チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「内山晟の五大陸どうぶつ写遊録」

2016-03-20 12:31:49 | 独学

 111. 内山晟の五大陸どうぶつ写遊録  (内山晟(あきら)著  2009年7月)

 『 一四歳の時、野鳥に興味を持ち、なけなしの小遣いをはたいて「原色野鳥ガイド」を買った。高校時代には、周はじめの写真集「カラスの四季」 「滅びゆく野鳥」などを貪り読んだ。

 動物の写真を撮りたいと思うようになったのはこの頃だった。でも、写真で食べられるようになるとは考えてもみなかった。大学時代、アルバイトで貯めた金で500ミリの望遠レンズを買い、「白サギ」の写真家・田中徳太郎先生に弟子入りした。

 そして大学四年の時に瓢湖で撮ったハクチョウの写真が子供向けの雑誌に採用され、完全にその気になった。二三歳の時である。その後、日本の野鳥と動物園の動物を撮り回るうち、ついに海外取材のチャンスが訪れた。

 一九六九年一二月、ガラパゴスに向けて飛びたった。一ドルが三六〇円、五〇〇ドルしか持ちだせない時代だった。その写真が、本格的な動物写真家として歩き出すきっかけになったのである

 以来、カメラの向くまま、気の向くまま、動物を求めて五大陸を飛び回り、気がつけば四〇年がたっていた……。 』 (”はじめに”より)


 本書は、著者の四十年にわたって世界を旅して撮った動物たちの写真集です。そして、その一枚の写真を撮るための旅のお話です。ここでは、その中から南極にいるコウテイペンギンをとるために出かけた南極への旅の話を紹介いたします。躍動する動物たちの写真はここでは、紹介できませんが、それにまつわる旅の話を読んだ後に、それらの写真を見るといっそう感懐深いものになると思います。


 『 私の事務所を訪れる編集者は「氷上にいるペンギン」を求めていた。世界に存在するペンギンは十八種類、その中で南極にいるペンギンはアデリーペンギンとコウテイペンギンだけだ。

 それも、氷の上で繁殖するのはコウテイペンギンだけだと言っても、彼らは納得しなかった。そのうち私自身もコウテイペンギンを見たいという思いが、日に日に強くなっていった。

 一九九七年一二月、南アフリカ共和国の港町ポートエリザベスへ飛んだ。そこから船でインド洋を越えて南極のコウテイペンギンのコロニーのうち三つを訪ね、オーストラリアのパースで終る、三二日間の船旅だった。

 私にとって四度目の南極取材だが、「皇帝」に謁見しにいくのは、実は初めてだった。出港して二日もすると、甲板に出ているのも辛いほど寒くなった。

 南緯四六度~四九度に位置する、ロイヤルペンギンやオウサマペンギンのコロニーがあることで有名なクロゼ島やケルゲレン島に寄る頃には、あまりに乾燥している空気に喉が痛んだ。

 ダイニングルームからレモンのエキスや蜂蜜を盗んできて飲むものの、一向に改善されず、南極の本番を思うと不安が募った。暴風圏に突入した時の船の揺れは、それまで体験したことのないほどのものだった。

部屋の椅子は鎖で床に固定されていたが、座っていても吹っ飛ばされた。寝ている時も、ベットの縁にしがみついていないとベットから放り出された。裸で寝ていて、落ちた途端に絨毯で膝を擦りむいたりもした。

 それでも三度三度の食事にはダイニングルームに出かけた。そんな時だから、出てきたのは、九〇人を超える乗客の中でも三割もいなかったと思う。テーブルクロスには水がかけられていた。こうすると器が滑っていかないのだった。

通路を歩くにもコツがあった。坂道を歩く要領で足を踏みしめていないと、つんのめったりひっくり返ったりしていまう。これに左右の揺れが加わるのだから、想像を絶する体力が必要なのであった。

 あまりの揺れの凄まじさに、腰を痛める者が出始めた。私も例外ではなかった。こんなこともあろうと、塗り薬と湿布薬をもっていたが、その噂が船の上を駆け巡り、何人もが私の部屋にやってきた。

 たいていの場合、患部に貼るようにと言って湿布薬を渡していたのだが、一人ドイツ人の若い女性には、親切な私だから、彼女の腰に手ずから貼ってやったのはいうまでもない――。 』


