141. 億万長者の黄金律 (グレン・アーノルド著 峯村利哉訳 2012年1月)
The Great Investors : Lessons On Investing From Master Traders by Glen Arnold ©2011
私が本書を紹介しますのは、これを読めば億万長者になれますからという意味はまったくありません。彼らは結果として、億万長者でありますが、その前に学者であり、哲学者であり、慈善事業家(お金をどのように使えば、社会が良くなるかを考える人)です。
原題には、億万長者とも黄金律ともありません。直訳しますと「偉大なる投資家:名トレーダーから学ぶ投資の教訓」となります。
株式投資は、資本主義の基礎を形づくり、企業の経営内容をオープンにし、投資家が企業を評価し、結果として、社会の未来に対する方向づけを行っていると私は考えています。
株式市場は、常に個々の企業を評価することによって、企業の方向性、社会の将来を導いています。そのために、株式市場は、社会に開かれ、公平で、企業は社会の未来に貢献し、利益を得て、企業価値(株価と信頼)を高め、株主に配当を支払い、国家には税を支払います。
たしかに、20万円の投資と2億円の投資では、利益が出ても雲泥の差ですが、元金に対する割合は同じです。
私のように70歳を過ぎたわがままな貧乏な投資家を受け入れるところはありませんが、わずかな投資額であっても、公平に受け入れてくれるのがオープン・ソエティの象徴としての株式市場の素晴らしいところです。
開かれた社会の未来の価値を形づくる株式市場で、成功した男の生き方と哲学の話として、私は紹介したいと考えました。
この本に出てくる名トレーダーは、以下の八人です。
ベンジャミン・グレアム : Benjamin Graham(1894年~1976年) 20世紀の投資界における最高の知恵者
フィリップ・フィッシャー : Philip Fisher(1907年~2004年) 成長株投資の第一人者
ウォーレン・バフェットとチャールズ・マンガー : Warren Buffett(1930年~) Charles Munger(1924年~) 能力を補完し合う最強のコンビ
ジョン・テンプルトン : John Templeton(1912年~2008年) グローバル・バリュー投資の大家
ジョージ・ソロス : George Soros(1930年~) 投資界の哲学者
ピーター・リンチ : Peter Lynch(1944年~) 最もパフォーマンスが高いファンドマネージャー
アンソニー・ボルトン : Anthony Bolton(1950年~) 地球上で最も優秀な投資家の一人
彼らの中での、直接的な手法よりも、その時代、その国の政治や経済、株式市場、個々の企業をいかに観察し、分析し、矛盾と失敗の中から、自分の哲学を構築し、成功を勝ちえたかを読んでいきましょう。
『 ベンジャミン・グレアムは1894年にロンドンのユダヤ系の家庭に生まれた。一歳のとき、家族とともにアメリカに移住してきた。父親は陶器を商売にしており、家族は楽な生活を送っていた。
しかし、1903年に父親が死亡すると、どんどん家計は苦しくなっていった。収入を得るために、母親は自宅で下宿屋を始め、世帯所得を上げるべく、株による投機に手を出した。
初めはそこそこの利益が出ていたものの、1907年の株価暴落で全財産が失われた。投機は危ないという教訓は、グレアムが投資哲学を築きあげる際、投資の安全性を重視する原動力となった。
もしも、あなたが投資と投機の違いを真剣に考えた経験を持っていないなら、グレアムの生涯にわたる熟考は大いに役立ってくれることだろう。
きわめて優秀な生徒だったグレアムは、さまざまな子供向けのアルバイトをこなしながら、小中高を飛び級で修了した。そして、コロンビア大学に全額奨学生として入学したあとも、パートタイムで働きながら、全科目で優秀な成績をおさめ、わずか2年半で卒業した。
1914年に若干20歳で卒業するころには、コロンビア大学の英語科、哲学科、数学科から教鞭を執るように誘われた。しかし、彼はこれらの誘いを断り、母親の件があるにもかかわらず、いや、母親の件があるからこそ、ウォール街で働く道を選んだ。
証券会社の使い走りから始まったキャリアは、窓口係、アナリスト(分析専門家)と進み、最後には共同経営者にまでのぼりつめたのだった。 』
