チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「マタギ」

2016-03-05 10:00:06 | 独学

 108. マタギ――矛盾なき労働と食文化  (田中康弘著 2009年4月)

 今回も「チェンジング・ブルー」と同じく、成毛真著の「面白い本」に紹介されていた一冊です。では、まず「面白い本」の話から始まります。

 『 「マタギ――矛盾なき労働と食文化」はカメラマンでもある著者が、いまや失われつつあるマタギの生態に迫ったフォト・ドキュメンタリーだ。読み進めるにつれ、マタギの生き様が日本人の忘れつつある生命観を呼び覚ます。

 かつて日本人は、自然を畏れ、敬いながら生きてきた。狩りの獲物にも、人間のための「食べ物」としてではなく、自然から「命をいただく」という姿勢をもって向かい、ありがたく供養してきた。その精神性がマタギの狩りには脈々と受け継がれているのだ。

 目を奪われるのは迫力の写真とともに綴られる「けぼかい」と呼ばれる熊の解体作業だ。まずマタギたちは熊の魂を鎮め、山の神に感謝するために祈る。そして高価で取引される毛皮を剥がし、全身を解体する。

 鮮やかに写し撮られた、自らの生を堂々と与えんとする皮膚のない熊の姿には威厳すら漂う。脂は「熊の脂」に、胆のうは「熊の胆」として薬になる。捨てる部分は一切ない。

 マタギはいまや一般人と同様に会社勤めをし、学校に通っているものの、その精神文化を受け継ぐため、熊狩りをいまも行っているという。熊はマタギにとって命をつなぐものであり、その狩りは人をつなぎ、さらには人が自然とつながる術なのである。 』 (面白い本 成毛真より)

 本書は、カメラマンである著者が、秋田県阿仁町で、ウサギ狩り、岩魚釣り、天然舞茸を追う、熊狩り、鍛冶屋西根正剛の袋ナガサ……と行動を共にした写真集であるから、写真だけを見ても、感動が伝わってきます。

 私はうすうす感じてましたが、一流の写真家は文章も上質です。このブックハンターでも、写真家の本をずいぶんと紹介してます。「面白い本」で成毛真は、「チェンジング・ブルー」に負けず劣らず、このように絶賛してます。

 

 『 私は廃村寸前の集落を取材したり、自給自足の生活を目指す人たちの写真を撮っていた。元々が九州の田舎人であり、大学も島根県の田舎大学農学部出身のカメラマンで、バブル経済が終わりを告げた1990年代初め、私の稼ぎは知れたものであった。

 そんなある日、暇だったので某雑誌の編集部に遊びにいった。「最近面白いことあった?」 いきなり仕事をくれとは言いにくい、これはそんな時の常套句である。

 「うーん、マタギの鍛冶屋さんの所に行ったけど」 マタギ? マタギて山猟師みたいなものだったかな。 マタギに対してはその程度の認識しかなかった。しかし ”マタギ” という言葉の響きは妙な力を持っていたようで、この日から私はマタギとの不思議な縁に導かれるのである。

 初めてマタギの里へ行く日がやって来た。ある雑誌にマタギの企画を持ち込み、それが採用されたのだ。旅費が出るこの取材は、仕事が少ないカメラマンにとっては大変有り難い話である。

 目指すは秋田県阿仁町(あにまち、現北秋田市)。田舎系自然系の取材をメインとしているカメラマンであるにもかかわらず、私はそれまで秋田県には行ったことがなかった。

 秋田初体験がマタギの取材である。東北自動車道を盛岡まで北上、そこから一般道で田沢湖を抜けて、国道105号線を真っ直ぐに阿仁を目指す。広葉樹の森がうっすらと色付き始めた10月初旬のことである。

 慣れない道に8時間以上かかってやっと阿仁町に入った。比立内(ひたちない)という集落が、今日の宿があるところだ。調べると、阿仁町にはこの比立内と根子(ねっこ)、そして打当(うつとう)というマタギの集落が三ヵ所あるようだ。

 泊まる所は集落の中程にある松橋旅館という宿で、玄関を入ると熊の剥製や敷き皮が沢山置いてある。さすがはマタギの集落だと感心していると、やはりここの主人はマタギだった。ずらりと並んだ熊達も全部自分で仕留めた獲物らしい。

 一泊二日というタイトなスケジュールで旅館の主人や役場の人、そしてマタギの鍛冶屋さんの取材をこなした。帰りの時間を考えると午後3時過ぎには阿仁を出なければならない。まさに駆け足の取材であった。

 この時の取材ではマタギについてはよく分からなかった。町中で会う人に話を聞くと「マタギ? マタギはもういね(いない)」と何回か言われたのだ。至る所に”マタギの里”という看板があふれているのに、そのマタギがいないとは一体どういう意味なのだろうか。

