庭に釣鐘水仙の花が咲いています。
植えた記憶は全くないのですが、春に咲く草花です。
花に詳しい方のよれば春の花と紹介されました。
暖かい春の爽やかな花です。
「お詫び」:花の名前を間違っていましたので再度訂正し、紹介致します。
今日は釣鐘水仙の花と雨に濡れた大輪のボタンの花を紹介致します。
庭に咲いている「釣鐘水仙の花」
庭に咲いている「雨に濡れた大輪のボタンの花」
- 雨に濡れやや下向きになりました -
庭に釣鐘水仙の花が咲いています。
植えた記憶は全くないのですが、春に咲く草花です。
花に詳しい方のよれば春の花と紹介されました。
暖かい春の爽やかな花です。
「お詫び」:花の名前を間違っていましたので再度訂正し、紹介致します。
今日は釣鐘水仙の花と雨に濡れた大輪のボタンの花を紹介致します。
庭に咲いている「釣鐘水仙の花」
庭に咲いている「雨に濡れた大輪のボタンの花」
- 雨に濡れやや下向きになりました -
庭に珍しいハクサンシャジンの花が咲いています。
植えた記憶は全くないのですが、珍しい山野草です。
山野草図鑑では花期は7月~8月の夏の花と紹介されています。
暖かい日が続くので花も夏と間違ったのだと思います。
今日は珍しいハクサンシャジンの花と雨に濡れた大輪のボタンの花を紹介致します。
庭に咲いている珍しい「ハクサンシャジンの花」
庭に咲いている「雨に濡れた大輪のボタンの花」
- 雨に濡れやや下向きになりました -
皆様方も優しい愛情に満ち、憐れみ深い方であれば幸いです。その手本を残されたイエスは、命を狙われても都市から都市、村から村に移動し、み父エホバ神のご意志の神の王国の良い便りを宣明されました。
何週間か前、エルサレムで献納の祭りが行われていた時、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスは北に向かい、ガリラヤの海からさほど遠くない地方へ行かれたようです。このところイエスは、再び南のエルサレムに向かって進み、途中、ヨルダン川の東の地域にあるペレアの村々で神の王国の良い便りを宣べ伝えて来られました。富んだ人とラザロに関する話しをした後、イエスは続けて弟子たちに、以前ガリラヤで教えた事柄を教えられます。イエスは絶えず真理を証しされます。
その教えは、神エホバに属する「小さな者」の一人をつまずかせるよりは、「臼石を首にかけられて海の中に投げ込まれるほうがましである」、と、イエスは話されました。また、他の人を許さなければならないことを強調して、「例え兄弟があなたに対して一日に七回罪を犯し、「私は悔い改めます」と、言ってあなたのもとに七回戻って来たとしても、あなたはその人を許してあげなければなりません」と、説明されました。
イエスの弟子たちが、「私たちにさらに信仰をお与えください」と、懇願すると、イエスは、「あなた方にからしの種粒ほどの信仰があったなら、この黒桑の木に、「根こそぎ抜かれて、海に植われ!」と、言ったとしても、それはあなた方に従うでしょう。ですから、堅く信仰に立てば、神エホバの聖霊の助けによって、大きなことが成し遂げることが出来るのです。
次にイエスは、全能の神エホバの僕にふさわしい態度を生活の中で証しする、実際にありそうな状況を描いて次のように話されました。「あなた方の中に、畑をすき返したり、羊の群れの番をしたりする奴隷(当時の奴隷とは日雇い労働者のこと)がいて、その者が野から帰って来ると、「すぐここに来て、食卓について横になりなさい(当時は食事を横になってする習慣でした)」と、言う人がいるでしょうか。むしろ、「私の晩さんのために何か用意し、前掛けをかけて、私が食べたり飲んだりし終わるまで私に仕えなさい。その後、あなたは食べたり飲んだりしてよろしい」と、言うのではありませんか。奴隷が割り当ての事をしたからっと言って、その人は恩義を感じたりはしないではありませんか。ですからあなた方も、自分に割り当てられたことを全部した時には、「私たちは何の役にも立たない奴隷です。私たちのした事は、当然すべきでした」と、言いなさい」。このイエスの教えからお分かりの通り、私たちは神エホバに仕えることにより、神エホバに信頼されている成員として、謙遜に神エホバに仕える特権が与えられていることに深く感謝致しましょう。