 『 何日も続いた揺れもようやくおさまり、我々を乗せた砕氷船は、流氷をかきわけながら氷原に入った。それまで乗ったことのある船は普通の客船ばかりだったから、初めて乗った砕氷船は、何か頼もしい気持ちがした。

 見渡す限りの氷の海に入り込むのも初めてだった。とうとう南極に着いたのだ。翌日、いよいよコウテイペンギンのコロニーに行くことになった。船に積んできた二台のヘリコプターが、何往復もして、乗客たちを船からコウテイペンギンの繁殖地のある内陸部に運ぶ。

 ヘリコプターに乗り込むのはABC順だからUchiyama は最後の方だった。防寒具に身を包んで機材を背負い、橇を片手に甲板でひたすら待つしかなかった。

 しかし、三〇分あまりの飛行中、ヘリコプターから見下ろす景色は想像を絶するものだった。白一色の中にそびえる巨大な氷山を見つめていると、感激で涙が込み上げてきてならなかった。人目もはばからず、おいおいと声を上げて泣いた。

 ヘリコプターがクロア・ポイント・コロニーに降り立つと、一〇羽ばかりのコウテイペンギンが出迎えに現われた。憧れに憧れた皇帝に謁見するような気持ちで、またまた涙があふれた。

 こんな感激を味わえる自分は幸せだと心から思ったし、この時ほど、この仕事に就いたことに誇りを感じたことはなかった。巨大な氷山の下にはたくさんのコウテイペンギンがいた。

 私は親の足下にいる小さなヒナを探しまわったが、残念なことに皆大きくなっていた。ガイドに聞くと、「別のコロニーにいるかも。メイビー(たぶん)」という返事が返ってくるだけだった。

 最終のヘリコプターが出るギリギリまで探しまわった。白夜とはいえ、太陽が地平線に近くなるときの寒さは尋常ではない。私の失望感に追い討ちをかけるように、寒風が吹き荒れた。

 結局その旅の間、ヘリコプターで南極大陸に上陸したのは四回だけだった。訪ねるコロニーのどこにも小さなヒナはおらず、綿毛から換毛した親離れ直前のものが多かった。

 一二月では遅過ぎたのを知った。南極の雰囲気を堪能し、コウテイペンギンをひと目見るだけで満足している人が大多数を占める中、しょんぼりしているのは私だけだった。

 大陸を離れた船では、往路催されたパーティーや楽しい催しはなくなり、ただひたすら航海するだけだった。いつしか氷山も見えなくなった。そうして帰り着いたオーストラリアのパースは異常な暑さだった。

 旅の間親しんだ人たちとの別れは、信じられないほどにあっけなく、私は疲れと、小さなヒナの写真を撮れなかったという虚しさだけが残ったのだった。 』


 『 その後、日本で悶々とした日々を送っていた私に、アメリカのコロラド州ボルダ―で旅行社を経営する友人から、面白い旅が見つかったとの知らせが届いた。一九九八年の真夏のことである。

 料金はそれまでの船旅よりもかなり高いものだったが、コウテイペンギンへの思いはますます募っていたので、老後のための蓄えを吐き出すことに躊躇はなかった。

 一〇月下旬、チリの最南端の港町プタンアレナスへ飛んだ。同行者はアメリカやドイツ、オランダなど様々な国から集まった十数人。コウテイペンギンの写真を撮る者、南極の最高峰を目指す者などである。

 ここから輸送機に乗り、まずは南緯八〇度、南極点から一〇七八キロの地点にあるベースキャンプへ飛ぶ。さらに軽飛行機に乗り換えてコウテイペンギンのコロニーへ向かい、一〇日間のキャンプ生活をするというツアーだった。

 飛行機は車輪のまま氷の上に着陸するため、南極の天気がよく無風でなければ出発できない。その日を皆、ただひたすら待った。日本から三日かけて来た私にとって、一日や二日は時差ぼけ解消にちょうどよかったが、三日もたつと焦燥感が募ってきた。

 遅くなればなるほどヒナが大きくなってしまう恐れがあったからだ。ましてやここでの滞在費は自前なので、余計に身の細る思いがした。待ち続けること一週間、その朝、ようやく「天気回復、夕方空港集合」の知らせが届いた。