『1923年、グレアムは同級生たちと〈グレアム・コーポレーション〉を設立した。この会社は2年半のあいだ活動し、高い資本収益率を達成した。
グレアムは固定給と歩合給をもらっていたが、共同経営者たちからいいように利用されていると、自分はもっと高い歩合をもらうべきだと感じていた。
ウォール街での金儲けの仕方について、すべてを知っていると自負するグレアムは、固定給を辞退する代わりに、収益に応じてスライドする20~50パーセントの歩合給をもらいたいと提案した。
この一件は、〈グレアム・コーポレーション〉の解散につながり、〈ベンジャミン・グレアム・ジョイント・アカウント〉の設立につながった。総額40万ドルの出資をしたのは、グレアム自身と彼の旧友たち。
以前に提案した通り、グレアムはスライド制歩合給をもらうこととなった。1929年までに、出資金は250万ドルに膨らんだ。良く知らない相手からの出資を断ってきたにもかかわらず、投資者の数は増えていた。
学生時代から親交が続く友人グループの一人に、ジェローム・ニューマンという後輩がいた。コロンビア大学の法科大学院を出たジェロームは、1926年、グレアムの会社に応募するとき、自分の能力が証明されるまで無給で働くという条件を出した。
グレアムはこの条件を受け入れた。つまり、バフェットよりも高い評価を与えていたわけだ! ジェロームはすぐに頭角をあらわし、このときから始まった2人の関係は、グレアムの引退まで続くこととなる。
2人は親友という中ではなかったものの———グレアムの場合、知り合いは何百人もいたが、親友と呼べる存在は1人もいなかった———仕事面では素晴らしい協調性と実績を見せた。
ジェロームが明晰な頭脳を実務と交渉に役立てたのに対し、グレアムは投資に革命をもたらすような新しい理論と戦略を生み出した。 』
『 グレアムが参入した当時、ウォール街は大変革期を迎えていた。「ウォール街の長老の回顧録(The Memoris of the Dean of Wall Street )」と題した自叙伝の中で、彼はこう書いている。
「草創期のウォール街では、ビジネスはおおむね紳士たちのゲームであり、複雑なルールのもとでプレーされていた」。
紳士たち! 当時のウォール街では、いかにしてインサイダー情報を入手するかが重視され、財務分析にはまったくといっていいほど関心が払われなかった。
人間の感情と ”コネ” が株価を左右すると見なされていたため、無味乾燥な統計数値に没頭するのは無駄な努力と考えられたのだ。しかし、1920年代に入ると、この体制は衰退しはじめ、近代的な財務分析ツールが幅をきかせていった。
グレアムこそが、株式分析に知力を注ぎ込むという新しいやり方の先駆者だったのである。真の価値を大きく下回っている株を探す、という投資哲学をグレアムは築きあげたが、そのためには、企業の根源的価値の分析方法を自ら編み出す必要があった。
過大なリスクをとることなく、安心して大きなリターンを得るには、どんな点に注意すればいいのか? グレアムは自分にこう問いかけ、苦労の末に答えを見つけ出したのである。
いったん評価方法を習得してしまえば、安く売られている株を買うこともできるし、高く売られている株を避けることもできる。すべての産業が大規模に拡大し、それに伴って証券市場が上げ相場になるという状況は、グレアムとその新理論にとって完璧な環境だった。
彼は金銭的勝利の時期を謳歌し、彼の生活水準は劇的に向上した。1927年、グレアムは自分の投資理論を本にまとめようと考えていた。
これはやがてデビット・ドットとの共著「証券分析」として具現化され、同書はバリュー投資の概念と、”グレアム・ドット村”の考え方を世に広めることとなった。1934年の初版以来、「証券分析」は継続的に版を重ねてきた。
グレアムは執筆前に、自分の考えを実証するため、コロンビア大学で講座を開設した。この講座は成功を収め、以後40年間に及ぶ教授生活のきっかけとなった。
グレアムは資金運用の傍ら、さまざまな学術機関で教鞭を執ってきたのである。グレアムは博識で、さまざまな分野と言語に精通しており、学問に対する真の好奇心を持っていた。
投資と教育のほかにも、暇を見つけては数多くの戯曲を書き、1つの脚本は実際に上演された。多くの重要な米国政府の聴聞会では、株式評価の専門家として証言を行った。
