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「不動心」

 松井秀喜の「不動心」(新潮新書)を読んだ。
 私はこの本が出版されるのを知ったとき、反射的に「やめろよ!」と思った。松井はまだ32歳、これからまだまだ現役選手として第一線に立って闘わなければいけない男だ。それなのに今までの自分を振り返り、自分はこうやって生きてきた、というような本を書くなんて早すぎる、と思ったのだ。それに、たとえ多くの部分に代筆者がいるにせよ、一冊の本を仕上げるのには相当の時間がかかるだろう、そんな時間があるならトレーニングにまわせよ、といいたい気持ちもあった。確かに松井が左手首の骨折から復帰に至るまでの過程で、どんなことを感じたり、考えたりしたのかを知りたい気持ちはある。しかし、私は基本的にグランドでプレーする松井に興味があるのであって、ユニフォームを脱いだ松井をあまり見たいとは思わない。シーズンが終わって帰国した松井の記事やインタビューは数多くあったが、あえてそうしたものから目をそらそうともしていた。
 しかし、やはりこの「不動心」は松井ファンとしてはどんなことをしてでも読まねばならないだろう。身震いするようなピンチに立っても、押しつぶされそうなプレッシャーのかかる場面でも、己を見失わず常に最高のプレーを心がけている松井の姿をずっと追いかけている私のような者には、内容の良し悪しは別にして一度は目を通さねばならない書だ。ゴジ健さんの言葉を借りれば、松井が直接私たちに話しかけてくれているのだから。
 P.12に松井が復帰後構えるようになった、がに股打法の写真が載っている。この写真を見ると、松井が復帰した第一打席でヤンキースタジアムの満員の観客からスタンディングオベーションで迎えられたシーンを思い出す。あれには泣けた、松井がどれだけN.Y.の人々に愛されているかがわかって誇らしくもあった。松井は言う、
 「野球選手になってよかった。大リーグに来てよかった。ヤンキースタジアムの大歓声を受けながら、何度もそう思いました」(P.42)
 
 この本全編を通して感じられたのは、松井が本当に野球を愛しているということだ。野球を好きだから少しでも上手くなりたい、上手くなるためだったらどんな努力でも惜しまないという意欲がにじみ出ている。長嶋監督とマンツーマンで取り組んだ素振りのことが繰り返し書かれているが、ここまで真剣に取り組むのは「自分は不器用で野球の素質もないのだと認識すること、つまり、己を知り、力の足りない自分自身を受け入れ」(P.109)ることによって、「現状を打破したいと必死になる」(P.111)からだ。松井ほどの選手が己に野球の才能がないなどと言われてしまうと素直に受け取れない気もするが、器用でないのは確かな気がする。松井ならずとも、誰も自分の欠点を認めたくはない。しかし、そこを曖昧にしてしまうと先へ進めななくなってしまう。私も塾で「自分の分からない問題を適当にごまかすな。分からないことはわからないと正直に言え。そうしないと、分からないまま過ぎていってしまうからな」とよく生徒たちに話す。どんな分野であっても、基本は同じなんだなと改めて思った。
 
 松井をずっと見てきて、私はもっとやんちゃになればいいのに、と何度も思ってきた。感情をもっと激しく表してもいいじゃないかと物足りなく感じたのもしばしばだ。それに対して松井が答えてくれている。
 「悔しさは胸にしまっておきます。そうしないと、次も失敗する可能性が高くなってしまうからです。コントロールできない過去よりも、変えていける未来にかけます」(P.65)。
 「態度や口に出してしまうと、気持ちが乱れ、バッティングが乱れ、自分が苦しむことになる」(P.68)
言われてみれば理解できなくはない。でも、何も言わないでいるのも結構つらいだろうなと私などは思ってしまう。だが、それができるのが松井秀喜なのだろう。またそれができなければ、「162試合同じように準備をして、すべて同じ心境で打席に入りたいと思っている」(P.95)己をコントロールできないのかもしれない。ここで松井はそうした心の有り様を「平常心」と表現しているが、これこそが「不動心」の意味することだと思う。
 しかし、本書の最後で松井は本音を漏らしている。
 「松井秀喜でいることに大変だなあと思うことも正直、結構あります。楽しい時ももちろんありますが、窮屈な思いもしなきゃいけない。(中略)ただ、松井秀喜をやめたくなったことはありません。窮屈なのは仕方がないことだし、なんでも受け入れようと思えば、たいていのことは我慢できますから」(P.185)
これこそ、松井が心を開いて私に話してくれた言葉ではないだろうか。この言葉を読めただけでも、この本を読んだ価値はあったと思った。松井のことがまた好きになった。
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