、このお寺にゆかりのものです。

 庭園内の泉の湧く井。今は水道で流れを再現されているのか水は出ていませんがいい感じです。

 冬枯れの中の小菊たち、、。

 この赤い実の植物は何という名前なんでしょうか、、、?

 志村の長いダラダラした坂を上って坂上から凸版印刷へかかる手前の立派な一里塚。道両岸に石垣で囲まれた塚がありますが、同時に両側がカメラに納まりません。

 日本橋に向かって左側の塚。

 その隣に構えている立派な荒物屋さん。

 志村から蓮沼町、清水町から旧中山道沿いに進んで本町にある「縁切り榎」。輿入れの行列はここを避けて通ったとかいいます。

 本町と仲宿の間に流れる石神井川に架かる「板橋」。「板橋」という地名のもとがこの橋です。今ではコンクリートの欄干ですが、、、。

仲宿も上りの坂道でそんなにきつい勾配ではありませんが、志村の坂と連続するとしんどいです。このあたりも面白そうなものや店がありますが、今日は割愛して、、。

 招き猫関係の本によく登場する西法寺の招き猫の石像。このお寺もかつては浅草にあったのが現在の西巣鴨と新庚申塚との間へ引っ越してきたと言われています。この猫さんは何代目かの高尾太夫を怪蛇から守ったという話で有名ですね。但し20余年前にはこの猫像はお寺の門柱の上に鎮座していたと記憶していますが、いつからか高尾太夫の墓所の傍らに移動したようです。気の毒なのは左側の額の上が以前よりかなり損失していて、もしや門柱から落ちて怪我したのかどうか、、、お寺の方へお訊ねする余裕がなかったので、、、。今戸焼とは関係がないとは思いますが、浅草つながりの猫さんではあるので、いつか時間があればこの石像をもとに小さな土人形に仕立ててあげたいという気分です。その昔、浅草寺仁王門と弁天山の間に鎮座していた「粂平内堂」の石像を今戸人形で作って江戸以来「元祖 浅草の縁結びの神様」であったみたいに、この猫さんを作ってあげたいと思います。

 このあと巣鴨から染井、道灌山経由で浅草に向かったのですが、画像に撮ったのはこれだけです。

 

 


不忍池

2018-11-30 03:00:43 | 日々

 このところ毎日のように不忍池のそばを往復しているような感じです。あるいは染井の丘の下辺りが昔の藍染川の源だったという話も聞くので、その源流付近から不忍池を経て広小路の三橋、下谷、佐竹、三味線堀を経て隅田川へ至る流域をうろうろしているような感じです。ぼんやりとした話ですが、家で作業していて、胡粉が足りなくなってきたので淡路町の絵具屋さんへ往復したり、急に必要あって銀座まで行き、その帰り浅草橋の吉徳さんへ寄って帰る、また急に御徒町の漆屋さんに粉筒を買いに行くという具合です。のんびり楽しみながらという感じではないですが駒込、田端、谷中、根津、上野までは昔の藍染川沿いに走っていることになります。

 根津から不忍池の東側(動物園のモノレール下とか鴎外荘経由)だったり、西側(大観宅、東天紅経由)になったりしますが、池の景色で一番変わったのは上野の山を通り越して本所のスカイツリーがにょっきり見えることです。光る巨大イカのようで好きになれないので画像もわざと入らないように撮ってみました。

 それにしてもこうたびたび通り過ぎているのに未だ東博へ行けていないというのは皮肉。早くしないと特別展が終わってしまう、、と焦っています。