毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「蟹工船」について
小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているそうだ。以前このブログで太宰治の「人間失格」がブームになっているのを取り上げたことがあるが、それと同じように、「蟹工船」もマンガ化されたのをきっかけに若者の間に浸透して行ったようだ。両作品とも現代の若者たちが共感できる何かを持っているのだろう・・。
などと中途半端な言葉しか使えないのは、「蟹工船」を読んだことがないからだ。プロレタリア文学と総称される文学作品があるのはもちろん知っていたが、読みたいと思ったことはなかった。そのため全80巻ある手持ちの中央公論社「日本の文学」は、「葉山嘉樹 小林多喜二 徳永直」の第39巻だけは、一度も手に取ったことがなく、まっさらな状態になっていた。政治的プロパガンダを目的とした文学というものに昔から抵抗があって、ある政治的な信条に貫かれた文学作品などのびやかさを欠いた偏狭で頑迷な作品でしかないだろう、などと碌に読みもしないで断じていた。しかし、そんな頑なな思いを持っている私の方こそ、己の狭量さを見直すべきかもしれない、と「蟹工船」についての新聞記事を読んだときに思った。最近は、長い間気付かぬうちに自分の心身に積もってきた塵芥を少しずつ掃きだそうと努力しているところでもあるので、食わず嫌いを一つでもなくそうと、ブームに乗っかって読んでみることにした。
中編と呼ばれるほどの長さで一気に読み終えた。だが、それはこの小説が特段面白かったというわけではない。物語としては、極寒のオホーツク海で操業する蟹工船(蟹を獲ってそれを船内で缶詰などに加工する船)で働く者たちが、劣悪極まる労働環境の下で酷使される毎日に苦吟しながらも、一人の作業員の死をきっかけに自分たちの権利意識に目覚め始め、ついには決起してストライキを起こす。だが・・・、とまとめることはできるだろう。「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」という言葉から始まる導入部は、蟹工船で働かざるを得なくなった者たちの悲惨な境遇を見事に描き出していて、今まで私がプロレタリア文学に持っていたマイナスイメージがかなり薄まった。だが、中盤あたりから「始めにストライキあり」といった作者の政治的意図が見え始め、やはりこれは党派の主張を宣伝するための小説なのかな、とマイナスイメージが次第に復活してきた。最終盤でストライキを決起した労働者を描く場面でも筆致に迫力を欠き、通り一遍の描写で終わったように思えた。
しかし、こうした印象を私が持つのは、この作品が書かれた80年後の2008年の現在、安閑とした毎日を送りながら半ば物珍しさから読了したためだろうし、「蟹工船」がもつ歴史的意味をいささかも貶すものでは決してない。小林多喜二は実際に蟹工船に乗り込んで苦難を味わったのではないだろうか、と思わせるだけの描写力はところどころで感じ取れたし、ルポルタージュとして読んでも読み応えのある小説であることは間違いない。
私は、小林多喜二が特高警察に捕まり、激しい拷問を受けてその日のうちに亡くなったのは昔から知っていた。この「蟹工船」が発禁処分を受けていたのももちろん知っていた。そうした日本の暗黒面を「蟹工船」を読む現代の若者たちは理解しているのだろうか。今のブームの背景には「ワーキングプア」と呼ばれる人々からの共感があるという指摘もあるようだ。以前新聞で、精神科医の香山リカが「『働いているのに生活できないのはおかしい』『人間扱いされているとは思えない』と気づき、社会に向けて自分たちの状況を発信し、待遇の改善を求める若者も増えつつある。この本を読むことで彼らは、いつの時代も不当な働き方を強いられる労働者がいることに痛みを感じつつ、時代を超えた連帯を実感しているのではないでしょうか」と「蟹工船」ブームを分析しているのを読んだ。確かに読み手が自分自身の境遇と重ね合わせて小説に共感を覚えるのも、文学作品の味わい方の一つだろう。ただ、当時の労働者が置かれた状況と現代のワーキングプアと呼ばれる人たちを囲む状況とは、同一に論じられるものではないことは把握しておくべきだと思う。今は何かすればとりあえず生きていられるだろうが、「蟹工船」の頃は何をしても生きられない人たちが大勢いたのだから。