 マタギがいなければ、旅館の主人や鍛冶屋さんは一体何だというのだろうか。実に不思議な話である。マタギについてはよく分からない取材だったが、ただひとつ心に残る台詞があった。それは鍛冶屋さんの次の言葉だ。

 「マタギにとっては一日40キロなんて日帰りの距離っすべ」 一日40キロ! それも山での話である。山の中を40キロも歩き回るのはのは、精神的にも体力的にも驚異的だ。体力に自信のない私は、その一点だけでもう尊敬してしまう。

 しかし、マタギは何故そんなに山を歩くのだろう? 何故そんなに歩けるのだろう? 見たい、知りたい、一緒に山に入りたい。帰りの車の中で少しずつそんな気持ちが強くなっていくのであった。

 マタギと一緒に山に入りたい。そんな願いをかなえて叶えてくれたのは、印象深い言葉を言ったマタギの鍛冶屋である西根正剛(まさたけ)氏だ。彼は初めて阿仁を取材で訪れた時から快く迎えてくれた。

 「あの、また遊びに来てもいいですか? 出来れば山にも行きたいんですが……」 取材の帰り際、西根氏に恐る恐る伺った。「どうぞどうぞ、いつでも来てください」

 私はこの答えで、西根氏を勝手に山の師匠と決めつけたのである。そして、ここからマタギとの数々の冒険(私にとっては)が始まった。 』

 

 『 マタギは非常に特殊な狩猟集団だ。日本国中に山漁師は存在するが、実はマタギと呼ばれる人々は限られた地域にしかいない。北東北から長野県北部の雪深い山間部にマタギ集落は点在している。

 マタギは猟をするが、決して職業猟師ではない。マタギに限らず、現代日本国中に猟師を生業としている人は皆無に近いのである。これを初めて聞いたときには驚いた。

 てっきりマタギは狩猟を生業としていると思い込んだいたからだ。ところが、実際には狩猟法で猟期や獲物が限られているので、猟で生計を立てるのは極めて難しい。

 ではマタギ達は何を生業としているのか。ある人は旅館であり、ある人は工場勤めであり、またある人は公務員なのである。つまり我々と同じ、ごく普通の社会人という訳だ。もっとも私はごく普通の社会人とは言い難いが。

 古のマタギは、鳥も獣も山のすべての生き物を狩猟対象としたきた。今では狩猟対象外である特別天然記念物のニホンカモシカさえ、マタギにとっては有り難い山の恵みだった。

 昔のマタギが狙う獲物はというと熊、ウサギ、テン、キツネ、アナグマ、サル、カモ類やヤマドリなどである。しかし、毛皮の需要がほとんどなくなったテンや狐などは狙う人も少なくなり、今は熊、ウサギ、ヤマドリやカモ類が現在のマタギ達の獲物である。

 現在のマタギ達にとっても古のマタギ達にとっても、最大最高の獲物はなんといっても熊である。実際にマタギが狙う熊は、月の輪熊で、大物でも100キロほど、平均で60~80キロ前後である。 』

 

 『 いまは魚でも肉でも綺麗にパック詰めされている。それが命あるものだったとは、感じさせない妙な工夫が施され、単なる食材としてしか意識されない。食肉は特にそうだ。

 まず命を奪うことから始まり、血と脂の中で解体されていく行程がまったく隠されているのだ。果たしてこれは正しいことといえるのだろうか。私はそう思えない。

 他者の命を頂くことで人が生きていくという大切な行為は、狩猟の中にそのすべてを見ることが出来る。ぜひ見たい。それもマタギ最高の獲物である熊ですべてを確認したい。

 その為には、一緒に熊狩りに行く必要がある。しかし、阿仁地区猟友会はマスコミ関係や素人の参加を基本に認めていない。それは危険であると同時に、思想を異にする人々からの抗議が予想されるからだ。

 これには阿仁地区猟友会も頭を痛めている。私も一度真正面から猟友会に取材依頼をしたが、にべもなく断られた。そこで猟が無理なら解体の現場だけでも立ち会えないものか考えた。

 マタギは熊の解体の作業を ”けぼかい” と呼ぶ。ぜひ、けぼかいが見たい。猟に行くには体力的に保たないだろうし……。根性無しの代表である、私は。

 ある初冬の朝、それは西根師匠からの電話で始まった。「今朝、熊獲れたども、田中さんどうする?」 えっ! どうするもこうするもない。「もちろん、行きます!」 このひと言だけを伝え、電話を切る。

