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「悩む力」

 姜尚中著「悩む力」(集英社文庫)を読んだ。姜尚中はTV討論会などで時々姿を見かける政治学者であり、言葉を選びながら落ち着いて発言する姿勢には、真摯な思想家と思わせるに足る趣があり、好感の持てる人物だと思ってきた。だが、彼の著作は一冊も読んだことがなかった。政治学などという分野にはまるで興味のない私だからそれも当然のことだろうが、書店で本書を見つけた時は、著者の名前よりも、「あなたは100年前の漱石と同じ壁にぶつかっている」という帯の文言に反応してしまった。政治学者と漱石、なんだか珍しい取り合わせだ。いったいどのように漱石を読んでいるのかが知りたくなって、読んでみることにした。
 序章に『本書では誰にでも具わっている「悩む力」こそ、生きる意味への意志が宿っていることを、文豪夏目漱石と社会学者・マックス・ウェーバーを手がかりに考えてみたいと思います』とあるように、19世紀末から20世紀に生きた2人の偉大な知識人の著作や生涯をヒントに、20世紀末から21世紀に生きる私たちが『どのようにして悩みを乗り越えていくか、あるいは悩みながらどのように生きていくか』を考えようというのが本書のメイン・テーマである。私は自分を、勝手に漱石に私淑している末端の弟子であると自惚れているが、20世紀最大の社会学者と呼ばれるウェーバーについては、その名を知っている程度で彼の膨大な思想の尻尾の先の毛さえも知らぬ浅学の身である。そこで、少しくらいは彼のことを知っておこうと調べてみたが、「主知化」などという用語の意味さえも理解できなかったため、ホウホウの体で逃げ帰ってきた。もちろん本書はウェーバーの思想の解説書ではないので、彼の思想のほんの上っ面をなでているだけだが、それでも彼の思想が漱石と通底する部分が多いことは、十分理解することができた。
 そういう意味では、本書は実に読み易い本である。著者の真面目な人柄がにじみ出ているような文章で、彼の考えがすんなりと心に収まる。以下に私が読み取った著者の「悩む力」についての考えをまとめてみる。
 
 信仰の覆いがはずされ「個人」にすべての判断が託されてしまった近代以降には、私たちは自我と向き合い、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を自分で考えねばならなくなった。そこから自分の無知や愚かさ、醜さ、ずるさ、弱さといったものを見せつけられ、それが悩みを生ぜしめる。だが、ひるむことなく、とことん悩むことが何よりも大切である。自分でこれだと確信できるものが得られるまでまじめに悩み、まじめに他者と向き合かいあうことで、何らかの突破口を見つけることができ、他者と出会える場所にたどり着くこともできる。そして、そこで自分が相手を承認して、自分が相手に承認されるならば、そこからもらった力で自分は自分として生きていけるようになり、自分自身であることの意味が確信できる。なぜなら、人が自我を確立していくためには、他者とのつながりが必要であり、相互承認の中でしか人は生きられないのだから。

 そう言えば「友だち地獄」の著者も、現代の若者たちに「困難から目を背けるずに立ち向かってほしい」という趣旨のことを述べていた。だが、これは何も新しいメッセージなどではない。「艱難辛苦汝ヲ玉ニス」という格言もあるし、「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。二・二・ニーチェかサルトルか。みんな悩んで大きくなった」とかつて野坂昭如が歌ってもいた。悩むことによって人間が成長するというのは自明の理と言っても過言ではないだろう。
 しかし、それも精神修養が何よりも大事であると思われていた時代のことだ。現代に生きる我々にとって、目に見えない、手で触ることのできないものは、かつてほど価値を持っていないように思える。心が太くなければ行き辛い世の中なのに、心の力を弱めるような作用しか働いていないように思えてならない。斯くも脆弱になってしまった心の持ち主たちに、作者のように「悩む力を持て」と訴えても、とても耐えられそうにない。果たして著者の叫びを受け止めるだけの強い心を持った人々がどれだけいるのだろうか・・・、読みながら心配になってしまった。
 
 生きている間は決して悩みは尽きないだろう。その悩みを少しずつでも乗り越えていくのが人生だろう。だが、そうは簡単にはいかないのが私たちであり、思わずくじけそうになるのも私たちである。なかなか強くはなれないが、それでもやっぱり命ある限り生きていかなくてはならない。
 「難しいけど面白い」、それくらいの心持ちで生きていくのが一番いいようにも思うのだが・・。
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