38. 翻訳に遊ぶ(木村栄一著 2012年4月発行)
『 新学期がはじまる前に、高橋先生に呼ばれて大学へ行った。研究室をのぞくと、「どこかで食事でもしようか」と言われて、三宮にあるレストランへ連れていっていただいた。
最初はどんな話が出るのだろうと不安だったが、先生から思いがけず身に染みる、いい話を聞かせたいただいた。
「木村君、いよいよ四月から授業がはじまるが、教壇に立ったらひとつだけ、絶対にしてはいけないことがある。それは嘘をつくことだ。
授業をしていると、質問されて分からなかったり、答えられなかったりすることがある。そういう時、その場しのぎにいい加減なことを決して言ってはいけない。
嘘をつくと、それを糊塗するために嘘に嘘を重ねざるを得なくなる。それがどんどん膨れ上がって、やがて収集がつかなくなる。T大学のM君を知っているだろうか?」
M先生と言えば、当時のぼくから見ればはるか雲の上の方だったので、はい、お名前は存じ上げていますと答えた。
「あの子は(ちなみに、M先生は高橋先生の教え子のあたる)はそんなに頭は良くなかったんだ。だけど、先生になってから、授業では決していい加減なことを言わなかった。
分からないところが出てくると、分かりませんと正直に言って、そのあと自分で調べたり、ほかの先生方に尋ねてから答えを返していた。語学の先生にとってはそれが一番の勉強になるんだ。
今のM君があるのはそのおかげだよ。教師というのはそんなに頭がよくなくても勤まるものだ。少々頭が悪くても、十年辛抱すればいい。十年間我慢して勉強すれば、誰でもそれなりに一人前の教師になれる。
だから、君も教室で嘘をつかないように心がけて、辛抱しなさい。そうそう四月からの授業は専攻語学の二年生の購読と研修語学のクラスをもってもらうことになっているので、準備をしておきなさい。語学の先生は教えることが何より勉強になるからね」
スペイン語を四年間勉強しただけで、専攻語学の二年生を教えるというのは精神的にかなりきつかった。 』
『 ある日大学のパーラーへ行くと、学生が近づいてきて、「先生、あそこにメキシコ人が迷い込んできたんですが、ぼくのスペイン語では手に負えないんです。代わりに話しを聞いてやってください」と言った。
ぼくのスペイン語能力は君とあまり変わらないんだとも言えず、仕方なくそのメキシコ人のところへ行って話しを聞いてみると、禅を学ぶために来日したが、言葉が分からなくて困っている、よかったら空いた時間に日本語を教えてもらえないだろうか、とのことだった。
そこで、ラウルという名のこのメキシコ人が宿泊している大学近くの禅寺に週に二回ほど行って、彼の僧坊で日本語を教えはじめたが、当時は日本語学習用のテキストがあることも知らなかったので、口頭で会話をはじめた。しかし、そのようなやり方でうまくいくはずがなく、すぐに雑談になってしまった。
「スペイン語で何を研究しているんだ」ある日、彼がそう尋ねてきた。「実は、二十世紀はじめのスペイン文学を研究しているんだけど、最近行き詰まりを感じていて、古典に戻ろうかと思っているんだ」と答えた。
「それなら、ぜひラテンアメリカの現代文学をやるといい。今すばらしい作家たちが出てきていて、とっても熱いんだ。そうそう、ここにいい小説がある。だまされたと思って読んでみるといい。
ぼくが日本にきて禅を学びたいと思ったのも、この本のせいなんだ」そう言って、ナップザックから真っ黒な装丁のぞっとするほど分厚い本を取り出してきた。思わず尻込みして、いや、いいよ、とても読めそうにないから、と断ったが、ラウル君は強引にぼくの手に本を押し付けた。
六〇〇ページを超える分厚い本で、しかもアルゼンチンの作家フリオ・コルタサルという名前すら聞いたことのない作家の『石蹴り遊び』という小説だった。受け取りはしたものの、どうせ読めないだろうと内心で思っていた。
家に帰って、これも何かの縁だろうと思って読みはじめたのだが、「ラ・マーガに会えるだろうか?」という最初の一行を読んで衝撃を受けた。
今思えば奇妙な話しだが、当時迷いに迷っていたぼくにとって、何かに出会えるだろうかという一文が啓示のようにひらめいたのだ。あの時、ようやく探し求めていたものに出会えたような気がした。
宗教が失われた現代世界の中で、中心、絶対を求めること自体が無謀な試みとしか言いようがないが、それを探求しようとして苦悩する主人公オラシオ・オリベイラ、感覚、感性を何よりも大切にする恋人のラ・マーガ、この二人の出会いと別離は、当時のぼくにとってはある意味で、文学作品と論文との関係を象徴しているように思えた。
また、この小説に詰め込まれているボルヘスとは位相を異にする作者の該博な知識にも魅了され、夢中になって読み進んだ。