グレアムは詩も書き、1949年には「賢明なる投資家」を執筆した。「証券分析」と同じく、「賢明なる投資家」も世界的なベストセラーとなり、今日でもランキングの上位を賑わせている。 』
『 1920年代のグレアムは、”比較的” 安全第一主義をとる投資家だった。しかし、自身が認めていたとおり、周りの浮かれ騒ぎに便乗してしまう場合もあった。
「わたしはすべてを知っていると確信していた。少なくとも、株と債券で金を儲けることに関しては、必要な事柄はをすべて知っていると……。自分はウォール街の急所をつかんでいると……。自分の野望と未来は無限であると……。若かったから、重度の自信過剰に陥っていることがわからなかったのだ」
1929年から32年にかけての株式大暴落では、それまで利潤をあげてきた投資が損失に転じ、資金の約70パーセントが失われた。この事件は、物的所有に対するグレアムの姿勢を変え、身の丈を越える出費はもう絶対にしないと彼は決意した。
二度とふたたび、誰かに誘導されたり、虚飾や不必要な贅沢に突き動かされたりしたくなかったのだ。さらにグレアムは、1928年から29年までを振り返り、根本的な過ちがどこにあったのかを探り出そうとした。
彼の結論では、原因は投資家が自ら投機家に転向してしまったこと。じっさい、当時の株式市場の参加者たちに、”投資家” という言葉はふさわしくなかった。
彼らは、投資価値についてゆがんだ考え方を持っており、重要な原理原則を踏み外していた。安全第一の手法で株を評価する際には、用心の上にも用心を重ねなければならないが、彼はそれをすっかり忘れていたのだ。
収益予想に基づく評価は、当てにならない可能性が高く、有形資産に基づく評価がもっと重用されるべきだった。
グレアムは、いまだに自分を信頼して資金を託してくれている人々に対して、名誉をかけて優れた実績をあげる義務があると感じていた。世界大恐慌のあいだ、グレアムは給料をまったく受けとらず、失った資金を取り戻すべく、身を粉にして働いた。
大暴落の後始末を終えた1933年、彼はわずか37万5000ドルの顧客資金で再挑戦を始めた。〈グレアム・ニューマン・コーポレーション〉は同年、50パーセントの収益率を達成し、グレアムが引退するまでの約20年間、世界屈指の長期投資の実績をあげることとなる。
グレアムは1955年、市場の発展に関する合衆国上院の調査委員会でこう証言した。自分の顧客たちは ”長い期間” にわたり、年20パーセントの粗利益、〈グレアム・ニューマン〉の手数料を引いたあとで、17パーセントの利益を手にしてきた、と。この数字は、市場平均の約2倍にあたる。
リスクを冒さない投資家は低いリターンに甘んじるべきである、という昔ながらの物の見方にグレアムは与しなかった。ローリスク・ハイリターンは可能だと彼は考えていたのだ。
しかし、それには条件があった。投資家が投資(投機ではない)の主要原則についての充分な知識を持っていることと、業界分析と企業分析についての充分な知識を持っていることだ(ビジネスの仕組みに対する真の好奇心があることは大前提)。
さらに、投資家は難しい投資学を勉強しながら、長い時間をかけて経験を積みあげ、絶えず自分の失敗から学ぶというオープンな姿勢を持たなければならない。
最後に、投資家は感情を制御しなければならない。投資家が重視すべき事柄は価値の分析であり、投資家全般の一時的なムードや騒ぎに乗らない方法を学ぶ必要がある。 』
次に紹介しますのは、ジョージ・ソロスです。ソロスは自分自身をまず何よりも哲学者と見なし、社会構造の中で集団として人々は、ときとして経済のファンダメンタルズ(基本的条件)を、”均衡に近い” 状態から、”均衡にほど遠い” 状態に変える……。
ソロスは、この仕組みを哲学的に理論づけ、”再帰性” 理論といわれる。私もソロス自身の本を読みましたが、よく解かりませんでしたが、本書はソロス自身の著書より、解りやすく書かれていると思います、では読んでいきましょう。
『 1930年8月、ジョージ・ソロスはハンガリーのユダヤ人家庭に生まれた。母親は愛情に満ちあふれていたが、とても内省的で、詮索好きで、自己批判に陥りやすく、その姿勢は自虐的に見えるほどだった。
ソロスによれば、母親の自己批判の傾向は息子にも受け継がれていた。大きな勝利をつかむ原動力となったのは、内なる敗北感を打ち消したいという強い欲求だった。
父親のティヴァダルは外交的で、社交的で、他人の運命に純粋な興味を持っていた。このような美徳を持ちながら、人前で自分をさらけ出そうとしない父親を、ジョージ少年は偶像視した。
