イエスは、「富んだ人が神の王国に入るよりは、らくだが縫い針の穴を通るほうが易しいのです」と、教えられました。
イエスの弟子たちが知りたいのは、「実際のところ、だれが救いを得られるのでしょうか」と、いうことです。
イエスは、弟子たちを見て、「人には不可能でも、神(エホバ)にとってはそうではありません。神にとっては全てのことが可能なのです」と、教えられました。
ペテロは、自分たちがあの若い富んだ支配者とは大いに異なる選択をして来たことに触れて、「ご覧ください、私たちはすべてのものを後にして、あなたに従ってまいりました」と、述べました。それで、「実際のところ、私たちのためには何があるのでしょうか」と、イエスに尋ねました。
イエスは、「再創造の際、人の子(イエス)が自分の栄光のの座に座る時には、私に従って来たあなた方自身も、十二の座に座り、イスラエルの十二の部族を裁くでしょう」と、約束なさいました。イエスは、物事がエデンの園の場合のようになる、地上の状態の再創造があることを示しておられたのです。そして、ペテロや他の弟子たちは、全地に及ぶこの楽園をイエス・キリストと共に支配するという報いを受けるのです。確かに、そうした素晴らしい報いには、どんな犠牲おも払うだけの価値があります。
しかし、今日でも数々の報いがあります。イエスは、「私のため、また(神の王国の)良い便りのために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、あるいは畑を後にして、今この時期に百倍を、すなわち家と兄弟と姉妹と母と子供と畑を迫害と共に得、来たらんとする事物の体制で、永遠の命を得ない者はいません」と、はっきり教えられました。
イエスが約束しておられる通り、イエスの弟子・真のクリスチャンたちは、世界のどこに住んでいても、実の家族との関係よりも緊密で貴重な、仲間のクリスチャンたちとの関係を享受しています。若い富んだ支配者はどうやら、この報いも、神エホバの神の王国における永遠の命と言う報いを失うことになりそうです。
それからイエスは、「しかしながら、多くの最初の者が最後に、最後の者が最初になるでしょう」と、説明されました。この立場の逆転はどういう意味でしょうか。
イエスは、若い富んだ支配者のように、宗教上の特権を享受する点で最初の者である多くの人は、神の王国に入らない、と教えておられるのです。彼らは「最後」になるのです。しかし、イエスの謙遜な弟子たちのように、独善的なパリサイ人たちから「最後の民」、「地の民」、つまりアム・ハーアーレツとして見下されている多くの人たちは、「最初」になるのです。「最初になる」とは、彼らが神の王国でイエス・キリストの共同支配者になる特権を与えられるという意味です。(マルコ10:17~31.マタイ19:18~30.ルカ18:18~30)。
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