 電話を受けたのは朝の十時。昼に入っていた予定をすぐさま取り止め、大急ぎで荷物をまとめて車に放り込むと高速道路に飛び乗った。休息もろくに取らずひたすら走り、西根師匠の家に着いたのはぴったり午後六時。

 着いてみると、家の前に熊が万歳をするような格好で吊るしてあった。これは凄い、大迫力。その大きさには圧倒される。聞けば、体重100キロ超の雄の熊だという。

 西根師匠の家は道路に面しているので、これがまた目立つ。どんな看板よりも人目を引き付けるのは間違いない。実際、わざわざ車を止めて写真を撮る人が何人もいたらしい。

 大熊が獲れたことはあっという間に町中に知れ渡り、あちこちからお祝いのお酒が届いている。猟の仲間も仕事を早仕舞いして駆けつけて来るし、何か祭りの始まりみたいでそわそわする。 』


 『 本来は熊が獲れたら直ぐに解体するものである。しかし、私が前々から「けぼかいを見せてくれ」と頼んであったので待ってくれていたのだ。けぼかいで最初に行うのは、祈ることである。

 熊の魂を静め、この熊を授けてくれた山の神に感謝をする。仰向けの熊の頭を北に向け、御神酒を手向けて塩を盛る。 「あぶらうんけんそわか」 呪文を唱え、しばし祈る。

 この呪文はマタギが山に入る時に必ず唱えるものであり、また山中でも何か不吉な感じがすればすぐに口にする。儀式の間中、周りの者達は神妙な面持ちだ。

 これが済んでから初めて熊の肉体にナガサ(マタギ山刀)が入る。まず喉元から胸に掛けて一直線に、そして四肢の内側にも切り込みを入れる。ここから服を脱がすように丁寧に皮を剥がしていく。

 見ていて、この作業は非常に神経を使っているのが分かる。熊の胆と並んで、毛皮は換金性が高いので穴でも開けたら台無しだ。いくら手際のいいマタギでもこの作業は大変そうだ。

 特に冬眠前の熊なので皮の下にはかなりの脂肪を蓄えていて、これがぬる付いて時間がかかる原因となっているのだ。体をぐるっと回しながら全身の皮を剥ぎ取る。

 背中にはかなりの量の脂が付いている。背脂という物だろうか。脂は、背中のものも皮に付いたものも丁寧にこそぎ落していく。これは ”熊の脂” という立派な薬になる。

 丁寧に皮を剥がされた熊は、まるで人間のように両手(前足)を空中に突き出している。これがまた凄い筋肉だ。熊の力は人間を遥かに超えているそうだが、見れば納得である。

 皮を剥がれた頭部は、よく見ると意外に細い。熊の顔は丸いように見えて実は細面だったのか。すっかり皮を剥がし終えると、足首を外してから腹を裂いていく。

 喉元から骨盤まで断ち割るように切り終えると、今度は内臓を取り出す。仕留めてから解体までに時間がかかったせいで、腸内が発酵して風船のように膨らんでいる。内臓の中でも肝臓と胆のうは薬効があるから特別扱いだ。

 肝臓は薄くスライスしてあぶり焼してもいいし、乾燥することも出来る。内臓の中から肝臓は直ぐに取り出したが、胆のうがまだ見つからない。掻き分けるようにして探すと、縮こまった胆のうがやっとあった。

 「こりゃあ、小さいな。まあ冬眠前だからしょうがないべしゃ」 聞けば、上質の熊の胆は冬眠明けの熊から採れるものらしい。冬眠中に胆のうが大きくなり、胆汁をたっぷりと蓄える。

 だから春熊からは水を入れた風船のような胆のうが手に入り、立派な熊の胆のうができるのだ。今回は冬眠前の秋熊であるため、残念ながらしぼみきった胆のうしかなかった。

 すっかり内臓を取り出すと、熊の胴体にぽっかりと穴が開く。この腹腔に溜まる血をおたまで掬い取る。意外と少ない。この血液も昔は大事な商品だった。乾燥して粉末にした熊の血は婦人薬として重宝されてきた。

 脂、血液、骨、肝臓、胆のう、これらは大事な薬であり、重要な山里の収入源だったのである。内臓を処理し終えると、四肢を切り外して枝肉と胴体に分ける。そこからさらに肉だけの部分と骨付き肉とに分けるのだ。

 残っている肉をナガサで丁寧にこそぎ落すと、あばら骨がまるで開いた葉っぱのように見える。最後に残った太い骨は小振りの手斧でバンバンと断ち割っていく。こうして熊は赤肉、骨付き肉、内臓に姿を変えた。

