イエスが話した「ぶどう園の働き人」の「最後の者」は、イエスの弟子たちであることが分かりました。ついに、象徴的な仕事日がイエスの贖いの死と共に終わり、働き人たちに支払いをする時が来ます。異例な取り決めに従って、最後の者が最初の支払いを受けます。イエスは次のように説明されています。「夕方になった時、ぶどう園の主人は管理の者に言いました、「働き人たちを呼んで、賃金を払いなさい。最後の者から始めて順に最初の者にまでゆきなさい」。第11時の者たちが来て、各々1デナリを受け取りました。それで、最初の者たちが来た時、自分たちはもっとたくさん賃金を受け取れると考えました。ところが、彼らもやはり1デナリの賃金の支払いを受けました。それを受け取ると、彼らは家あるじに向かってつぶやきはじめ、「これら最後の者は、1時間働いただけだ。それなのに、あなたは彼らを、1日の重荷と焼け付く暑さに耐えた私たちと同等にした!」と、不平を言いました。しかし家あるじは、彼らの一人に答えて言いました、「君、私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリで合意したではないか。あなたの分を受け取って、行きなさい。私はこの最後の者にもあなたと同じように与えたいのだ。私が自分のもので自分の望むことを行ってもよいではないか。それとも、私が善良なので、あなたの目はよこしまになるのか」」。イエスは最後にもう一度前に述べた要点を繰り返し、「このように、最後の者が最初に、最初の者が最後になるでしょう」と、説明されました。
1デナリを受け取るのは、イエスが贖いの死を遂げられる時ではなく、「管理者」であるイエス・キリストがご自分のっ弟子たちの上に聖霊を注がれる西暦33年のペンテコステの時です。それらイエスの弟子たちは「最後の」、すなわち第11時の働き人のようです。1デナリは聖霊の賜物それ自体を表しているわけではありません。1デナリは弟子たちがこの地上で用いるものです。それは、弟子たちの暮らしや永遠の命を意味するものです。それは、神の王国の良い便りを宣べ伝えるために油注がれた霊的なイスラエル人になるという特権です。
最初に雇われた人たちはやがて、イエスの弟子たちが支払いを受けたことに気付きます。そしてそれらの弟子たちが、象徴的な1デナリを用いているのを目にします。ところが最初の者たちは、聖霊やそれに関連した神の王国の特権以上のことを望みました。彼らのつぶやきや不満は、ぶどう園の「最後の」働き人である、イエス・キリストの弟子たちを迫害するという形を取りました。
イエスの話された話しの成就は、その当時の1世紀における成就だけで終わるのではありません。20世紀のキリスト教世界の僧職者たちは、その立場や責任のゆえに、神エホバの象徴的なぶどう園での仕事のために雇われた「最初の者」となって来ました。彼らは、ものみの塔聖書冊子協会と交わる献身した真のクリスチャンたちを、神エホバへの奉仕において何らかの正当な割り当てを持つ者の「最後の」者とみなしました。しかし実際には、1デナリ、すなわち神エホバの天的王国の油注がれた大使として仕えるという誉れを受けたのは、僧職者たちが見下げた、油注がれたクリスチャンたちでした。(マタイ19:30~20:16)。
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池荒れし 牛カエル鳴く 散歩道 今日の一句
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裏庭の「リンゴの花」