 機内に預ける荷物は二〇キロまでは無料だが、オーバーしたものについては一キロにつき六〇ドル払わなければならない。ただし、なぜか寝袋はその限りではないというので、重いレンズや三脚は寝袋の中に巧みに隠した。

 防寒具はできる限り着こみ、首にはカメラを吊って、ポケットや防寒靴の隙間にはバッテリーやフイルムを押し込んだ。誰もが着膨れした格好をして顔を見合わせ、ニヤリと目配せをし合った。皆、計量したら二〇キロ以内だったのだ。

 ハーキュリーという名の四発プロペラの輸送機は、中は骨組みもむき出しで防音装置も何もない。後ろ半分は荷物が山済みされ、トイレはカーテンで囲われているだけだった。

 防寒具を脱いでホッとしたのも束の間、配られた耳栓をつけていても、爆音の凄まじさにみな驚かされた。夜中に飛び立った飛行機は、一寝入りして見下ろすと、白一色の世界に飛んでいた。 』


 『 ベースキャンプは、ダイニングルームとなる大きなテントと、いくつかの二人用のテントで構成されていた。寒かった。寒暖計は氷点下二〇度を指していた。

 トイレは、男子の小便用はブルキの漏斗がついたドラム缶が置いてあるだけ。女性用は狭い小屋のバケツでしたものをドラム缶にいれる。大便のほうは、一応ドアの付いた囲いがあり、便座を付けた大きなバケツで用を足し、丈夫なビニール袋に溜める仕組みになっていた。

 南極条約により、出したものはすべて本土に持ち帰るきまりなのだ。寝ている時にトイレに行くのは大変だった。狭い空間で防寒具を着て防寒靴を履くのは面倒で、ついギリギリまで我慢するのでなおさらだった。

 テントの中でおしっこをするためのピー・ボルトを配られたいたが、一人だったらいざ知らず、他人がいる空間でははばかれた。風の強い日にドラム缶の穴を目がけておしっこをしたら、飛沫になってズボンにまつわりついたがすぐに凍っていった。

 食事は、決められた時間内で三々五々、ダイニングルームのテントに集まった。暖房用のストーブがあるが、床は凍りついていた。夕食にはテーブルごとに箱詰めの赤白のワインが出た。

 私は吞兵衛のあまりいないテーブルを選んで座ることにしていた。そのほうが量が飲めるからだ。極地での活動を支えるため、食事は見た目にもカロリーの高いものだったが、それでも腹が減り、人一倍飲んで食った。

 日本に帰って体重を量ってみたら、三キロ以上減っていた。あれだけ好きなように飲み食いしても体重が減るのだから、南極の旅は「究極のダイエットツアー」なのである。

 本来、それは本土を発ってから一〇日間のツアーのはずだった。しかし、一〇日を過ぎても一行はまだ、ベースキャンプで待機していた。

 そこから我々を乗せて飛び立つ予定の双発の飛行機は、車輪の代りに橇をはいているとはいえ、出発地と到着地両方の天候が良くなければ飛び立つことができないのだ。数年前、天候が好転せずに行けなかったことがあると聞くと、不安にさいなまれた。

 客の中にアメリカ人の外科医がいたのだが、このままコロニーに行ったら11月中旬に予約された癌の手術に間に合わないといって、泣く泣く次の便で帰ることになってしまった。でも、その便がいつ本土から来るかさえ、誰にもわからないのだ。

 ある日の一七時、突然出発すると知らされた。出発はいつも「突然」なのだ。テントをたたみ、寝袋をまるめ、撮影機材を持って飛行機に飛び乗った。

 極地の天候は変わりやすいから、このチャンスを逃すと次はいつ出発できるかわからない。一緒に行けないドクターは寂しげに我々を見送ってくれたが、その時の私には同情する気持ちの余裕はなかったように思う。 』


 『 パイロットや整備士、ガイドを含めた総勢一四人の一行が南緯七六度三〇分西経二九度にあるドーソン・ランプトン・コロニーに降り立ったのは、午前一時だった。

 飛行機が停まるとすぐに数十羽のコウテイペンギンが集まってきた。歓迎を表明するためか、はたまた単なるミーハー的野次馬か。真夜中というのに誰も眠いと言わず、テントの設営は後回しにして、二キロ離れたコロニーへと先を競うように向かった。