 後にはべろーんと伸びた皮が血と脂に光っている。この上にたっぷりと塩を掛けてからくるくるっと丸めて、解体全行程は約二時間で終了した。

 以前、食肉加工工場で豚の処理を見たことがあるが、基本は同じ。処理場が分業制でオートメーション化された肉の工場なのに対して、マタギのけぼかいは家内制手工業である。 』


 『 けぼかいが済むと、次は肉の配分である。今回は巻狩りの末に手に入れた獲物ではない。西根師匠が見つけて仲間三人と追い、仕留めた熊だ。それでも独り占めしないのがマタギの作法である。

 巻狩りの時でも同じ決まりだ。勢子もブッパ(鉄砲打ち)も同量の肉を手にする。さらに参加できなかった仲間にも肉を分ける。これを ”マタギ勘定” という。

 100キロ超の熊からは、30キロ程度の肉が取れる。熊の胆や皮のように、換金性が高く分けられない物に関しては入札にかける。食べる分は完全に平等だ。

 ある時テレビ見ていたら、極北の狩猟民族が同じやり方で肉を分けていた。 「マタギ勘定だ!」 思わずテレビの前で叫んだ。マタギ勘定は狩猟民の素晴らしい知恵なのである。

 一部の人間だけが腹一杯食い、残りはカスをしゃぶっているといった状態で、狩りという危険な共同作業をやれるわけがない。だから、体調が悪く猟に参加出来なかった仲間にも同量の肉を届ける。

 明日はわが身である。相互扶助の精神が素晴らしい。これは小さな共同体を守っていく知恵なのだ。今は食うに困らない時代であるが、マタギ勘定はしっかり生きている。

 西根師匠は、均等に分けられた肉の塊をビニール袋に入れると「これは田中さんの分」と差し出してくれた。マタギ勘定の中に入れてもらえて最高にうれしい。 』


 『 マタギや山の民の生活に興味があるが、熊を殺して食べるのは許せないという人が結構いる。まず言っておくと、マタギは欧米のハンター達とは違う。欧米のスポーツハンティングは豊かな階層の遊びであり、ただ殺すのが目的である。

 人間より遥かに巨大だから殺して自慢する。珍しいから殺して自慢する。殺生それ自体を楽しむために、あらゆる生き物を狩りの対象にしてきたのだ。それらとマタギを同じハンターと考えることが間違っている。

 特に欧米の作り上げてきたシステムがいかに自然を痛めつけるものだったか。近代文明がいかに傍若無人に振舞ってきたか。エコロジーという考え方はつい最近出てきた話である。

 しかし、マタギや山の民は大昔からエコロジカルな生活をしてきた。そんな山の民の生活の一部である熊狩りを、山里の暮らしがなんたるかを知りもせず、また知ろうともせずに異を唱える人達がいる。

 可愛い熊を殺すとはけしからん、許せんと。そうした人々から自分たちの生活形態を守ろうとしたその結果、マタギ里の猟友会ではマスコミを排除する方向に動いたのである。

 しかし、これには賛成しかねる。積極的に宣伝する必要はないが、ことさらに隠す必要もないと思う。 「何故、熊を撃つのだ」 こう言われたら、きちんと主張すべきである。ただしその時に ”伝統” ”文化” のみを強調するのは間違っている。

 伝統や文化は時代の流れの中で生まれて変化し、場合によっては消えていくものなのだ。マタギという集団がその家族を認識する為の重要な行為が狩猟であり、アイデンティティーの一部なのである。

 そのことを抗議する人達にきちんと説明すべきだ。人間は決して一人では生きていけない。必ず何らかの集団に属している。その手段が結びつくための大事な結束材料が、マタギの場合は狩猟なのである。

 古来、日本人は自然を敬い恐れてきた。決して自然を征服しようなどと考えず、その力を上手く利用し、折り合いをつけようとしてきた。すべてのものに人知の及ばない力を感じ、神として敬った。

 山にも川にも海にも木にも石にも田にも畑にも便所にすら神をみていたのだ。ヨーロッパ文化圏の多くでは神はキリストだけであり、まして自然の中に神を感じることはない。

 彼らがよく高山などで神を見たなどという時の神もキリストのことであり、決して日本人の言う神的なものではない。元々彼らにとって自然は脅威以外の何物でもなく、出来れば徹底的に人間の都合のいいように変えてしまいたかった。

 森は悪魔の棲家であり、神々がいる場所ではない。とてつもなく巨大な鯨も海の悪魔として長く描かれ続けたではないか、脂を取ったら後は捨ててしまう彼らのやり方と、すべてを利用させてもらうと考えて鯨の魂をきちんと供養してきた日本人。

 動物は神が人間の為に作ったものだから、殺しても、その為に絶滅しようとも構わないと考えていた欧米文化。いったいどちらがエゴイストであったのかは歴然としている。 』 (第107回)


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