まだ若いティヴァダルには大志があった。しかし、ちょうどこのころ第一次世界大戦が勃発した。義勇兵として参戦し、中尉に昇格した彼は、ロシア軍に捕えられ、シベリアの捕虜収容所へ送られた。
ティヴァダルは大志を持ちつづけた。少なくともしばらくのあいだは……。彼は収容所内で、”厚板” と呼ばれる新聞(記事は人間の手で板に刻みつけられた)を発行し、人望が厚かったため捕虜代表にも選ばれた。
しかし、近隣の収容所から捕虜が脱走し、その収容所の捕虜代表が射殺される事件が発生した。見せしめと抑止のための処刑だった。ティヴァダルは決断を下した。
脱走者の代りに打ち殺されるのを待つよりも、自ら脱走するのが最善の方法である、と。彼は必要な技能を持つ30人の捕虜———大工、コック、医者など———を選び出し、脱走計画を実行に移した。
イカダを作って川を下りはじめたものの、ティヴァダルたちは大きな間違いを犯していた。シベリアの川は北極海につながっているのだ。数週間後、ようやくミスに気づいた一行は、広大なシベリアを徒歩で横断することとなった。
当時のシベリアは騒乱のただ中にあった。第一次大戦後、赤軍と反革命勢力が戦いを繰り広げていたのである。無残な光景を目の当たりにしたティヴァダルは、生きつづけることに大きな価値を見いだし、きっぱりと大志を捨てた。 』
『 富と権力はもうどうでもよかった。望みは人生を楽しむことだけだった。いずれにせよ、無秩序な社会での悲惨な体験は、ティヴァダルにサバイバルの能力だけでなく、”均衡からほど遠い” 時期に入りそうな社会を見抜く能力を与えた。
ジョージ・ソロスは平凡な生徒で、スポーツとゲーム(モノポリー:資産を増やす双六風ゲーム)を好んだ。特に数学の成績は低く、しかし、古典哲学の本に深い興味を持っていた。
13歳のとき、美術館からの帰宅する途中で、街中にドイツ軍の戦車がいるのを目撃した。時は1944年3月。ドイツが同盟国のハンガリーに侵攻したのである。
ソロスはのちに、あのころは人生で最もエキサイティングな時期だったと語っている。しかし、状況をすぐさま理解した父親のティヴァダルは、異常な時代に正常なルールは通用しないと判断を下した。
当時は父親の独壇場だったとソロスは回顧する。ティヴァダルは法の遵守を ”危険な習慣” とみなし、法を無視することが生残につながる唯一の道だと考えた。
ジョージ少年は後年の投資に生かせるさまざまなスキルを学んだ。彼にとって父親はサバイバルの教官であり、第二次世界大戦は上級サバイバル講座だった。
ティヴァダルはロシア革命での体験を手本に、決然と行動し、家族分の偽造身分証明書を手に入れ、生活するための場所や隠れるための場所を探し出した。
助けたのは自分の家族だけではなく、何十人もの命を救った。ソロスはこの当時を、人生で最も幸せな時期だったと見なしている。
ハンガリーがナチスに支配され、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が絶頂を迎えるころに、幸せだったというのは矛盾しているように思えるが、冒険好きな14歳の少年の目に映っていたのは、敬愛する父親が陣頭指揮をとり、他人を助けつつ窮地を乗り切っていく姿だった。
侵略者を出し抜こうとしたときのリスクに比べれば、大人になってからとったリスクはどれも大したことがない、とソロスは発言している。 』
『 1945年のソ連軍による占領は、ハンガリー全土に共産主義の圧迫感を蔓延させ、人々は危険な生活というよりも、退屈な苦役のような生活を強いられた。
ナチス体制と共産党体制を経験したソロスは、現実の客観的側面を尊重するという健全な姿勢を身につけた。また、ドイツとロシアの占領下での ”均衡からほど遠い” 生活は、ソロスに洞察力を与えた。
この洞察力は後年、ヘッジファンドの運用責任者としての成功に重要な役割を果たすこととなる。ティヴァダルにとってサバイバル技能の先生がロシア革命なら、ジョージ少年にとっての先生はナチスのハンガリー占領だった。
共産党政権の厳しい管理のもと、ジョージ少年は社会からの束縛と、父親からの過干渉を感じていた。彼はティヴァダルに抗議した。15歳の子供に50歳のような考え方をしろというのは不自然であり、人間の成長にはもっと自由が必要だ、と。