 私は今回も、まだ親ペンギンの足の甲の上にいるような小さなヒナをひたすら探しまわった。今度こそ、何としてでも、そんなヒナを撮るつもりだったのだ。

 ほとんどが三〇センチほどの大きさに育っていたのだが、ようやく一羽見つけた時にはとてつもなく嬉しかった。と同時にホッとした。それからは、氷点下二〇度の寒さの中、ペンギン三昧の生活が始まった。

 白夜だったから、昼夜関係なく好きな時に食べ、好きな時に寝て、それ以外はひたすらコロニーでペンギンと向き合った。腹這いになって糞にまみれながらペンギンの側にいるのが、何よりも楽しかった。

 ひとたびブリザードに見舞われれば、五、六メートル先も見えなくなった。帰り道を見失うといけないので、目印に旗のついたポールを立てながら進んだ。

 フィルムが割れるような寒さの中で、暖をとるために身を寄せ合い、大きな一つの塊となっているヒナたちを撮った。一週間もたつと食料が尽き始めた。パンも卵もなくなった。パンケーキにビスケット、硬いチーズを削って、お茶を飲んで飢えを凌いだ。

 辛かったのはトイレだ。ベースキャンプでは少なくとも囲いがあったが、ここでは吹きさらしだった。防寒具を脱ぎ、尻を出すのが面倒だった。

 面倒だからと行かなかったため、便秘になって大騒ぎをするはめになったのは私だけではない。時には好奇心の旺盛なペンギンが覗きに来るのにも困った。

 南極では氷を溶かして水を作るので、水は貴重品だ。顔も洗わないでいたある日、鏡を見たら、寒さと乾燥で皮が剝けてぼろぼろになった汚い顔が映り、我ながらゾッとしたのだった。 』


 『 滞在予定日の終わりが過ぎても天候が悪く、そのうえフィルムも底をついたのか、誰もがテントから出てこなくなった。かといって、一人でコロニーに行くのは危険だ。

 写真を撮れずに悶々としていた夕方、晴れ間が見えた時にまたしても突然出発することになった。帰れると聞き、皆勢いよくテントから飛び出してきた。

 狭いテント生活と乏しい食糧にウンザリしていたのだ。荷物をすべて積み込み、発つ間際にまた雲が出てきた。間一髪、危ないところだった。

 ベースキャンプに辿り着くや、吞兵衛の私はワイン片手に餓鬼のように食べまくった。何を食べても美味しかった。しかし本土からの迎えの便はいつ着くとも知れない。再びひたすら待つ日が続いた。

 白夜の世界でもう朝だか夜だかわからなくなったある日、飛行機が本土を飛び立ったという報が入った。ダイニングルームのテントの中にワッと歓声が上がり、誰からともなくワインで乾杯が始まった。数時間後、爆音が聞こえるや皆一斉に飛行場へと走った。もう待ちきれなかったのだ。

 三週間ぶりにプンタアレナスのホテルに帰った途端、「すぐに部屋に入って!」と怒鳴られた。改めて着ているものを見たら、ペンギンの糞だらけで強烈な臭いも発していたのだ。

 部屋に入るやすぐに裸になって風呂に飛び込んだ。三週間着たきりだった下着からもひどい臭いがした。シャンプーは全く泡立たず、水も黒く濁った。バスタブの水を取り替えること三度、ようやく澄んだお湯にのんびり浸かることができたのだった。

 長くても二週間で終るはずだった旅は、結局四週間になった。小さなコウテイペンギンのヒナをこの目で見るという夢は、五度目の南極取材にしてようやく夢は叶ったのだ。この旅は、今でも私の誇りである。 』 


 本書は写遊録とありますように、写真家としての仕事であり、究極の遊びの記録です。南極で撮った氷山とコウテイペンギンの群れと青空の写真は美しいものです。船で南極に行くには、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を通らなければなりません。

 チリの最南端から飛行機で行っても、気象条件が整わなければ、出発できません。真夏でもマイナス20度の中で、小便と大便をしなければならず、迎えの飛行機が来なければ、帰ることもできません。

 遊びも究極になるとある種のぎょう(修行)を乗り越えなければ、すばらしい遊びの世界には到達することは、出来ないのではないかと感じました。(第110回)


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