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「狂い」のすすめ

 ひろさちや著『「狂い」のすすめ』(集英社新書)を読んだ。ひろさちやという人物が仏教に関する本を書いているのは何となく知っていたが、今まで読んだことはなかった。仏教に深い関心があるわけでもない私がこの本を書店で手に取ったのは、ひとえに題名に惹かれたせいである。『「狂い」のすすめ』などと書かれていては、その内容を知りたくなるのが人情だろう。カバーに次のような本書のまとめが記してあった。
 
 『今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです。今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすればかえってまともになれるからです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。』

本書を一読して、このまとめが著者の言わんとしていることをどれだけ的確に言い表しているのかがよく分った。まさしくこの通りのことが200ページほどにわたって述べられている。これだけ簡潔にまとめられてしまうと、わざわざ一冊読む必要もないほどだ。ひろさちや本人でも、この字数でこれほど上手くまとめるのは難しいのではないか、と思えるほどだ。まとめを書いた人の才知に感服してしまった。
 この本を読み始めてしばらくはものすごい違和感が心から離れなかった。作者は「現代社会はあまりに狂いすぎている」と言う。その社会の流れに沿って生きようとするから様々な齟齬が生じ、それが悩みを生み出す。だから、世間の常識に由って判断するのではなく、世間とは違う「自分に由って」判断する人、「自由人」になれと作者は勧める。そのためには「狂者の自覚」を持てばよい。『なに、狂っているのは世間のほうですよ。世の中が狂っているのです。その狂った世の中にあって、わたしが「狂者の自覚」を持てば、わたしはまともになるのです』(P.25) と言い切る。
 しかし、本当にそうなのだろうか。どうして世間が狂っていると判断しても構わないのか。本当に狂っているのは自分ではないのか、という思いが入り込む隙はないのだろうか、などと疑念を挟むことなく、ただひたすら狂っているのは世間であるという前提で話が進められて行く。それがずっと私の心に引っかかって、途中で読むのを止めようかと何度も思ったほどだ。勿論これが逆説的な言い回しであることは理解しているつもりだが、一方的に世間が悪いと言い切ってしまうのは、その世間を構成している一員としてあまりに無責任な言葉ではないかと思ってしまう。この世は狂っているから、そんなもの惑わされずに自分の思い通りに生きよう、などというのは、それこそ現代社会に蔓延している唯我独尊的思考法ではないのか。「あなたは悪くない。全て世間が悪いのですよ」とTVで物分りのよさそうなコメンテーターが猫なで声を出して、さも自分が全ての理解者であるかのような台詞を吐くのにも似て、どうしても納得できなかった。
 そうは言っても、軽妙な語り口と平易な宗教解説につられて、最後まで読み終えた。しかし、また最終盤に引っ掛かりが生まれてしまった。

『そうです、わたしたちがこの世に生きているのは、仏が書かれたシナリオの中で、それぞれがいろんな配役をもらって、その役を演じているのです』
『人生が無意味だというのは、わたしたちにはシナリオの全体がわからないから(なにせ何億年にわたるシナリオです)、自分が演じている役の意味がわからないということなんです。しかし、そんな「意味」を考える必要はありません。第一、考えたってわからないのです』(P.190)
 
「あなたが生きてるのにはこんな意味があるのですよ」としたり顔に言われるのもイヤだが、全てが仏のシナリオの通りなどと考えるのも我慢できない。もし本当にそうなら、生きているのがつまらなくなる。たとえそれが虚妄であろうと、自分の手と足を使って一歩一歩人生を歩んでいくんだという実感がなければ余りにも空しい。生きている意味など分らなくても構わないが、自分で生きている実感は欲しい。
 やはりたった一度しかない自分の人生は、死ぬまで自分の人生だと思って生きていたい。
 
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