父親は息子を自立させようと思い立ち、どこへ行ってみたいかと尋ねた。ジョージ少年は、イギリスとソ連を候補に挙げた。ティヴァダルがソ連での体験を残らず息子に打明けたため、結局、行き先はイギリスに決まった。 』
『 1947年9月、17歳の誕生日の直後に、ソロスはロンドンの地を踏んだ。金はなく、友達はおらず、彼は深い孤独と絶望を感じた。ソロスの目に映る戦後のロンドンは、重苦しく、よそよそしく、感情的に冷たかった。
遠い親戚が寝場所として長椅子を提供してくれたものの、諸手を挙げた歓迎ムードとはいかなかった。ソロスはつまらない仕事を転々とした。ブレントフォード(ロンドン近郊)でプールの係員をしたり、皿洗いをしたり、家の塗装をしたり……。
大きな期待を持つ若者にとって、いちばんつらかったのは、勤め先の給仕長から仕事ぶりが認められ、一生懸命働けばいずれは給仕長補佐に出世するのも夢でないと言われたときだった。
英語の教室に通いはじめるなど、前向きな進展はあったものの、1年半のあいだ、心の奥の失望は増幅していき。英語能力の不足でロンドン大学スクール・オブ・エコノミックス(LSE)の入学試験に落ちたとき、絶望感は最高潮に達した。
まさにどん底の感覚。しかし、ソロスは何とか自分の中にポジティブな思考を見つけた。どん底からは落ちようがなく、これからは上に向かうしかない、と。金も友達もない痛みは、一生消えない傷となった。
本人が率直に認めるとおり、もうあんな経験をしたくないという思いは、恐怖症のように体に染みついてしまっていた。この思いは、大金を稼ぎたいと心に決めた理由の一つでもあった。
ソロスはしばらくケンティッシュタウン工芸学校に通っていたが、1949年春、ようやくLSEの入学試験に合格することができた。
78歳のときに執筆した本の中で、ソロスは再帰性の観念を明確に説明したあと、”均衡に近い” 状態と ”均衡から程遠い” 状態の違いを強調すべく、自分の発達期を例に挙げた。
彼は安定した中産階級の環境———通常の ”均衡に近い” 状態———で生れ育った。その後、ナチスの脅威と共産主義の抑圧が、”均衡から程遠い” 状態を作り出した。
よそ者としてイギリスで暮らしたときは、安定した自己完結的な社会を窓越しにのぞき込むしかなかった。安定は有用な生活必需品であり、いつでも手に入るわけではないという事実を、ソロスほど深く認識している者はほとんどいないだろう。 』
『 ソロスはLSEで経済学を専攻したが、すぐさま自分に向いていないことに気づいた。理由は2つ。(1) 自分は数学が苦手なのに、経済学は数理的要素を重視する傾向を強めていた。
(2) 教授たちが好んだのは、”知識の完全性” のような古典的前提に基づき、代数的な構造を築きあげることだったが、自分の興味の対象は、経済学の基礎——— ”知識の完全性” のような古典的前提そのもの———にあった。
大学生活で明るい話題は、カール・ポッパー教授との出会いだった。ホッパー教授は刺激的な発想を与えてくれ、ソロスと真剣に向き合ってくれた。
「 カール・ホッパーは主張していた……理性には、一般法則化の真実性を一片の疑念もないレベルまで高める能力はない、と。じっさい、科学法則でさえ実証は不可能である。
なぜなら、演繹的論理学を用いる限り、どれだけ大量の個別的観察結果を集めようと、そこから例外なき有効な一般化を引き出すことができないからだ。
幅広い懐疑の姿勢を採用したとき、科学的手法は最もうまく機能する。科学法則は、誤りが証明されるまで有効な暫定的仮説としてあつかわなければならない……。
彼が主張するとおり、科学法則を実証することは不可能だ……。法則に合致する実例がどれだけ存在しようと、疑う余地のない一般法則化の証明には不十分だが、法則に合致しない実例が一つでも存在すれば、一般法則化の有効性は破壊されかねないのである 」
経済の参加者に ”知識の完全性” を想定しなければならない経済学者と、人間の理解は本質的に不完全であると主張するホッパーは、真っ向から対立する。
しかし、前者はアイザック・ニュートンを手本に、一般法則化を通じて一つの学問分野を創りあげようとした。この結果、経済学は複雑さを増し、数学の利用頻度が高まったのだ。
人間の思考と行動から生まれた不測の影響が、予告も前触れもなくやってきたり去っていったりする、というティヴァダルの実体験は、人間の誤謬性を強調するホッパーの主張とがっちり嚙み合っていた。
