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「時が滲む朝」

 ボネさんブログに紹介があった楊逸「時が滲む朝」を読んだ。中国人が日本語で書いた作品が芥川賞を受賞したというニュースには接していたが、その詳しい内容までは知らなかった。ボネさんの
 『「中国人」「天安門事件」などに興味が湧いてきているボネットが一番読みたい本がこれです』
という言葉を読まなかったら、多分ページをめくることはなかっただろう。「天安門事件」という中国民主化運動の悲劇に関してどんなことが書かれているのだろう、急に読みたくなって書店に走った。
 読み始めて、とても中国人が書いた小説だとは信じられなかった。これほどの日本語を書ける人は日本人でも多くはないだろう。魯迅の作品は竹内好の翻訳によって私たちに届けられているが、楊逸は日本語でじかに私たち日本人の心に話しかけてくる、まったくすごい能力だ。
 読み進むうちに、私は高校・大学の頃に読んだ柴田翔や高橋和巳の小説を思い出した。学生運動に、己の最も輝ける時間を費やしながらも砕け散っていった若者たちを描いたその小説は私に大きな影響を与えたが、私自身が長じたときには学生運動は終焉を迎えていたため、その渦中に巻き込まれたわけではない。だが、こうした小説や「二十歳の原点」という当時の若者たちの通過儀礼ともいうべき著作により、学生運動の激流に飲み込まれた、私よりも上の世代が考えたことや願ったことを、表面的でしかないかもしれないが、一応理解しているつもりである。その頃の日本の社会状況と中国民主化運動が激しかった頃の中国の状況とが一致するとは思えないが、自分たちの国を自分たちの手で変革しようという若者の熱い思いは同じであったはずだ。しかも、結局は思いを遂げぬまま瓦解してしまったというのも・・。
 しかし、この小説は一時の学生の熱狂を表現しただけのものではない。熱狂から現実に呼び戻された彼らが「その後」をどうやって生きているかを描くことによって、読む者に深い感慨を抱かせる。小説の主人公たる若者・浩遠にも、天安門事件に象徴される民主化運動が挫折した後にも過ごさねばならない人生がある。たとえ真っ白な灰と化してしまったとしても、生きて行かねばならない時間がある。映画やドラマのように挫折をクライマックスにして物語が終わってしまうなら、人生はかなり生きやすい。良くも悪くも一つのピークを迎えた後にも私たちは生きなければならない。それをどう生きるかは私たち一人一人の生きる力にかかっている。
 大学を退学後、結婚し、日本に移り住み、子供をもうけた浩遠は、アルバイトで食いつなぎながら、中国民主化の夢を細々と追い続けている。周りの同胞たちは、そんなことよりもよりよい暮らしを営むことに精力を傾けており、そんな彼らとの心の乖離を感じざるを得ない。そんな折、かつてともに戦った無二の親友・志強、さらには運動の指導者や片思いの相手が相次いで来日する。運動終結後、それぞれの人生を歩んできた彼らとの再会から浩遠は何を感じただろう。小説にはっきり書かれているわけではないが、己の人生をしっかり見つめなおし、これからの時間をしっかり生きて行くことの大切さを痛感したのかもしれない。人生は何か大事をなすには短いし、無為に過ごすには長すぎる・・。
 だが、たとえ敗残者として打ち萎れたとしても、己の進むべき道を遮る大きな壁が厳然と目の前に聳え立っているほうがいい。打ち壊すべき壁が何なのか、が分かっていればそれをどうやって打ち壊したらいいのかを、同じ境涯の仲間と協力することもできるからだ。「連帯」などという今ではもう死語に近くなった言葉を基にして、大きな壁に立ち向かうなどということは、現代日本の若者たちには望むべくもないだろう。一人一人が分断され、何とどうやって戦っていいのかさえ分からないまま漂流するしかない今の若者と比べたら、浩遠たちはたとえ短い時間であったとしても充足感を味わえただけ濃密な時を過ごせたはずだ。それは己の存在の核となりうる体験を持ったことのない者から見れば羨ましくさえある・・。
 
 小説は「表現」と「題材」の二つが刺激しあいながら融合したときに素晴らしい作品となる。本書のように圧倒的な力を持つ題材を選んだ場合、どうしても「表現」のほうが弱くなってしまいがちだが、本書は決して「題材」が一人歩きしてはいない。しっかりと楊逸が己の言葉で表現している。立派な小説だと思う。


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