聖書を学ばれたことのない多くの方々も、「キリスト教」という言葉をご存じでいらっしゃいます。イエスは地上に遣わされ、バプテスマ(水の浸礼)を受け、それから神の王国の良いたよりの真理を都市から都市、村から村、そして人々の集まる会堂や神殿で証しされました(ルカ4:43.ヨハネ8:1)。そのイエスの教えの真理の源は、独自のお考えではなく、イエスのみ父エホバからのものでした。ですから、「キリスト教」といえば、神エホバからの教えを意味するのです。ヨハネの福音書に次のようにイエスの教えの源が記されています。
「祭りがすでに半ばを過ぎた時、イエスは神殿に上って行って、教え始められました。そのため、ユダヤ人たちは不思議に思うようになって、こう言った。「どうしてこの人(イエス)は、学校で学んだことがないのに学識があるのだろうか」。それに対して、イエスは彼ら(ユダヤ人)に答えて言われた、「わたし(イエス)の教えはわたしのものではなく、わたしを遣わした方(エホバ神)に属するのです。だれでもこの方(エホバ神)のご意志を行ないたいと願うなら、この教えについて、それが神(エホバ)からのものか、それともわたし(イエス)が独自の考えで話しているのかが分かるっでしょう。独自の考えで話す者は自分の栄光を求めています。しかし、自分を遣わした方(エホバ神)の栄光を求める者(イエス)、これは真実な者であり、そのうちに不義はありません」(ヨハネ7:14~18)。
上の聖句に記されている通り、イエスの教えの源は、神エホバであることを明らかにされています。イエスはご自分の独自の考えで教えることはなかったのです。イエス・キリストはイエスを地上に遣わされたみ父エホバ神の栄光を求めました。そのため、イエスは不義のない、真実の者であることを証しされています。
「自分はキリスト教です」と言いながら、神エホバの栄光を求めず、イエスを神にしたり、マリアを崇拝させているなら、それは真のキリスト教ではありません。また、人間を「神父」や「牧師」と呼ぶ呼称は、聖書のどこにも記されていません。そのような呼称はエホバ神に栄光を帰すものではなく、自分を高める教えです。
あなたも、イエスの教えを守り行なう「思慮深い人」のお一人であれば幸いです(マタイ7:24,25)。
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