公園の体をなしてはいるが荒れ放題だ。
今どきの子供たちの姿は、勿論こんな所には存在しない。
それでも、誰かが野焼きをしているようだし
置き忘れたのか、まだ使える軍手があった。
ベンチの板は破れ、囲いの鉄柵棒は錆びているが
不思議とトイレだけが新しいような気がする。
デッドスペースを縦横斜めの線が自由に走っていた
草ボウボウの広場だった。
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公園の体をなしてはいるが荒れ放題だ。
今どきの子供たちの姿は、勿論こんな所には存在しない。
それでも、誰かが野焼きをしているようだし
置き忘れたのか、まだ使える軍手があった。
ベンチの板は破れ、囲いの鉄柵棒は錆びているが
不思議とトイレだけが新しいような気がする。
デッドスペースを縦横斜めの線が自由に走っていた
草ボウボウの広場だった。
m
秋の日和のように鮮やかな鬼灯。
少し前にYがアップした食べられるものと
観賞用のものですが・・亡くなられた下の家の姉さんは
少し苦い観賞用のものを美味しそうに食べてみえました。
種をぐじゅぐじゅと揉んで取り出し風船のようにして
鳴らすのですが、丁寧に時間をかけないと袋が破けてしまって、
それほど短気ではないのに難しかった覚えが懐かしいです。
コルチカムが芙蓉の間から伸びてきました。
影になっているので色彩が薄めですが・・
本来はもう少し美しいピンクになります。
これももう一つの秋色と言えますね。
m
今年の彼岸花は、去年より1週間以上前に一斉に咲き出して
直ぐに花の色が薄れてしまった。今はすがれてしまったものや
すでに姿を消してしまったものが多くて、土手や田んぼの畦が
変哲もない緑一色に戻ってしまった。でも、画像の中の花は
鮮やかなので、遅まきながらUPしておく。
Y
一昨日の夜。
夕方から雨になり、雷も鳴っていたが、9時過ぎ外に出ると
十六夜の月が上っていた。村雲の流れが速く、月の形はなかなか
はっきりとは見えなかったが、咲きそろい始めた庭先のシュウメイギクと
組み合わせてみた。10時半ごろにもう一度出てみると
雲はすっかりなくなって、煌煌とした月が中天にかかっていた。
寝るころにはその月が天窓から差し込み、mの顔にまともにかかって
暫く寝られなかったらしい。
Y
彼岸入りの前から咲き始めた曼珠沙華。
中日のころには褪せて終わりを告げていました。
ちょっとあっけなくて、急ぎすぎた曼珠沙華でした。
この写真は、関市迫間のあたり。
今年は花が少なくて真っ赤な絨毯にはならなかったけど
何処かの有名地では、コロナのために、観光客を寄せ付けないために
全ての曼珠沙華を無残に切り取ったとのこと。
そうまでしなくても・・残念。
m
酒田から、身体はとっくの昔に戻っているのだが、
途中で撮った画像はまだ残っている。
上は確か村上市の外れの、少し山に入ったところにあった
観音堂?
下は糸魚川市から山側にどんどん登っていく道の途中。
登るにつれて雲が湧き出して、雄大な風景に見惚れてしまった。
Y
ヒコーキ雲が一直線に伸びて、膨らんで
広がって・・鱗雲を作りました。
秋の一日が清々しく通り過ぎていきました。
今日は中秋の名月で満月らしいのですが
午後からこちらは下り坂になってきました。
m
よく見るとちょっと怖い。
よく見るとちょっと魅かれる。
そんな感覚が旅の途中の撮影を促してくれます。
誰の似顔絵なのか。描かれた本人は
もっと綺麗に描いてよと言ってるかもしれません。
あまり喜ばないようにも思えてきます・・しかし
芸術とはこういうものだとなんとなく納得します。
伸びている電柱の影は行く道筋を指示していて
すっきりと夏空に似合っていました。
m
上は数日前の朝、採った花オクラ。
下は取り残した花オクラ。
日に透かすと花弁の影がかざぐるまの羽根に
見える。繊細で気品のある造形と色合いだ。
しかも食べられる。嬉しい花だ。取り残された花は
一日で落ち、すぐにさやが膨らんで中に種が出来てくる。
但し熟すまでにはかなりの日数が必要で、寒くなる前に
熟さないと、来年の種が出来ない。今年はどっさり種が
取れそうだ。
Y
その時期、藤の花で一杯になる池では
月を愛でることができないという意味の池らしい。
誰一人いないし、勿論夏では花の形もない。
岩が丸い、アルファベットのCを逆もじっていたり
口のように見える岩もあり・・手入れされておらず
店屋は閉じたまま、草はぼうぼう。寂びれた不気味に思える池だった。
一度、三日月の滝という標示があったので行ってみると
心細いガタガタ道になり、とうとう先が沢を登る
というところまできてしまったが滝の影も形も
見えなかったことがあった・・その時とどこか相似していた。
新潟県糸魚川市の外れにて
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