毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「ユメ十夜」
WOWOW で放送された「ユメ十夜」を録画して見た。06年3月31日の記事に、リンボウ先生が朗読する夏目漱石の「夢十夜」のことを書いたが、その際竜虎の母さんから「夢十夜」が映画化されるというコメントを頂いたのを覚えている。完成したら見に行きたいなと思ってはいたが、なかなか思うに任せずとうとう劇場で見ることはできなかった。それならいつかTVで放送されるのを待とう、と淡い期待を持っていたら、今年になって WOWOW で放送されるようになった。「見なくては」と思いながらもそのたびに見落としてしまったので、9月26日放送されるのを見つけた瞬間に、「今度こそは!」と予約録画しておいた。
おかげで念願かなってやっと見ることができたのだが、正直がっかりした・・。面白くない。題名が「ユメ十夜」となっている時点でもう怪しいなとは思っていたものの、これほど漱石の「夢十夜」を換骨奪胎したものだとは予想だにしなかった。漱石の小説をモチーフにして、あるいはそれからインスパイアされたものを10人の監督・脚本家が一夜ずつ表現するという形式をとっているが、夢か現か判然としない境界を怪しくも美しく表現した「夢十夜」の世界を、単なる映像美のみで捉えようとした作品が多く、途中で早送りしてしまったものもいくつかあった(私の一番好きな「第一夜」などは台無しにされてしまった・・)
ただ、市川崑監督が撮影した「第二夜」だけは出色の出来栄えだったように思う。うじきつよし扮する侍と中村梅之助の坊主の禅問答が白黒のスクリーンの上で繰り広げられる。ただし二人の声は一切聞こえてこず、せりふは無声映画のように画面いっぱいに文字で表される。そのやり取りは「夢十夜」の第二夜に書かれたものを概ねなぞっている。
和尚「お前は侍である」
「侍なら悟れぬ筈はなかろう」
「お前は参禅に来たのだろう」
「そういつまでも悟れぬところをみると、お前は侍ではあるまい」
「人間の屑じゃ」
「ははあ、怒ったな」
「悔しかったら、悟った証拠を持って来い」
チ~~ン(時計の音)
侍「きっと悟ってみせる」
「時計が次の刻を打つ前にきっと悟ってみせる」
「そして悟りと和尚の首を引き換えにしてやる」
(座禅を組む)
「悟らねばならぬ、和尚の首を取る為に悟らねばならぬ」
「しかし、悟れぬ場合は死のう」
(座布団の下の短刀(朱色)を抜く 掛け軸に「無」という字が現われる)
「無、無とは何だ!糞坊主め!」
「無、無、無、無」
(和尚が障子を破って覗く)
「怪しからん坊主だ!どうしても首を取ってやる!」
「無だ、無だ、無を悟るのだ」
チ~~ン
「あッ、時計が・・・」
(短刀を取って)
「死ぬ!」
(切腹をしようとするも・・)
「刺せない・・・」
(何度やっても刺せない。泣き崩れる。そこへ和尚が現われる)
和尚「腹を切ることすらできないのか・・」
「それでいいのだ」
この終わり方は原作とはまるで違う。「ユメ十夜」の他の作品は監督・脚本家のアレンジが相当量加味されていて、まるで原型を留めていないものさえあるが、この市川監督作品はほぼ原作の通りに話が展開している。ただ、二度目に時計がチ~~ンと鳴ってから侍がじたばたするシーンはまったくのオリジナルである。いったいどういう意図でこうした結末にしたのだろうか。これこそ禅問答のようであるが、もう少し考えてみよう・・。
おかげで念願かなってやっと見ることができたのだが、正直がっかりした・・。面白くない。題名が「ユメ十夜」となっている時点でもう怪しいなとは思っていたものの、これほど漱石の「夢十夜」を換骨奪胎したものだとは予想だにしなかった。漱石の小説をモチーフにして、あるいはそれからインスパイアされたものを10人の監督・脚本家が一夜ずつ表現するという形式をとっているが、夢か現か判然としない境界を怪しくも美しく表現した「夢十夜」の世界を、単なる映像美のみで捉えようとした作品が多く、途中で早送りしてしまったものもいくつかあった(私の一番好きな「第一夜」などは台無しにされてしまった・・)
ただ、市川崑監督が撮影した「第二夜」だけは出色の出来栄えだったように思う。うじきつよし扮する侍と中村梅之助の坊主の禅問答が白黒のスクリーンの上で繰り広げられる。ただし二人の声は一切聞こえてこず、せりふは無声映画のように画面いっぱいに文字で表される。そのやり取りは「夢十夜」の第二夜に書かれたものを概ねなぞっている。
和尚「お前は侍である」
「侍なら悟れぬ筈はなかろう」
「お前は参禅に来たのだろう」
「そういつまでも悟れぬところをみると、お前は侍ではあるまい」
「人間の屑じゃ」
「ははあ、怒ったな」
「悔しかったら、悟った証拠を持って来い」
チ~~ン(時計の音)
侍「きっと悟ってみせる」
「時計が次の刻を打つ前にきっと悟ってみせる」
「そして悟りと和尚の首を引き換えにしてやる」
(座禅を組む)
「悟らねばならぬ、和尚の首を取る為に悟らねばならぬ」
「しかし、悟れぬ場合は死のう」
(座布団の下の短刀(朱色)を抜く 掛け軸に「無」という字が現われる)
「無、無とは何だ!糞坊主め!」
「無、無、無、無」
(和尚が障子を破って覗く)
「怪しからん坊主だ!どうしても首を取ってやる!」
「無だ、無だ、無を悟るのだ」
チ~~ン
「あッ、時計が・・・」
(短刀を取って)
「死ぬ!」
(切腹をしようとするも・・)
「刺せない・・・」
(何度やっても刺せない。泣き崩れる。そこへ和尚が現われる)
和尚「腹を切ることすらできないのか・・」
「それでいいのだ」
この終わり方は原作とはまるで違う。「ユメ十夜」の他の作品は監督・脚本家のアレンジが相当量加味されていて、まるで原型を留めていないものさえあるが、この市川監督作品はほぼ原作の通りに話が展開している。ただ、二度目に時計がチ~~ンと鳴ってから侍がじたばたするシーンはまったくのオリジナルである。いったいどういう意図でこうした結末にしたのだろうか。これこそ禅問答のようであるが、もう少し考えてみよう・・。
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