イエスは、傲まんな書士やパリサイ人たちに、辛抱強く神エホバのご意志を証しされました。
モーセの律法はいまや成就しつつあるので、その律法を守る義務はなくなります。モーセの律法は様々理由で離婚を許していますが、イエスは次のように話されました。「自分の妻を離婚して別の女性をめとる者はみな姦淫を犯すのであり、夫から離婚された女性をめとる者は姦淫を犯すことになります」。パリサイ人はこのイエスの話しを聞いて、大いに腹立たしく思ったに違いありません。パリサイ人たちは多くの理由を根拠にして離婚を認めるので、なおのこと腹立たしく思ったことでしょう。
イエスはパリサイ人たちに対して話しを続け、身分、つまり立場がついには逆転する二人の人に関する話しをされました。二人の人は誰を表すか、またその立場の逆転にはどのような意味があるのでしょうか。
イエスは次のように説明されました。「ところで、ある富んだ人がいて、紫と亜麻布で身を飾り、豪しゃな日々を楽しんでいました。一方、ラザロいう名のあるこじきは彼の門の所に置かれ、かいようだらけの身で、その富んだ人の食卓から落ちる物でお腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた、犬が来ては彼のかいようをなめるのでした」。
イエスはここで、ユダヤ人の宗教指導者たちを表すために富んだ人を用いています。その宗教指導者たちの中には、パリサイ人や書士たちだけではなく、サドカイ人や祭司長たちも含まれていました。彼らは神エホバ神から出る霊的な特権と機会に恵まれているため、富んだ人のように振舞いました。彼らの青みがかった紫の衣服は恵まれた身分を表しており、白い亜麻布は彼らが独善的であることを示していました。
富んだ人に属するそれらの誇り高い人々は、一般の貧しい人々をアム・ハーアーレツ、つまり地の民と呼んで徹底的にさげすんでいました。こじきのラザロは、宗教指導者たちから相応の霊的滋養物や特権を与えられていない人々を表しています。それで、一般の人々は、かいようだらけのラザロのように見下げられ、霊的に病気で、犬としか付き合えないとみなされていました。しかし、ラザロで表わされている人々は霊的滋養物に飢え渇いているので、富んだ人の食卓から落ちる霊的植物がどんなにわずかな量であっても、それを受取ろうとして門の所にいるのです。
イエスは次に、富んだ人とラザロの状態の逆転を説明されます。どのように逆転するのでしょうか。またそれらの逆転は何を表しているのでしょうか。引き続き次回にお伝え致します。
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