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アネモネの 紅色庭の 映えにけり 今日の一句
卓上の活け花
市内の家具店の駐車場の脇に早くも紫蘭が咲いていました。
紫蘭は比較的小さな花ですが、鮮やかな緑の葉と花色の
コントラストが美しい花です。
花期は花図鑑では5月と紹介されています。
用途は切り花、鉢植え、花壇です。
花言葉は「華やかな恋」と紹介されています。
今日は紫蘭と宇和島城からの宇和島湾の風景を紹介致します。
家具店の駐車場脇に咲いていた「紫蘭」
宇和島城から見る「宇和島湾の風景」
- 中央奥に見えるのは九島です -
現在の対処しにくい危機の時代に生活する私たちにとって、不義、不公正の蔓延する社会に落胆してしまうことがあるでしょうか。しかし、イエスの「富んだ人とラザロ」の話しから、天には愛と公正(義)の神エホバがおられ、義なる生き方の人々に報いを与えてくださることをご理解してくださり、希望に堅く立たれますことを願っています。イエスの例えの話しの中で富んだ人とラザロの立場が逆転した時、苦しみを和らげてもらいたいと思いました。イエスの話しは次のように続きます。
「しかし、アブラハムは言いました、「子(富んだ人)よ、あなたが自分の生きている間に、自分の良い物を全部受け、それに対してラザロが良くない物を受けたことを思い出しなさい。しかし今、彼(ラザロ)はここで慰めを得、あなた(富んだ人)は苦もんのうちにある。そして、これらすべてに加えて、私たちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており、そのため、ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず、人々がそこからも私たちの所に渡って来ることもできない」」。
富んだ人級とラザロ級の間でそうした劇的な逆転が生じるのは、確かに公正なことであり、適切なことでもあります。その時から数か月後の西暦33年のペンテコステの時に、新しい契約が古い律法契約に取って代り、状態は完全に変わりました。その時、神エホバの恵みを受けるのはパリサイ人や他の宗教指導者たちではなく、イエスの弟子たち・真のクリスチャンたちであることは間違いありません。それで象徴的に富んだ人とイエスの弟子たちとを隔てている「大きくて深い裂け目」は、変わることのない、義にかなった神エホバの裁きを表しています。
富んだ人は次に、「父アブラハム」に、「ラザロを私の父の家に遣わしてください。私には五人の兄弟がいますから」と、頼みました。富んだ人がこうして、もう一人の父親との関係のほうが親しいことを認めました。その父親とは悪魔サタンのことです。富んだ人は宗教上の同盟者である「五人の兄弟」が、「この責め苦の場所」に来なくてすむよう、ラザロが神エホバの裁きの音信に手心を加えることを求めました。
「しかしアブラハムは言いました、「彼らにはモーセと預言者たちがある。それに聴き従えばよい」」。そうです、もし「五人の兄弟」が責め苦を免れないのであれば、イエスがメシアであることを明らかにしているモーセと預言者たちの書・聖書に注意を払って、イエスの弟子・真のクリスチャンになれば良いのです。ところが、富んだ人は次のように異議を唱えました。「いいえ、そうではありません。父アブラハムよ、だれかが死人の中から行けば、彼らは悔い改めることでしょう」。
しかし富んだ人は、「モーセや預言者たちに聴き従わないなら、だれかが死人の中からよみがえっても、やはり説得に応じないであろう」と、言いました。人々を納得させるために神エホバが特別なしるしや奇跡を備えることはありません。神エホバの恵みを得たい人は、聖書を学び、その教えを適用しなければなりません。(ルカ16:14~31.ヨハネ9:28,29.マタイ19:3~9.ガラテア3:24.コロサイ2:14.ヨハネ8:44)。
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イチジクの 芽吹きのありし 夏を待つ 今日の一句
お隣の庭の「フリージア」