愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

11月の俳句(その1)

2014-11-10 12:44:40 | 俳句

 早くも11月中旬に入ろうとしています。こちらも秋の深まりを感じるようになりました。街の銀杏並木の葉も少しずつ黄葉しています。間もなく銀杏の黄葉の美しい時期を迎えると思います。また、3m位の高さまで伸びた皇帝ダリアの花があちこちに咲いているのを見かけるようになりました。こちらでは前川次郎柿の収穫時期を終え、早生みかんの収穫時期に入っています。今年の夏は雨が多く、日照時間は例年の約50%でしたが、それでも豊かな実りを与えられています。

 今日は11月上旬に詠んだ俳句を紹介致します。

         純白の 花びら映えし 野菊かな

         銀杏の木 少し黄葉 朝陽差し

         晴れやかや 賞に喜ぶ 文化の日

         愛注ぐ 菊の盆栽 愛好家

         次郎柿 収穫終えし 妻のお茶

               早生みかん 届いたの声 弾みけり

               愛情を 注がれ見事 管菊(くだきく)よ

               純白に 気品溢れる 女帝菊

               夕陽受け 柿色増して 赤く見ゆ

               菊の花 香り豊かや 美しき

         大輪の 三本菊の 見事なり

         懸崖の 菊の見事や 立ち止まる

         見上げれば 皇帝ダリア 空を背に

         雨に濡れ ナンテンの実の 赤さかな

         吊るし柿 並び陽を浴び 軒の下 

               見るほどに 気持ち安らぐ 秋のバラ

              菊の愛好家の見事な三本菊「泉郷越前」

                  菊の愛好家の見事な「女帝」

                  菊の愛好家の見事な「懸崖」

                     菊の愛好家の「管菊」

                     菊の愛好家の「盆栽」

               ご近所の庭に咲いている見事な「バラ」

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白のデュランタと秋のバラ

2014-11-10 11:41:31 | 四季折々の花々

 我が家の庭のデュランタの花はこの時期も次々と咲いて来ます。花図鑑では花期は7~9月と紹介されていますが、季候が比較的暖かい地方なので実に長い期間に亘って咲きます。挿し木をすると勢いよく育ちます。ヂュランタはオレンジ色の小さな実を結びます。用途か切り花、鉢植え、庭植えです。花言葉は「独り善がり」です。

 今日は白のヂュランタの花と秋のバラを紹介致します。

                   庭に咲いている「ヂュランタ」

                       庭の「バラ」

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出エジプト記の紹介:「人が男奴隷また女奴隷を棒で打ち死んだ場合」の定め

2014-11-10 11:09:44 | 神の言葉・聖書

 神エホバは、「人が言い争い」、一方が打ちたたき怪我をさせ、労働不能になった場合、被害者が完全に治るまで加害者は補償しなければならない定めを与え、被害者の救済を優先するようにされました(出エジプト記21:18,19)。次いでエホバは主人が男奴隷また女奴隷を棒で打ち死んだ場合の定めを次のように与えました。

 「また、人が自分の男奴隷または女奴隷を棒で打ち、その者が彼(主人)の手の下で死んだ場合、その者のために必ず復しゅうがなされるしかし、その者(男奴隷また女奴隷)が一日か二日生き延びるならば、その者のための復しゅうはなされない。その者は彼(主人)の金銭だからである」(出エジプト記21:20,21)。

 上記の聖句の意味を正しく理解するのは、関連する聖句を調べると明らかになります。当時の男奴隷と女奴隷には保護と特権が与えられていました。

 神エホバがモーセを通して与えた律法は、奴隷を残酷な行為から保護しました。主人の虐待によって奴隷が歯や目を失った場合、その奴隷は自由にされることになっていました。奴隷の価は普通30シュケルでしたから(出エジプト記21:32参照)、奴隷を自由にすることは主人にとって相当な損失を意味し、それゆえに虐待行為に対する強力な抑制力になっていました。

 主人は、親が子供を懲らしめるために打つのと同様に、奴隷を打つことはできましたが、奴隷が主人に打たれて死んだ場合には、裁き人の決定に従い、その主人に復しゅうすることができました。しかし、上の聖句に示されているように、その打ちたたかれた奴隷が死んだとすれば、その主人は奴隷を殺害しょうとしたのではなく、懲らしめるつもりであったことが分かるので。主人に対する復讐は行われませんでした(出エジプト記21:20、21,26、27.レビ記24:17)。そして、主人の罪が問われない場合として、打ちたたくことが致死的な道具(石やくわや鎌や斧等)では行われなかったということが挙げられるようです。致死的な道具で打ちたたくことは、殺害の意図があったことを示すからです(民数記35:16~18)。したがって、奴隷が一日か二日生き延びたら、その死が懲罰の結果かどうかを問題にするのは道理にかなったことだったでしょう。例えば、むち棒で打ちたたくことは普通、命を奪うものではありません。聖書の箴言23章13節の言葉の通りです。次のように書き記されています。「ほんの少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたがむち棒でこれ(子供)を打ちたたくなら、彼は死なないであろう」。通常むち棒で打ちたたく場所はお尻であり、傷を負わせることはありませんでした。またむち棒は主人や親の権威を表しています。

        渋柿の 吊るし並びし 軒の下 今日の一句

               ご近所の菊の愛好家の咲かせた「菊」

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