その後、ラウル君に会った時に、今あの小説を読んでいるんだけど、すばらしい作品だね、と言うと、うれしそうな顔をして、そうだろう、ラテンアメリカにはまだまだすごい作家がいる、ぜひいろいろな作家のものを読んでみるといい、という答えが返ってきた。
『石蹴り遊び』を読んで感激したぼくは、すぐにコルタサルのほかの作品も取り寄せて目を通したが、彼の短編集はポーやカフカを彷彿させる幻想性をたたえつつ独自の世界を切り開いており、改めてこの作家はすごいと感心いた。そして、その時点で論文のテーマをコルタサル研究に切り替えることにした。 』
『 翻訳したいという気持ちはあるのに、その力、能力がないという厳しい現実に直面し、どうあがいても抜け出せそうになかった。ちょうどそんな時に共訳の話しをいただいた。
それこそ必死になってやったのだが、結果は惨憺たるもので、暗にこの訳では手の施しようがないと言われて、訳稿を返された。
そう言われても、どこをどう直せばいいか見当もつかず、毎日原稿をにらんでは手を入れてみるのだが、いじればいじるほど訳がおかしくなった。
心身の疲労が溜まり精魂尽き果てたが、それでもどこをどう直せばいいのか分からず、とうとう白旗を揚げて、カミさんに相談してみた。
スペイン語のスの字も知らないカミさんが、「私は文学作品などあまり読んだことはないし、翻訳物は読みにくいという先入観があるので、あまり近づかなかったけど、それでもいいの?」と言った。
こちらは藁にもすがる思いだったので、かまわない、とにかく訳を読んでおかしいと感じる箇所があったら、どんどん言ってくれと頼んだ。
ただ、ぼくの方にも意地があったので、共訳で分担したところを全部見てもらうというのはいささか悔しかった。そこで、その中の詩とエッセイの一部を見てもらうことにした。
訳した原稿を渡し、いったいどんな返事がくるかと息を潜めて待っていると、最初は遠慮がちに、「よく分からないけど、なんだかおかしな、意味の通らない文章ね。お手本になるものはないん?」と尋ねてきた。
翻訳家の大瀧啓裕氏とは昔から親交があって、当時から訳書を送っていただいていたので、カミさんに彼の訳した本をみせると、
「あら、こちらはとても読みやすいわね」という反応が返ってきた。
ぼくの翻訳とどこがどう違うんだと尋ねると、
「こちらは日本語として素直でとっても読みやすいでしょう。あなたのは苦労して訳しているみたいだけど、日本語として読むととっても疲れるのよ。訳文がギクシャクしているし、リズムがまったくないような気がするの」
あれこれ言われているうちに、こちらもいらだってきて、
「じゃあ、いったいどこをどう直せばいいんだ?」と切り口上で言った。
「それはあなたの仕事でしょう。私にできるわけがないじゃない。できるんなら自分がするわよ」と、お互いかなり険悪な雰囲気になってきた。
「いや、ごめん。じゃあ、どこを直していけばいい?」となだめにかかった。
「たとえば、このあたり、やたら《私》、《彼》、《彼女》って出てくるでしょ。日本の小説だと」こんなに出てこないと思うの。
主語や人代名詞がこんなに目ざわりなはずがないわ。それと形容詞も気になるの。原文に忠実に訳しているんでしょうけど、リズムというか、流れがとても悪くてイメージが湧いてこないのよ」
カミさんに指摘された箇所を直して見せると、「うーん、どこか違うのよね。うまく言えないけど、もっと主語が省けない?それとこの形容詞だけど、日本語でこんな言い方はしないでしょう」と言った具合に突き返される。
その繰り返しを何度やったことか、かくして、疲れて時計に目をやるとたいてい午前1,2時を指していた。やっと詩とエッセイの訳がひとつずつできあがった。
それ以外のものは自分で訳し、分担していた分を仕上げ共訳者の方に送ったところ、厳しい評言をいただいた上に、大きく手直しされたが、どうにか本になって出版された。
ああ、やっと本になったと、ほっと胸を撫でおろしたのだが、ある日、新聞を見ていたカミさんが大声をあげた。あの本が新聞の書評に取り上げられていて、仰天した。
ほら、ここ、とカミさんが指差したところを見ると、なんと大喧嘩の末、カミさんに言われて大幅に修正した箇所がわざわざ引用されて、その訳文が褒められていたのだ。
あれはこたえた。
自分が原文と格闘しながら泥沼の中であがき、苦しんだ末に作り出した訳文は、日本語としては箸にも棒にもかからない悪文だったということを思い知らされたわけである。
スペイン語を知らないカミさんの言葉に従った箇所が褒められるというのは、いったいどういうことなんだ、やはりぼくには翻訳はできないんだ、とひどく落ち込んだ。