こうした過去の優れた文学作品が見直され、現代の観点から再評価されることは喜ぶべきことであろう。私たちの前には膨大な数の文学作品が漂っている。その海を遊覧しないではいかにももったいない。
などと中途半端な言葉しか使えないのは、「蟹工船」を読んだことがないからだ。プロレタリア文学と総称される文学作品があるのはもちろん知っていたが、読みたいと思ったことはなかった。そのため全80巻ある手持ちの中央公論社「日本の文学」は、「葉山嘉樹 小林多喜二 徳永直」の第39巻だけは、一度も手に取ったことがなく、まっさらな状態になっていた。政治的プロパガンダを目的とした文学というものに昔から抵抗があって、ある政治的な信条に貫かれた文学作品などのびやかさを欠いた偏狭で頑迷な作品でしかないだろう、などと碌に読みもしないで断じていた。しかし、そんな頑なな思いを持っている私の方こそ、己の狭量さを見直すべきかもしれない、と「蟹工船」についての新聞記事を読んだときに思った。最近は、長い間気付かぬうちに自分の心身に積もってきた塵芥を少しずつ掃きだそうと努力しているところでもあるので、食わず嫌いを一つでもなくそうと、ブームに乗っかって読んでみることにした。
中編と呼ばれるほどの長さで一気に読み終えた。だが、それはこの小説が特段面白かったというわけではない。物語としては、極寒のオホーツク海で操業する蟹工船(蟹を獲ってそれを船内で缶詰などに加工する船)で働く者たちが、劣悪極まる労働環境の下で酷使される毎日に苦吟しながらも、一人の作業員の死をきっかけに自分たちの権利意識に目覚め始め、ついには決起してストライキを起こす。だが・・・、とまとめることはできるだろう。「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」という言葉から始まる導入部は、蟹工船で働かざるを得なくなった者たちの悲惨な境遇を見事に描き出していて、今まで私がプロレタリア文学に持っていたマイナスイメージがかなり薄まった。だが、中盤あたりから「始めにストライキあり」といった作者の政治的意図が見え始め、やはりこれは党派の主張を宣伝するための小説なのかな、とマイナスイメージが次第に復活してきた。最終盤でストライキを決起した労働者を描く場面でも筆致に迫力を欠き、通り一遍の描写で終わったように思えた。
しかし、こうした印象を私が持つのは、この作品が書かれた80年後の2008年の現在、安閑とした毎日を送りながら半ば物珍しさから読了したためだろうし、「蟹工船」がもつ歴史的意味をいささかも貶すものでは決してない。小林多喜二は実際に蟹工船に乗り込んで苦難を味わったのではないだろうか、と思わせるだけの描写力はところどころで感じ取れたし、ルポルタージュとして読んでも読み応えのある小説であることは間違いない。
私は、小林多喜二が特高警察に捕まり、激しい拷問を受けてその日のうちに亡くなったのは昔から知っていた。この「蟹工船」が発禁処分を受けていたのももちろん知っていた。そうした日本の暗黒面を「蟹工船」を読む現代の若者たちは理解しているのだろうか。今のブームの背景には「ワーキングプア」と呼ばれる人々からの共感があるという指摘もあるようだ。以前新聞で、精神科医の香山リカが「『働いているのに生活できないのはおかしい』『人間扱いされているとは思えない』と気づき、社会に向けて自分たちの状況を発信し、待遇の改善を求める若者も増えつつある。この本を読むことで彼らは、いつの時代も不当な働き方を強いられる労働者がいることに痛みを感じつつ、時代を超えた連帯を実感しているのではないでしょうか」と「蟹工船」ブームを分析しているのを読んだ。確かに読み手が自分自身の境遇と重ね合わせて小説に共感を覚えるのも、文学作品の味わい方の一つだろう。ただ、当時の労働者が置かれた状況と現代のワーキングプアと呼ばれる人たちを囲む状況とは、同一に論じられるものではないことは把握しておくべきだと思う。今は何かすればとりあえず生きていられるだろうが、「蟹工船」の頃は何をしても生きられない人たちが大勢いたのだから。
こうした過去の優れた文学作品が見直され、現代の観点から再評価されることは喜ぶべきことであろう。私たちの前には膨大な数の文学作品が漂っている。その海を遊覧しないではいかにももったいない。
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