イエスはご自身の残された命があと数日しかないことを知っておられますから、ご自分の状況を適切な例えを用い次のように話されました。「人の子(イエス)が栄光を受けるべき時が来ました。きわめて真実に言いますが、一粒の小麦は地面に落ちて死なない限り、それはただ一粒のままです。しかし、死ぬならば、その時には多くの実を結びます」。
ご承知の通り、一粒の小麦にはわずかな価値しかありません。しかし、土の中にまかれて「死ぬ」、つまり種としての命を繋ぐならどうでしょうか。それはやがて芽を出し、時たつうちに茎を伸ばし、非常に多くの穀粒を生み出します。同じように、イエスもただ一人の完全な人間ですが、神エホバへの忠実を保って死ぬなら、イエスは、ご自分と同じ自己犠牲の精神を持つ忠実な人々に永遠の命を与える手段となるのです。それでイエスは次のように言われました。「自分の魂(命)を慈しむ者はそれを滅ぼしますが、この世(人類社会)において自分の魂(命)を、他の人のために投げ打つ者は、それを永遠の命のために保護することになります」。
イエスは、自分の命の事だけを考えておられないことは明らかです。というのはイエスは次のように説明されたからです。「だれでも私(イエス)に仕えようとするなら、その人は私の後に従いなさい。そうすれば、私のいる所、そこに、私に仕える者もいることになります。だれでも私に仕えようとするなら、父(エホバ)はその人を尊ばれます」。イエスに従い、仕える者には何と素晴らしい保証された報いがあるのでしょう。それは神の王国でイエス・キリストと共にいるという栄誉を、神エホバから与えられるという保証された報いなのです。
イエスは非常な苦しみと苦悩が伴う死が待っていることを考えながら、次のように言葉を続けられました。「今私の魂(体全体)は騒ぎます。何と言えば良いのでしょう。父(エホバ)よ、私をこの時(直面する死)から救い出してください」。イエスの数日後に迫っている死を避けることができれば、どんなに良いことでしょう。しかし、それは出来ません。イエスは、「私はこのゆえにこの時に至ったのです」と述べられました。イエスは、ご自身が贖いの犠牲としての死を遂げることを含め、み父エホバ神の取り決め全てに従順に同意しておられました。(マタイ21:12,13,18、19.マルコ11:12~18.ルカ19:45~48.ヨハネ12:20~27)。
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花の咲いた時期の「甘夏柑」