しかし、スペイン語から日本語に移し換える過程に問題があるのであって、翻訳ができないわけではない、と自分にいい聞かせた。日本語を磨くことだと思い至った。 』
『 若い頃、恩師高橋正武先生と研究室でお茶を飲んでいる時に、面白い話しを聞かせていただいた。
「辞書作りで難しいのは、一つの単語にどういう日本語に移し換えるかということなんだけど、適切な例文を探すのもひと苦労でね。向こうの辞書にも例文は出ているんだけど、これというぴったりのものがないんだ。
いい例文はないかと思って小説や戯曲をずいぶん読んだけど、いざ探してみるとなかなか見つからなくてね。
時々これはいいと思える例文が見つかると、うれしくて抜き出すんだけど、そこだけを切り取ってみると、前後の脈絡がないものだからしっくりこないし、切り取った箇所だけなら、どんな風にでも解釈できるんだ。
結局、文章というのは、文脈の中で意味が決まってくるんだね。だから、辞書におあつらえ向きの、そこだけを切り取っても使えるような例文を見つけるというのはとてもむずかしいんだよ」
この言葉からも分かるように、個々の単語や文章はそれだけ抜き出すと、意味が取れなかったり、なんとでも解釈できる。そうした単語や文章に明確な輪郭を与え、くっきり浮かび上がらせる、つまり命を吹き込むのは文脈であり、時にそれはパラグラフの単位ではなく、ページ、あるいは章にかかわることもある。 』
『 スペイン語、英語、フランス語のように、一人称、二人称、三人称の代名詞がつねにはっきり分かる文章を読んで気がつくのは、主語が記号としての機能しかはたしてないことである。
その意味で主語の比重がきわめて軽く、しばしば主語が省略されるスペイン語でもそれは変わらない。つまり「話し手及び話しの相手を意味する専用の」記号でしかないのである。
それゆえ、主語が入っていても、単なる記号として読み飛ばせるが、日本語の場合は一人称と二人称に顕著に窺えるように、自分と相手を直接名指さないような表現を選び取る傾向がある。
したがって、主語を入れるのは意味に混乱が生じるとか、何らかの形で強調したいとかいった場合なので、ヨーロッパ諸言語とは比較にならないほど重い意味を担っている。
以上のことからも分かるように、日本語の本来の性質として一人称と二人称の代名詞はなるべく省略するか、間接的、迂言的な言い回しを用いる傾向がある。 』
『 鈴木孝夫は、ヨーロッパの文化が、自分、つまり《私》、《ぼく》と相手、つまり《あなた》、《君》との対立を基礎とするのに対して、日本の文化、日本人の心情が自己を消し去って対象に没入させ、自他の区別をなくそうとする傾向が強いとして、日本語の構造の中に、これを裏付ける要素があると言えると述べている。
したがって、日本人は相手の意向を酌んだり、その場の空気を読んで自分の考え、意見をまとめるのを得意とする。
日本人だけの場であればそれでいいが、自分の意見をはっきり打ち出す必要のある国際舞台に出ると、そうした姿勢がさまざまな問題を生むもとになると指摘している。
こうした日本人的な考えが、土井健郎の言う「甘え」の構造に繋がっていくのだろうが、一方で自他の区別を明瞭に打ち出そうとする欧米的な姿勢、つまり明快に他人と考えが違うのだと自己主張をしなければならない文化においては、精神面で大きな問題を抱え込むことになる、と河合隼雄はその著書「ユング心理と仏教」の中で指摘している。
彼は、西欧の近代は自然科学を大いに発達させたが、その背景には自己と他人を区別する姿勢が明瞭に見て取れるとして、西欧の近代を評価しつつも、一方でそこに孕まれている危険性について、次のように述べている。
「近代になって急激に発展した自然科学は、テクノロジーと結びついて、人間が多くのものを操作し、自分の望むところを実現することを実現することを可能にしました。
このため、人間は何でも自分の欲することは手にはいるし、自分の意のままに他を動かすことができる、と思いこみ過ぎたのではないでしょうか。
「科学の知」によってすべてのことが理解され、すべてのことが可能になると思ったのでしょうか。しかし、科学の知の根本にある対象と自己との分離ということを何にでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わざるをえなくなったと思われます。」
河合隼雄は、日本人の精神風土を作り上げた土壌として、本人が意識する、しないにかかわらず仏教的な要素があると指摘している。つまり、西欧と日本では、精神風土、文化の違いがその根底に厳然としてあると言えるだろう。 』(第39回)
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