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山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

なぜ兼業農家を続けるのか(2)

2013-12-04 | 農業

 次に、兼業農家が生まれる形態の第2番目です。これは、事業継承によるものであろうと思います。農家の場合には、事業の継承と農地の継承とは不可分のものとなります。戦前の父家長制度の下では、家督相続が原則で長男が全てを相続することとなっておりました。次男等が分家するなどで独立する際には、農地を分与したり、農家に嫁に出すにあたって持参金代わりに贈与することも行われていたようです。

 現行民法においては、均分相続を原則としておりますので、農地が分散する傾向にあります。これは農地の活用価値が高ければ、農地の集積に反する要因となることでもあります。誰しも価値が高い財産は、多くの分け前が欲しいと思うものです。農地が高値で売買できるとするならば、農地はそれこそ雲散霧消してしまうことでしょう。均分相続はこのことに拍車をかけることにもなりかねません。

 本論から外れてしまいましたが、相続等の事業継承により農地を受け継いだ場合には次のようなケースが考えられるでしょう。受け継いだのが退職後で、他に職業を持たない場合には専業農家となることになりますが、一方で高齢化の問題にも早晩直面することになるでしょう。兼業化するのは、継承時点で他の職業を有している場合です。この場合には二つの選択肢が考えられます。一つは、継承を期に退職し専業農家となることです。もう一つが、現在の職業をしながら農業に従事することです。これが、第2番目の兼業農家が生まれる形態です。

 更に、事業継承が行われなかった場合には、農地は他の耕作者に貸すなどして耕作が維持されるか、いわゆる耕作放棄地となるかの何れかでしょう。前者の場合には、大規模農家に農地を集約できる可能性があります。ですから相続等の事業継承にあたって、農地集積(集約)化の新たな制度を設けることも検討されるべきなのではなかろうかと考えます。

 さて、このように農地を受け継いだ兼業農家は、本業とは別に農業に従事することになります。「減反政策について(2)」のような週末農業といわれるような、いわれの無い批判を受けることにもなります。農家の子弟としては、何時の日か訪れる現実であります。農業に従事していなかった者にとって大きな選択を迫られます。正直言って、処分できるものならば売却して幾ばくかの現金を手に入れたいと考えるのが自然の流れだと思います。都市近郊の農地は、このようにして商工業用地や宅地として多くの土地成金を生み出したことでしょう。しかし、これが出来ない田舎の農地は如何ともし難いものがあります。ましてや故郷を離れ都市生活しているとするならば、農地の管理だけやりなさいと言われたら尚更のことであろうと思います。このような場合には、その多くは耕作放棄地となってしまうことでしょう。

 兼業農家となった多くの方々は、先祖が代々苦労して取得し、耕し、養ってきた農地を荒らすに忍びず、自分の代で農家を終わらせたくないとの思いがあってのことだと想像します。人並みに休日だって欲しいのです。ゴルフに行ったり、釣りに行ったりなどの趣味に費やす時間も欲しいのです。ただでさえ、農繁期には休暇を取らざるを得ないといった引け目を感じながら勤務しなければなりません。休日には、賦役作業もあります。生産組合などの会合にも顔を出さねばなりません。全てが二重生活にも等しい苦労を重ねなければなりません。この重労働の成果として、利益が上がれば報われますが、赤字の連続では浮かばれません。

 挙句の果ては、補助金目当てに農地を手放さないとか、兼業農家の存在が農業の近代化を阻害している諸悪の根源だと識者から罵声を浴びせられます。高々一万数千円の補助金を目当てに兼業農家をしていると本気でお考えなのでしょうか。別に稼ぐ方法があるのにも関わらず、赤字覚悟の上で農作業に従事しているという実情が理解できず、このような結論しか導き出せないのだとすれば、識者ご自身の思考回路を一度チェックすべきであろうと申し上げます。

 以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(3)」に続く。

 「なぜ兼業農家を続けるのか(1)」へ戻る。 


なぜ兼業農家を続けるのか(1)

2013-12-04 | 農業

 兼業農家は農業経営の一形態です。以前より多くの批判が浴びせられております。曰く、農地を手放さないから集積(集約)化の阻害要因となっている。曰く、多額の補助金をもらうなど優遇され、経営努力を怠り、のうのうと農業を続けている。などなど、一々指摘していると枚挙に暇がありません。

 このようなご批判に対して兼業農家からの反論が少ないようですので、兼業農家の立場として一言いわせていただきたいと思います。もとより、以下の記述は、一零細兼業農家である私の個人的見解であるということを申し添えておきます。また、一部過激な主張が含まれるかも知れませんので、予めお断りしておきます。

 前置きはこれくらいにしまして、先ず兼業農家がどのようにして生まれているかという点に着目したいと思います。戦前の農業は、少数の大規模地主と多数の小作人といった関係が多く、自作農は少数派であったと学びました。即ち、農地の所有と耕作が分離していたのです。このことは少数の地主が、農地を所有しているということだけで多くの富を集め、そして多数の貧困を生みました。この反省に立って、戦後の自作農創生の名の下、農地改革が実施され小作農者が農地を所有するに至りました。私の先祖(祖父)の場合でいうと、当初40アール程の農地から出発し、その後も努力し農地を増やし120アールとしました。これは、私の生家(福岡県大木町)の近辺では、平均的な規模であったように記憶しております。作物は、米・麦・い草(畳表の原材料)が主体でした。中には、織機を導入し、畳表や筵(むしろ)を製造している農家もありました。私の家でも筵を織っておりました。私事ですが、私の右手の薬指は指先の5ミリほどが欠損しております。これは私が3歳のころ筵機(むしろばた)の鋏で切り取られたことによるものです。このように、爺ちゃん婆ちゃん、父ちゃん母ちゃん皆が、早朝から深夜まで働き詰めに働いておりました。子供も学校から帰ってくると手伝いに駆り出されます。夏休み等もい草刈りなどで、炎天下にこき使われるのです。その他の農繁期も同様です。それでも収入は、当時は安いと言われた公務員の給与にも満たないようなものでしかなかったのではないでしょうか。子供心にも農業なんてやってられるかと思っておりました。

 そして始まった減反政策です。これに期を一にしてレタス、ナス、オクラなどの蔬菜栽培なども手掛けた時期もありました。その後、イチゴ栽培に移行したのもその一環でしょう。施設園芸を行うとなると多額の投資と人手が必要となります。また、栽培法の知識の習得など多くの課題があります。また、新規の産地立上げともなると販路の開拓などといったことも問題となります。

 このような課題に果敢に挑戦し、しまいにはカイワレダイコンの水耕栽培にまで取組んだ父でしたが、「もう農業に未来は無い」と兼業農家となりました。私が大学に進学して数年たった頃だと記憶しております。学費その他が必要なこともあったでしょうし、後継者がいなくなったということもあったでしょう。近在の半導体工場で仕事をするようになりました。誰がこのことを責めることが出来るでしょうか。経営努力を怠った結果だと言えるでしょうか。生きていくために必要な選択であったと考えます。

 ここに、兼業農家となる一形態をみることができます。即ち、農業では収益が上がらないという問題です。だから副業を行う。これが果たして非難の対象といえるのでしょうか。企業の収益性が低下してくると、新たなビジネスチャンスを求めて多角化することは、至極当たり前のことのことであって、一頃はもてはやされていたではありませんか。企業の場合には、海外を含めて場所を移転することも出来るでしょう。しかし、農家は農地を離れるわけには参りません。農地と不可分一体となった経営形態しかとることが出来ないのです。

 元来、農家は多くの副業を持っておりました。古くは、草鞋、箒などを寸暇を惜しんで、日用雑貨などを供給してきました。また、農閑期には出稼ぎや日雇いに行くなどで、高度経済成長を支えてきました。先に書いたゴザ(畳表)や筵を織るなどなど、収入を求めてありとあらゆることをこなして生きてきたのです。このことが、そもそも百姓と言われる所以なのではないでしょうか。

 以下、「なぜ兼業農家を続けるのか(2)」に続く。

<参考> 「農業ことはじめ(9)-兼業農家について