goo

「ふたりの品格」

 「ふたりの品格」(講談社)を読んだ。これは月刊「現代」誌上で連載されている永六輔と矢崎泰久の対談「人生道中膝栗毛」を単行本化したものであり、以前このブログでも取り上げた「バカまるだし」の続編となっている。昭和8年生まれの二人のご老体が、そんな年齢など感じさせない(互いの健康を気遣う箇所はいくつかあるのは当然だが・・)世情への舌鋒鋭い風刺が効いていて、読む者にいろんなことを考えさせる内容になっている。
 読み進めるうちに「さすがだなあ」と唸ることしばしばであったが、今月初めになって、月刊「現代」が年内で休刊になると発表された。それを新聞で読んだ私は、「これであの二人が誰憚ることのない放言を発表する場がなくなってしまうのか・・」と、今まで一度も「現代」を買ったことのない私ではあるが、大いに残念に思った。総合雑誌というジャンルが売れるような時代ではないのであろうが、硬軟入り混じった雑多な知識をスマートに身につけ、表現できる人が少なくなったのと、軌を一にしているようで、何だか平板で底の浅い文化がはびこる現代を象徴しているなあ、と寂しくさえなった・・。
 その報道に接した時は、まだ本書を読了していなかった。夏休み中に何とかこの本ともう一冊くらいは読みたいと思っていたが、やはり時間に余裕がまったくなく、夏休みの間に半分ほど読むのが精一杯だった。
 ところが、木曜日になって、「週刊新潮」の新聞広告を何気なく見ていたら、「話の特集『矢崎泰久』サラ金に追われて破産宣告」という文言が目に飛び込んできた。本書の中でも、矢崎が借金まみれで税金を滞納していることは繰り返し語られていたが、そんなに切羽詰ったものだとは知らなかった。さっそく新潮を買ってきたところ、「8月20日から破産手続きが始まり、11月には債権者集会が開かれ、正式に破産が確定することになる」と記事にあった。そこで慌てて最後まで読んでみたが、本書に収められているのは「現代」3月号までの対談なので、当然のことながら「破産宣告」については何も語られていなかった。
 だが、本書を読む限りでは、矢崎がそうした火の車状態の逼迫した生活を送っているようには、とても思えない。経済的な不如意にもかかわらず、永と自由闊達に様々なテーマについて思うことを忌憚なく述べている姿は、まさに精神の自由・気高さを体現しているようだ。「狂犬ジャーナリスト」とたびたび永から揶揄されても決してひるまず、孤高の闘士といった面影を髣髴とさせる発言も多々あり、彼が今はもう少なくなった「気骨」を持ったジャーナリストであることは間違いない。(ただ、どんな立派な考えがあっても、税金を払わねば、納税者と同じ土俵に立って論を戦わすことはできないだろう。私だって文句たらたらながら、必死で税金払っているんだから・・。)
 また、そうした「気骨」をストレートに表現するのではなく、ユーモアに包んで伝えてくれるのが、彼が長い間ジャーナリストとして生きてこられたゆえんでもあろう。そうした彼の面目躍如たるのが、「おわりに」と題した文の次の一節だ。

 永六輔が「上品の上」で、矢崎泰久が「下品の下」というのは受け入れてもいい。分かりやすいし説明する必要もない。では、「上品」が良くて、「下品」が悪いかということになると、話はまったく別である。気味の悪い「上品」と、格好の良い「下品」では、後者がよろしいに決まっている。少なくとも「上品」には偽善がつきまとって離れない。「下品」は実に気楽である。

 しかし、「週刊新潮」の記事では、矢崎自身の「私はこれからも細々と原稿を書いていくつもりですが、もう歳も歳ですから・・。自分から仕掛けるのは面倒くさくなりました」というかなり気弱な発言を載せている。よほど打ちひしがれていると思ってしまうが、私は、「そんなに気弱になっちゃいけません。あなたには言ってもらわねばならないことがまだまだたくさんあるのですから」とエールを送りたいと思う。
 頑張れ、矢崎泰久!!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする