永禄3年5月、今川義元は先陣に若き武将、松平元康(後の徳川家康)と朝比奈泰朝の3000を進め、自ら2万の大軍を率いて駿府を出発した。
目的は遠江と三河の不穏な空気を収めることが第一で、ついで織田を攻め那古野を攻め取り、良港津島湊を奪うことであった。
もちろん60万石70万石ともいう尾張を占領してその富と米を手に入れ、飢饉にあえぐ三河、遠江、駿河の自国領に送ることも目的だ
義元公の出陣とあって家臣たちは勇み立った、「織田の命運も尽きたぞ」と口々に叫んだ。
「義元発つ!」の報は今川領に潜伏している間者からたちまち信長に伝えられた。
「とうとう動いたぞ、準備は万端だ、返り討ちにしてくれる」
信長は勇み立ち、かねてからの計画通りに動き始めた
信長とて無策で正面から当たって今川に勝てるとは思っていない、そのためには周到な準備を4か月も前からしていた
いわば草蜘蛛、土蜘蛛、野蜘蛛のごとく罠を張り巡らせ息をひそめて網にかかる獲物を待つ戦略である
もちろん兵数では5分の1程度の織田軍だから勝利しても義元を打ち取るなどとは夢にも思っていない
ただ今川が一年二年再起したくないほどの深手を与えておけば、その間に美濃を攻めるつもりなのだ。
今川を放ったまま美濃を攻めて、そのすきに今川が攻め込んでくればたちまち尾張は蹂躙される、今川が動く気配がないと言っても薄気味悪い、たしかに今川が動いたという確証が欲しかった、そして動いた。
今川さえ叩いておけば美濃攻めができる
逆に美濃斎藤義龍は尾張を攻める力も気力もない、安心して今川戦に臨める。
織田軍が罠を張って待ち構えるのは、大高城と岡崎城の間にある丘陵地帯桶狭間である、。
そこに誘い込むことが唯一の勝機なのだ
「見えたぞ!」信長がふいに大声を上げた
「丹下に水野勢400 善照寺に佐久間信盛1500 中島に梶川300 丸根に佐久間盛重400 鷲津に織田秀敏500を配する 権六は清州を1500で守れ
守護様には兵400をつけて熱田神宮にお出まし願い、敵が向かう様子を見たらすぐに清州へ退いていただく
儂は熱田に守護様をお送りしたのち500で善照寺に合流する、以後の戦は善照寺にて申し渡す、各砦は命がけで守れ
長く守るほどわが軍は有利になる、命を惜しむな、だが打って出ず守りに徹して時を稼げ」
さらに嬉しい知らせが届いた、桶狭間周辺を探っていた梁田正綱配下の間者が、今川の手の者が田楽狭間近くの見通しの良い丘に来て、
「ここに仮の御座所を築こう」と言っているのを耳にしたという、翌日も行ってみると地ならしや伐採、道を広げていたなどそれらしい作業をしていたとのことである
「おそらく今川義元公は、そこまでやってくると思われます、沓掛を出た後の足取りでほぼわかるかと思われます」と報告した
そのころ今川義元本隊は岡崎城に入った、そこで情報を待った
「わが最前線は大高城に鵜殿様1500、鳴海城には岡部様800で守備をしています、さらに前線の笠寺には500が守備して、敵の山崎、中村、星崎の3城と睨み合っていますが、敵も小人数故打って出る様子はありません」
「うむ!ご苦労 明日、朝比奈2000で鷲津へ、松平元康は三河勢1000にて大高城に兵糧を運び入れ、そのあとに丸根を攻めよ
葛山勢は7000を率いて鳴海城に入り、2000を岡部に預け、残る5000で熱田から清州を伺え、途中の小城に1500で備え、主力3500は熱田神宮への川の前にて陣を敷いてとどまること
岡部元信は兵800を鳴海に置いて2000で丹下砦、善照寺砦、中島砦を攻め落とすように
遊軍は1000ずつ3隊、本隊は10000、明日沓掛城に入る、以上が陣立てである。
今申し渡した作戦は19日未明出発の松平勢より始める、それまでの2日間は十分に休養を取り戦に備えよ、敵は小勢だが油断はするな」
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