猛暑の中、日本の夏の風物詩「炎天下の甲子園」もいよいよ佳境(20日現在ベスト4に向けて熱戦中)にさしかかっている。さらにプロ野球ではセリーグでは首位争いが激烈、またアメリカ大リーグの方も日本人選手の活躍が常に注目の的。まさに日本列島、野球一色の感がある。
考えてみるとスポーツの種類は野球以外にも実に沢山あるが野球ほど日本社会に根を下ろしているスポーツはほかにない。サッカーも人気があるが野球に比べるとまだまだ。その原因は一体なんだろうかと、ときどき考えていたら、野球の魅力をいろんな観点から解剖した本に出会った。
「随想集:偶然のめぐみ」(2007年6月15日:日本経済新聞社)
著者:清岡卓行(きよおか・たかゆき)氏、1970年「アカシヤの大連」芥川賞、法政大学教授、セ・リーグ事務局で13年間試合日程編成、2006年6月逝去。
本書の207頁~241頁にかけて鼎談(清岡卓行、清水哲男、平出隆各氏)により「日本人にとって野球は何か」というテーマで分析がなされている。自分なりにまとめてみた。
・野球という言葉の由来
明治時代に欧米の文明を輸入する時に様々な訳語を漢字の新しい組み合わせで行ったが、野球も最初はいろんな訳語があった。「底球」「基球」「塁球」「球遊び」とかあったが結局「野球」が定着した。
「ベースボール=塁球」でもおかしくないと思うが、野あるいは野原というのは明るく開放的で、大変清々しい雰囲気があるし音節も短く、発音もしやすい。原っぱとか広っぱとか町の隙間を見つける感覚から「野球」という言葉が日本語として定着した。これは名訳の一つであると思う。
・いろんな要素が重なるスポーツ
野球は9人の選手がそれぞれの個性に見合った特殊な守備位置や打順に着き、その総合力でチームの勝敗を争う団体競技。
個人と全体の微妙なバランスによって成り立つスポーツで、日本全体の近代的な発展を象徴する形でもあり、日本人向きといえる。おまけに、投手と打者だけをクローズアップすれば、昔の侍の一騎打ちみたいな素朴な要素も含まれている。
いろんな要素が重なるスポーツとして野球ほど複雑なものはなく、そういう意味で明治以降の日本にうまく合致した。
・野球の進展
野球人気の中心となったのは始めは一高対三高戦、ついで六大学リーグ戦でいわば若い知性の突端が野球の前衛となった。
一方、新聞社が野球に熱心で朝日新聞が「夏の甲子園」、毎日新聞が「春の大会」および都市対抗野球、読売新聞がプロ野球組織の中心となった。この潮流は高度産業社会に見合った分業時代の一つの象徴で実に日本的。
・ヨーロッパではどうして野球が盛んにならないか
①野球の特殊性
サッカー・ラグビーは双方に陣があってお互いに攻めあうが、いつ攻め返されるか分らないという対称性が常にある。
一方、野球の場合は攻守ところを変えてというところはルールで縛っており、ある時間帯を区切って守るだけ、攻めるだけとなっている。
ヨーロッパの感覚では国境を越えたり越えられたりという侵略意識といったものがうまく国民的なスポーツになっている。
一方、アメリカ、オーストラリア、日本など野球が盛んなところは歴史的にも国境という意識が希薄なところがあり、その部分に野球が根付いている側面がある。
それにホームランという無限性があり、守る側は「無限」を背にして守っているわけでこれはヨーロッパの感覚では受け入れられない。
②知的で人工的な野球
ヨーロッパは歴史的に見て哲学的ないし科学的な知性による仕事の蓄積と疲労がいちばん著しいところ。したがってスポーツが知性とは対称的な位置づけにあり本能への遊び、慰め、楽しみである側面が大きく、ルールが単純明快、ポジションもそれほど個性的でない気安いスポーツが受け入れられ普及している。
これに対して野球はルールがとても複雑で知的かつ人工的なので、ヨーロッパ人にとって知的にわずらわしくて不自然で面白くないという感覚がある。さらに一方ではホームランというまるで試合の知的な要素すべてを一挙に吹き飛ばすような摩訶不思議なものがあり、ある意味不自然な印象を受ける。
概略、以上のとおりだが、ヨーロッパで野球が盛んにならない理由の一つとして国境の侵略意識と陣地争いを絡めているところがややこじつけの感もあるがなかなか面白い見方。
そういえば、以前、石原莞爾氏(昭和初期の軍事思想家)の文献によると「ヨーロッパの連中は三度の飯より戦争が好き」といった表現を見た記憶がある。世界史については疎くてあまり自信がないが、ヨーロッパの歴史=戦争の歴史なのだろうか。