ホッパーの影響を受け、標準的な経済モデルを拒んだソロスは、歴史の流れが形成される上で、誤認と誤解が大きな役割を果たしたと考えた。そして、この自説を基に、人間の行動に関する枠組みを構築しようとした。
市場参加者の意思決定は、知識のみに左右されるわけではない。市場参加者の偏向した認識は、市場価格だけだなく、市場価格を決めるとされるファンダメンタルズにも強い影響を及ぼす。ここで注目すべきは、偏向した認識が2つの効果を持つという点だ。
ソロスは独創的な哲学者としての成功を熱望し、この思いを生涯持ちつづけた。具体的にいうと、人間の誤謬性を法則にまとめ、幅広く認められたかったのだ。
しかし、残念ながら学校の成績は中の下でしかなく、学者としてキャリアを積むのはとうてい無理に思えた。
「観念の冒険」を書いた哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドからも刺激を受けたソロスは、新しい物の見方を哲学的思索だけではなく、ビジネスという現実世界にも適用した。
彼を魅了したのは、観念の ”冒険” という発想だった。賢明さを併せ持つソロスは、新理論を経済や金融に適用する場合、塾考よりも行動から多くを学べるということを理解した。彼の思考は行動につながり、行動は思考を向上させた。 』
ソロスは、これから就職し、ロンドンで働き、26歳でニューヨークに移り、主としてヨーロッパの株を分析し、取引しましたが、ソロスはハンガリー語と同じレベルで、ドイツ語、フランス語、英語を操れたおかげで、経営幹部から直接話を聞くことができた。
そのため、ほかのアナリスト(分析者)とは比べ物にならない、卓越した知識を手に入れることができた。これから、本格的に投資の世界を歩んでいき、ついにはイングランド銀行を打ち負かした男と呼ばれるまでになりますが、ソロスの話はここまでです。
ピーター・リンチが投資家としての成功に必要な個人的資質を提示している。
『 「資質のリストに含まれるのは、我慢強さ、自信、常識、痛みに対する耐性、精神の開放性、超然性、粘り強さ、謙虚さ、柔軟性、独立した調査を遂行する気構え、失敗を認める気構え、世間のパニックを無視する能力だ。
最高といわれる投資家たちのIQは、最下層の10パーセントより上、最上層の5パーセントより下に分布しているだろう。私の意見では、真の天才は理論的思考に没頭するあまり、株の現実的行動に裏切られつづける。
完全な情報なしに意思決定を行う能力も重要だ。ウォール街では物事が明確になることはほとんどなく、明確になったあとではもう利益を得ることはできない。
すべてのデータを知ろうとする科学的精神構造は、投資における成功とは相容れない。最後に人間の ”性”(さが) と ”勘” に逆らうことも重要だ。
自分は株価や金価格や金利を予想するコツを会得した、という確信を密に持っている投資家は珍しくない。その予言が何度も何度も外れているにもかかわらず」 』
リンチはこのような気の滅入るような包括的リストを提示している。
最後に、アンソニー・ボルトンが良い投資家の条件をあげている。
『 投資家にとって重要なのは、理論的かつ客観的に思考する能力だ。また、どんなときも当初の原理原則を忘れてはならない。対象企業の真髄が心の最上層に刻み込まれるよう、複雑な物語を短く凝縮する能力が必要となってくる。
小事のとらわれて大事を見失ってはいけないのだ。”話がうますぎて信じられない” ときは、常識的な判断が助けになってくれる。”うまい” とされる話しの構造が、あなたに理解できないほど複雑な場合は、いっさい近づくべきではない。
投資家は、自分自身の能力を正確に測る必要がある。自信過剰になるのは禁物。具体的にいうと、投資のパフォーマンスが良い時期が続いても、自分の才能に対する評価を大きく膨らませるべきではない。
逆に、短期的なパーフォーマンスの悪さを強調して、自分の能力を過少評価すべきでもない。
ボルトンの信条によれば、すべての保有銘柄は、”投資命題” を持っている必要がある。投資命題とは、当該銘柄を保有した理由———もしくは当該銘柄を保有したいと望む理由———を数行の文章にまとめたもので、あなたの10代の息子や娘にも理解できる内容でなければならない。
そして、投資命題は一定期間ごとに再試験を受ける必要がある。 』 (第140回)
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