「神秘に満ちた数、素数。 何というその美しさ。 世紀をまたぐ最後の超難問”リーマン予想”の謎に迫る天才数学者たちの挑戦、人間味あふれる姿」と、背表紙に書いてあったのが「素数の音楽」(マーカス・デュ・ソートイ著)。
「素数と音楽」に、どういう関係があるのかと興味を引かれて読み始めたところ、数学についてはまったくの素人なのに、実に分かりやすく書かれていて、非常に面白い。
おっと「素数」ってのはお判りでしょうが「2,3,5,7,11・・」と、これ以上素因数分解が出来ない数を指す。平たくいえば、この数値の並びの規則性を探求するのが数学界最大の難問とされる「リーマン予想」だ。
まだ読み終えてなく2/3ほどの進行形だが、どうやら「素数」と「音楽」は「美」という共通項で深く結ばれていることが分かってきた。
それはさておき、188頁に次のような箇所があった。
「20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」
ウ~ン、成る程。これはクラシック音楽愛好家にとっては大なり小なり思い当たる人があるかもしれない。
自分などはもっとラディカルに「モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎる。」と、思うことがときどきある(笑)。
3年ほど前に購入した「モーツァルト全集」(CD55枚組)は今でも愛聴盤だが、モーツァルトを聴いていると、あの「天真爛漫」で「天馬空を駆ける」ような世界にどっぷり浸かってしまい、楽聖ベートーヴェンの曲目でさえも、何だか作為的で不自然に思えてくるから不思議。
最晩年の傑作、オペラ「魔笛」にトチ狂ってしまってからおよそ40年が経つが、モーツァルトは「モー卒業した」どころか、次から次に新しい発見が続いてまだ山の頂にはほど遠い気がしている。
改めて、そう認識させられたのが「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)。わずか16分ほどの小曲で、ソプラノはあの「バーバラ・ボニー」
「アレグロ~アンダンテ~アレグロ」の構成だが、特にアンダンテがこの世のものとは思えないほど美しい。
昨日の午後、日課の運動ジムから戻ってきて冷えたビールを飲みながらこの曲を聴いていたら、思わず”目がしら”がジ~ンと熱くなってしまった。
至福の時間といっていいが、こんな音楽を聴かされると「生きててよかったなあ!地位も名誉もお金も、な~んにも要らない」という心境になる。もちろん一時的なことだが(笑)。
ケッヘル番号が100番台だから、おそらく初期の作品だと思ってググってみると、何と17歳のときの作品だった。
そんなに若いときからこんなに美しい曲を作るんだからまったく脱帽である。
ほかにもケッヘル100番台は「ディベルティメントK.136」という名曲もあるし、名画家にしても名作家にしても「”若書き”にとてもいいものがある」という言葉が見事に当てはまる。
むしろ「功成り名を遂げた」晩年の作品よりも「初々しくて純粋」という面で優っている。
これは宗教音楽だが、音楽家にとって神への思いは様々のようで、有名なバッハの「マタイ受難曲」は何度チャレンジしてもどうしても馴染めないものの、それでも心からの神への信仰の厚さと敬虔な祈りが全編を通して伺われる。
が、しかしベートーヴェンでは「ミサ・ソレムニス」などを聴いていると、神への敬虔な祈りは聞こえてこない。どうも彼は神の言葉よりも自分の音楽の方がさらに高い啓示だと思っている節があると、いつも感じる。これはあくまでも私見だが。
そしてモーツァルトの宗教音楽についても、一筆あってしかるべきだが、とても我が筆力の及ぶところではない。ただ、あまりにも人間離れしていて、音楽の神が彼を通じて書かせた曲目という言い方が一番適切な気がする。
本来宗教曲だった「モテット」をこれほど瑞々しい生命の躍動感に満ち溢れた音楽へと昇華するモーツァルトの才能にはもうただただ「ひれ伏す」しかありませんね(笑)。
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